可愛い山

6話 平の二夜 平の半日(4)

8,324字 約17分 2016年3月17日 公開

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 やっと都合をつけた土曜日と日曜日。金曜の午後大阪を立って名古屋で乗りかえ、塩尻(しおじり)で目をさまして窓を覗くと空は真暗である。松本下車、いやにあたたかい。これはいけない、折角の二日間を雨にでも降られた日にはことだ……と思いながら、一時間ばかり経って大町行きの一番電車に乗った。十一月六日のことである。

 電車が動き出す頃には、まったく夜が明けた。果して雨模様である。東の方はまだいくらかましだが西の方は大変な雲で、前山のあたり、渦を巻いていたりする。もちろん山は見えない。

 もうすっかり冬の景色である。綺麗に刈りとられた水田はカラカラに乾き、真白く霜さえ見える。借金までして山を見に来たのに、この調子では先ず絶望らしい。仁科(にしな)の炬燵にもぐり込んで白馬錦(はくばにしき)をのみながら、ばあさんの()み声でも聞くのが関の山かと思う。「仁科」はうどんや。「白馬錦」とは地酒の名である。大町から山に登る人は大勢あっても、こんな妙なことを知っている人は、たんとはあるまいと、威張ったところでうどんやと地酒では仕方がない。

 穂高(ほだか)有明(ありあけ)安曇追分(あずみおいわけ)と行くうちに、突然空の一部分が口をあいて、安曇平野の一部に、かなり強い日光を投げつけた。直径約一里ぐらいであろうか。山の裾と、山に入って行く広い谷の一部分とを含む不規則な円形。そこは、他の場所の鼠色に比較して、毒々しいまでに鮮かな色彩を見せた。全体の調子は、もう全く枯れ切った雑草や灌木の、黒ずんだ褐色である。それに、何の木か、血のような紅葉、更に浮き上るような黄色い落葉松。我々が大阪附近でいうもみじは、如何に多くかたまっていても、こう一時に紅葉しないから、たとえ一本の樹であっても、紅、赤、黄、緑、茶というような色々の色彩が集って、何とも形容の出来ない、やわらかな美しさを見せる。それに反して、ここ信州も北の方の高原では、紅葉するものは何から何まで一度に紅葉してしまい、二度三度と霜が来るに従って、むやみに色を濃くする。殊にこの朝、灰鼠色(グレーいろ)の天地の中に、ポカリと浮いた木々の紅葉は、植物というよりも何か動物の臓腑を見ているようで気味が悪かった。

 大町に着いて電車を下り、クルリと空を眺め廻す。天頂(てっぺん)いささか雲切れがして青が見えるが、それでも雲の動きが早いので、いつ隠れるか判らない。冬外套の襟を立てて、ガランとした広い路を歩く。

 対山館の三階の山に面した部屋。三重に覆いをかけた大きな炬燵に肩までもぐり込んで、S、K両氏と話をする。一昨日は悪い天気で心配したが、昨日は実にいい天気で、この調子なら二、三日は大丈夫と思っていたのに今日はまたこんなありさま、だが午後からは晴れるかも知れないと、亀の子のように首をのばして、硝子ごしに北西の方角を見ると、籠川(かごがわ)のあたり濛々と霧雨が渦をまいている。時々、バラバラと時雨れて来る。これが山では雪、カラッと晴れると、本当に綺麗な雪の尾根が見えるんだが……と言ったところで、カラリと晴れないのは仕方が無い。バットを喫い茶をのみ、むなしく数時間を送ったが、さりとて無聊に苦しんだのでもない。半年ぶりに逢った友達とは、かなり話の種がわいて来る。

 昼からちょっと東の方の山へ行った。この山、乗越(のっこし)を越えた所に鳥焼きの場所があり、実は天気さえよければ天幕をかついで出かけ、明日未明に鳥がカスミにかかるのを見て帰るつもりだったが、第一天気はこの通り、おまけにヒューヒュー風が吹くので、山の裾から引っ返して予定の如く仁科へ寄り、店の炬燵にがんばって、じいさま、ばあさまの昔話を聞いた。座敷があるのに通らず、店に坐り込んで只の茶を飲むことを、大阪のお茶屋でも油むしというそうだが、その油むしをやった訳になる。だが、じいさまも――名古屋の生れで大阪にいたり大連にいたりした――ばあさまも一向いやな顔をせず、その中に若い芸者が遊びに来たので、ますます昔話がはずんだ。ところへ隣から薬湯をわかしたからとの招待が来た。ばあさま、我等に向って、

