邪宗門

2話 邪宗門(2)

7,534字 約15分 1998年12月7日 公開

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 でございますからこの御姫様に、(おもい)を懸けていらしった方々(かたがた)の間には、まるで竹取(たけとり)物語の中にでもありそうな、可笑(おか)しいことが沢山ございましたが、中でも一番御気の毒だったのは京極(きょうごく)左大弁様(さだいべんさま)で、この(かた)京童(きょうわらんべ)(からす)の左大弁などと申し上げたほど、顔色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中御門(なかみかど)の御姫様を恋い慕っていらっしゃいました。所がこの方は御利巧だと同時に、気の小さい御性質だったと見えまして、いかに御姫様を(なつか)しく思召しても、御自分の方からそれとは御打ち明けなすった事もございませんし、元よりまた御同輩の方にも、ついぞそれらしい事を口に出して、仰有(おっしゃ)った(ためし)はございません。しかし忍び忍びに御姫様の御顔を拝みに参ります事は、隠れない事でございますから、ある時、それを(かせ)にして、御同輩の誰彼が、手を換え品を換え、いろいろと問い落そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は、苦しまぎれの御一策に、

「いや、あれは何も(わたし)(おもい)を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風情(ふぜい)を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ。」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を(こが)していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯好(いたずらず)きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽手紙を(こしら)えて、折からの(ふじ)の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許へ御とどけになりました。

 こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟かせながら、(あわて)て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮かなわぬ恋とあきらめて、尼法師(あまほうし)の境涯にはいると云う事が、いかにももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召(おぼしめ)さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息(ためいき)をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた(おもい)のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度五月雨(さみだれ)の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、(おおかさ)をかざしながら、ひそかに二条西洞院(にしのとういん)の御屋形まで参りますと、御門(ごもん)は堅く(とざ)してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色(けしき)はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来(ゆきき)も稀な築土路(ついじみち)には、ただ、(かわず)の声が聞えるばかり、雨は(ますます)降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も(くら)むと云う情ない次第でございます。

 それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫(へいだゆう)と申します(わたくし)くらいの老侍(おいざむらい)が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。

 そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。

  思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし

 これは云うまでもなく御姫様が、悪戯(いたずら)好きの若殿原から、細々(こまごま)と御消息で、(からす)の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。

        八

 こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状(ごぎょうじょう)を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事(そらごと)をさし加えよう道理はございません。その頃洛中(らくちゅう)で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫(ながむし)までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この(あと)の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門(なかみかど)の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫(へいだゆう)(かしら)にして、御召使の男女(なんにょ)が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。

 そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の(かた)と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨(いこん)で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す(やから)も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿(おな)くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆跡方(あとかた)のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。

 何でも私が人伝(ひとづて)(うけたま)わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は(かえ)って誰よりも、素気(すげ)なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の(おい)に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫(へいだゆう)が、なぜか堀川の御屋形のものを(かたき)のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日(はるび)が《にお》っている築地(ついじ)の上から白髪頭(しらがあたま)(あらわ)して、檜皮(ひわだ)狩衣(かりぎぬ)の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、

「やい、おのれは昼盗人(ひるぬすびと)か。盗人とあれば容赦(ようしゃ)はせぬ。一足でも門内にはいったが最期(さいご)、平太夫が太刀(たち)にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように(わめ)きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰(にんじょうざた)にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の(まり)(つぶて)代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣(おつかわ)しになりました。さればこそ、日頃も仰有(おっしゃ)る通り、「あの頃の予が夢中になって、(つたな)い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた(わざ)じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。

        九

 丁度その頃の事でございます。洛中(らくちゅう)に一人の異形(いぎょう)沙門(しゃもん)が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利(まり)の教と申すものを説き(ひろ)め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの(かた)もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦(しんたん)から天狗(てんぐ)が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿(そめどの)御后(おきさき)に鬼が()いたなどと申します通り、この沙門の事を(たと)えて云ったのでございます。

 そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはり其頃の事でございました。確か、ある花曇りの日の昼中(ひるなか)だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神泉苑(しんせんえん)の外を通りかかりますと、あすこの築土(ついじ)を前にして、揉烏帽子(もみえぼし)やら、立烏帽子(たてえぼし)やら、あるいはまたもの見高い市女笠(いちめがさ)やらが、(かず)にしておよそ二三十人、中には竹馬に跨った童部(わらべ)も交って、皆一塊(ひとかたまり)になりながら、(ののし)り騒いでいるのでございます。さてはまた、福徳の大神(おおかみ)に祟られた物狂いでも踊っているか、さもなければ迂闊(うかつ)近江商人(おうみあきゅうど)が、魚盗人(うおぬすびと)に荷でも(さら)われたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰々(ぎょうぎょう)しいので、何気(なにげ)なく(うしろ)からそっと(のぞ)きこんで見ますと、思いもよらずその真中(まんなか)には、乞食(こつじき)のような姿をした沙門が、何か(しきり)にしゃべりながら、見慣れぬ女菩薩(にょぼさつ)画像(えすがた)を掲げた旗竿を片手につき立てて、(たたず)んでいるのでございました。年の頃はかれこれ三十にも近うございましょうか、色の黒い、眼のつり上った、いかにも凄じい(つら)がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨染の法衣(ころも)でございますが、渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛と申し、(くび)にかけた十文字の怪しげな黄金(こがね)護符(ごふ)と申し、元より世の常の法師(ほうし)ではございますまい。それが、私の(のぞ)きました時は、流れ風に散る神泉苑の桜の葉を頭から浴びて、全く人間と云うよりも、あの智羅永寿(ちらえいじゅ)眷属(けんぞく)が、(とび)の翼を法衣(ころも)の下に隠しているのではないかと思うほど