「今日は早くけえって、あすまた遊びにおいで。」

 往来に出ると、もう暗い。カサカサになった桑の葉に、冬の風が音を立てる。Sさんと私とは、並んで立小便をした。

 旅のつかれに、いささかなる酒の酔が加わって私はグッスリ眠った。そして暁近く、何故ともなく目をさまして、見ると障子のガラスと硝子戸とを通して、黒い空に白い山。白い山と、後で知ったからこそ言うが、その時は只一面に白いものが、北西の方に当って黒い空をさえぎると思った丈であった。

 またひとねいり、話声に目をあけると、あたりは明るい。頭をもたげる……ハッとばかりに飛び起きて、床の間に置いた眼鏡をかけた。何という素晴らしい景色だったろう。

 私は寝間着のまま廊下に出た。硝子戸をくって物干台に出る。霜を踏む。寒い空気が身体をとりまく。それ等のみの故にもあらず、私は異常な緊張を感じて、骨の髄まで身を震わせた。蓮華(れんげ)(じい)鹿島槍(かしまやり)、五(りゅう)……とのびて、はるか北、白馬(しろうま)(やり)にいたるまで、折からの朝日を受けて桜色というか薔薇色というか、澄み切った空にクッキリと聳えているではないか。里の時雨は山の雪、その雪は恐らく金曜日の夜から始まって土曜日一日降りつづけ夜半に至って止んだのであろう。降ったばかりの雪、それも高い山の、煙も埃もない空気を通じて降った雪である。何が清浄潔白だと言って、これほど綺麗なものはあるまい。

 しばらくしてから私は、真赤な足と真赤な手と――恐らくは真赤な鼻とを部屋に持ち帰った。いつの間にか炬燵に火が入っている。もぐり込んで、身震いしながら考えた。面白くない、下らない日を送っては徒らに酒をのんで身体を腐らしている私に、万一ほんのチョビッとでも、いわゆる真善美を信じる心がありとすれば、それは一年に一度か二度接する山の、このような素晴らしい景色によって続けられつつあるのではあるまいか。

 寒い国は朝が遅い。仕度が出来て対山館を出かけた時は、かれこれ十一時に近かったであろう。ルックサックに登山靴というSさん、肘やお尻のピカピカする背広の私、饅頭やによって鳥焼きの話を聞いていると(饅頭やさんが冬になると小鳥も売る)チリンチリンと音がして、Kさんが自転車で通った。一足さきに行っているから……という後姿を見ると、これまた登山服にルックサック。荷物をすっかり二人に持たせて了った私は、さしずめ殿様の格である。

 製糸場、養鯉池、田。田はもう庭しめ(恐らく庭仕舞(にわしめえ)であろう。すっかり稲を刈り取ったことをいう)を終えてカチカチになっている。前の日ここを歩いた時は、実に荒涼たる光景であったが、この時は正午に近い陽が、うららかに照るので、何とも言えず陽気である。小さな谷その谷の南に向いた方を、路が上って行く。日溜りに風さえ除けて、額のあたり汗ばむ程あたたかい。だが、谷の向う側は北を受けて、枯れた羊歯の葉に霜が白く光っている。あの霜は一日中消えないのであろう。

 路が急に曲った。かん高い女の唄声と笑声とが耳に入る。見ると左手にちょっとした枯草の平地があって、年頃の娘が五、六人、登って来る我々には気がつかぬらしく、しきりに歌を唄いながら踊っている。「安曇(あずみ)踊りの稽古をしている!」と誰かが言った。我々は立ち止って、小さな楢の木のこちらから、踊の稽古を見た。どこかの工女か何からしい。野暮な、派手な襟巻が草の上に投げ出してある。カルメンのような櫛が光る。

 ふと一人が叫び声をあげた。一同は歌と踊をやめた。我々が見ているのに気がついたのである。キャッとか、ワッとか言ったかと思うと、中には草に身を投げて、ゴロゴロころがりながら笑うのもある。大胆らしいのが「鳥焼きにつれてってくれ!」と叫んだ。ひとしきり、若い笑声が小山の沈黙を破った。

 しばらく行くと一杯水。路の右手は雑木林の急斜面、左は芝の平地が約十坪、それに続く、雑木林の上に大きな落葉松が、まっ黄色な針葉をつけて、スックリ立っている。

 我々はここ迄来て休んだ。歩くのをやめるとさすがに冷える。と、一陣の風が谷から吹き上げた。枯れ切った林の木の葉が、一時にざわめく。ざわめくと言って了えばそれ迄だが、木によって音が違う。ガサガサ言うのもあれば、サラサラと言うのもある。何か囁くもの、不平らしいもの、いろいろな声である。Sさんはここで弁当をつかった。Kさんは鎌を振って杖をつくった。私は芝の上にねころがって、落葉松を見上げた。落葉松の梢から、目が痛くなる程澄んだ空を見た。

 山の中腹に、たった一本生えた落葉松である。高さ何十尺か。幹がすーっとのびて、その幹には犬の毛が植えたように、短い枝が密生している。上は見事にひらいて、箒草の形である。元来が短い、細い葉だから、枝から生えたというよりも、枝に巻きつけた気持がする。若葉の時は、まるで煙のよう。黄葉は金粉。

 灌木の中に二間ばかりの栗の木が立っている。栗は気が早い。すっかり葉を落して了っているが、枝のさきに(いが)を二つ三つつけているので、ガサガサと根もとまで登って見た。

 草を分けると毬は沢山ちらばっている。だが実は一つも見えない。どうしたのだろう、こんな小さな栗を拾いに来る人もあるまいし、また落葉に埋れた筈はなし……と思っていると、下からKさんが声をかけた。

「栗は無いでしょう。栗鼠(りす)がみんな持ってっちまうから。」

 栗鼠が栗を持って行く。冬の仕度に、自分の家へ、貯蔵庫へ、両手でかかえて行く。私はその姿を思い浮べながら、一生懸命にさがし求めた。そしてやっと見つけたのは、私の拇指の爪より小さい奴三つ。栗鼠の忘れた栗――これ丈が家へのおみやげである。大切に、チョッキのポケットへしまい込んだ。

 尾根に近く落葉松の林を歩いた。

 落葉松の林には下生えがしない。只一面に針葉の絨氈。しかもこれは余程上等の絨氈である。柔く、適度の弾力をもって足に触れる。また太陽は頭上から、黄金色の梢を通して照る。静かな、あたたかい、高貴な光線が我々をつつむ。何だか宮殿にいるような気持がした。

 登りつくとズラリと山のパノラマ。左手、前山の肩から首を出す鹿島槍から、右手かすかに霞む浅間まで、遠い山、近い山、高い山、低い山、まっ白な山、雪の筋を持つ山、茶褐色の山。真正面に当る妙高は、いくらか姿を見せているが、雨飾(あまかざり)山は雲にかくれて、僅か左の山腹だけしか出していない。

 半日の山歩き。霜柱を踏んだり落葉を蹴ちらしたり、またはカスミを張って鳥を取る人を小舎に訪れたり。そして山の裾に家が五、六軒かたまった相川という部落へ出たのは、日の暮れかたであった。

 ここからトンネルが山を貫いて大町への道をなす。我々は最初から相川の茶屋でビールを飲もうときめていたので、軒の低い、すすけた家まで来て立ち止った。

 家の前は道路、その向うが松林、銀鼠の薄明がつめたく流れる。松林の中から、子供の歌が聞えて来た――

夕焼こやけで日が暮れる

山のお寺の鐘が鳴る

お手々つないでみな帰ろ――

 Sさんと私とは、何故か顔を見合せた。

 家の中はまっくらであった。炉べりで串にさした鳥を焼いていたお内儀さんは、不意にドヤドヤ人って来た三人の洋服姿に、ちょっと驚いたらしかったが、それでも愛想よく、

「さア、踏んごんであたっておくんなせえよ」と、炉に松の根を投げ込んだ。

 板の間に大きく切った炉、まさに踏ん込むことが出来るようになっている。パチパチと松が燃えて、つぐみの腹から脂肪が滴る。

 折からの停電に、お内儀さんは蝋燭を酒樽の上に立てた。菜の漬物でビール二本。風が障子を鳴らして、蝋燭の焔がゆらゆら振れる。

 出がけに、ルックサックを背負いながらKさんが言った――「お内儀さん、ここらは朝がいいだろうね。」お内儀さんは、変なことを聞く人だという調子で、しばらく黙っていたが、「寒いでね」と、しみじみ言った。

「峠の秋」と書いただけで、私の心には高い空と、汗ばんだ膚を撫でる涼風と、強い日光とを感じる。小仏(こぼとけ)峠、長尾峠、十国峠、三国峠、徳本(とくごう)峠、針ノ木峠……即座に思い出す秋の峠のいくつかである。

 小仏峠は東京から日帰りが楽なので、何度か行った。浅川からも越え、与瀬(よせ)からも越えた。春秋夏冬、季節にかかわらず訪れたが、秋は麓のおとぎり草、中腹の梅鉢草、頂上近くの松虫草、また美女谷へ下りる急坂が、雑木紅葉してあけびが口をあいていたのは晩秋の思い出である。

 長尾峠の秋の一日は、あいにくの雲で富士は見えず、その上御殿場(ごてんば)へ下る途中、猛雨に襲われた。バスが来る迄、橋の下で雨をさけようという人や、用心よく持って来た雨外套を小松の枝にかけ、その下にかたまり合えば三、四人は濡れずにいられるという人や、十人に近い一行が、めいめい勝手なことをいったが、結局一同ぬれ鼠で御殿場に着き、駅前の旅館で衣服をかわかした。丁度東京では早慶戦が行われていて、ラジオが興奮しきった声を立てていた。

 十国峠はあたたかい枯草の香と海の色。三国峠は法師温泉の朝の冷たい水と囲炉裏の焔、温泉の端れの橋は霜、登りにかかる林道は露がしげかった。峠は猛烈な霧が越後側から捲き上げて、苗場山は見えなかったが、その霧の中へ、いわば遮二無二とび込んで、二十町下の浅貝は、明るすぎる秋の日の中に、うら悲しい灰色の姿を浮せていた。

 上高地は、ホテルが出来、自動車が通う今日よりも、徳本のバカツ峠を上下した昔の方が、煙が深かったような気がする。何度か越した徳本だが、別して、一度、長い辛い山旅を終り、もうすっかり静かになった上高地を後に、今は故人になった大町の玉作老人とここを越えた時は、一歩一歩に木の葉が散り、私はそれから出て行って生活せねばならぬ都会と、後に残して行く山との二つに、板ばさみになった自身の心を見出して、足は重かった。

 針ノ木峠の小舎を根拠地に、蓮華、針ノ木、スバリ等の山遊びをした数日はたのしかった。朝晩こそ寒かったが、日中の空気はシャンペンのように甘く濃く、岩も日中はポカポカして、昼寝するには持って来いだった。この清澄の秋の空気に浮き上る山々は、槍も白馬も、まるで絵空ごとの如く美しかった。

 高山植物は盛りを過ぎ、僅かにきばなのこまのつめが、偃松の根もとに咲き残るに過ぎなかったが、苺は触れるとポロリと落ちるまでに熟し、この上もなく美味だった。

 針の木峠にいた時、満洲事変が突発し、わが国の情勢は一変した。私の身辺も、また大変化を来した。これを最後に、私は日本アルプスに行っていない。もう、これ切りということはあるまいが、それにしても、当分の間の最後の山旅に、いい場所を選んだものだ。

 右の二つは思い出話であり、いずれも針ノ木が僕の最後の山だったことを語っている。本当に最後の山になっても一向構わない。すでに、読者は御存知の通り、僕の子供が登っているのだ。思えば不思議な気持ちがする。すくなくとも「山」に関する限り、後継者が出来たのだから。而も彼等の山に対するイニシエーションは、先ず一夏を麓の人々に可愛がって貰って送り、その翌年、本当の遊びに登山しているのだから、これほど自然な方法はない。

 十一月のはじめ大町へ行った。私はもう何十回か行っているが、家内は大町を知らず、従って高い山を見たことが無いので、鳥焼きにさそわれた機会に、家内と家内の姉と姪と、つまり女性を三人案内して出かけたのだった。そろそろ老境に入ったものと見え、がりがりと登山するよりも、こうやって麓から山の名前を説明する方が、具合がよくなって来た。

 大町見物の第一楷梯は仁科三湖である。百瀬慎太郎君と五人で四家まで自動車を走らせたが、曇っていて白馬は見えなかった。前山の所々、別して尾根に山毛欅が白髪のような、きたない色を見せている。一番早く落葉して了ったのだ。冬には樹氷を咲かせる木である。

 晩方から寒くなって、山はすっかり晴れた。友人、平林卓爾君が経営する林檎園に行った時には、太陽が蓮華岳の向うに落ちかけ、鹿島槍の尾根に雪が輝いていた。この雪は、まるで冗談みたいに、尾根に一線を描いている。越中から吹きつける雪が、尾根越しに信州の領分をのぞいているので、これがやがて雪庇にと成長する。

 林檎園を流れる水は澄んでつめたく、また晩生種の国光はまったく枝が下るほど沢山なっていた。枝から下っている林檎に噛りついたら定めし美味だろうと思ったが、消毒液がふきつけてあるので、それは出来なかった。

 林檎園から山案内の桜井一雄の家へ行った時は、もうあたりは真暗だった。桜井君はこの朝山へ御夫婦の登山者を案内して行って、駅でちょっと立話をしただけだったが、是非家へよってくれとのことだった。丁度田の仕事が終ったばかりで、あした来てくれといっていたが、その明日はどんなことになるか分らぬので、不意打ちに訪問したのである。お父さんも嫁さんも留守で、お母さんが一人でいたが、よろこんで炉ばたに座布団を敷いてくれた。火は勢よく燃え、そこで栗やいなごや蜂の子や漬物を御馳走になった。いなごと蜂の子は、女の人達にも好評を博した。

 翌朝はまたうそのようによく晴れた。鳥屋場として、なるべく歩かずに済む場所をというので、相川のトンネルの向うまで、一行七人、自動車からはみ出しそうになって乗って行った。握飯、外套、煮しめ等が相当のかさになるので、老案内の伊藤久之丞が来てくれた。自動車を下りて、山妻は雪ばかまをはいた。紅葉した樹々の間を歩くと、赤い実が沢山なっている。実にいろいろな木が赤い実をつけている。ぐみも赤くなっていたが、これはまだ渋かった。

 鳥屋場は東側の斜面にあり、裏が雑木林で前が蕎麦畑、右手にちょっとした松林がある。カスミ網は蕎麦畑の下に三ヶ所に張ってあったが、もうお昼に近いので小鳥は二羽しかかかっていず、朝早く取れた分と、大町から持って来た分とを料った。羽根をむしり、鋏で腹をさいてワタを出す一方、久さんは対山館から持参した破れ雨傘の骨を削って一本に四羽ずつさし込むのであった。もちろん焚火はとっくに出来ていて、いざ焼こうという時には灰になって了っていた。

 竹串からジージーと油とたれが滴り始めた頃、私は串にささぬ小鳥をベーコンでいためた。東京から忍ばせて行ったベーコンだ。フライパンは対山館のを借りた。松の木や白樺は、生れて初めてベーコンの香をかいだことだろう。この小鳥のベーコン焼きがとてもうまく、大町の人たちもよろこんで、これは大発見だといった。ところがベーコンが薄く切ってあるので、いくらでも出て来る。慎太郎さんは「なるほどこれがベーコン不滅ですね」といったが、大町の駄洒落としては傑作である。久さんはニコニコと、まめに働いた。

 みんなで一升の酒をのみ、握飯をたいてい平げてから、鳥屋場の小母さんに礼をいって発足した。この小母さんは、トンネルの出口に雑貨店をやっていて、よほど以前、この日もここに来た曾根原耕造氏と百瀬君と僕と三人、あれは十一月もなかばを過ぎていた頃だが、東山めぐりをやり、日暮れにこの小母さんの店の炉にふんごんで、ビールを飲んだことがある。丁度停電で、蝋燭をつけ、鳥をやき、菜漬で飲んだ。そしてトンネルを出ると、目の前に爺ヶ岳が、すごい光線を背に受けてそびえていた。

 我々は植物をいろいろと採集しながら、秋晴れの山路を切久保の部落の方へ歩いた。途中大根をぬいていたお婆さんが、曾根原氏の知り合いで、大根を五、六本くれた。久さんの荷物はえらく大きくなって了った。

 南鷹狩山(たかかりやま)の山腹を、ゆっくらゆっくら歩きながらも、我々は植物から目を離さなかった。姉が植物が好きで、妙なものの名を知っているものだから、一同俄然植物学に興味を持った次第である。それで山牛蒡の枯れたのや、一杯に実を持ったグミの大枝や、とにかくマクベスなら林が動き出したと思うであろう位を、めいめいが持って、日暮れの大町へ帰った。役にも立たぬものばかり背負って来たと、町の人々は思ったことであろう。

 もう百姓は田の仕事を終り、大町は冬籠りの準備をしていた。朝晩は寒く、食事はすべてひろぶたの上でする。昼間はあたたかいが、それでも鳥焼きをした時、木の下に入るとひやりとつめたかった。日本で一番いい秋を、秋が一番いい信濃の高原で経験したことは、とてもいいことだった。そして、要するに、苦しんで山に登るよりも、気の合った者と山の麓や低い山を歩いている方が、呑気でいいということを確認したのだった。(昭和十年「ひとむかし」)

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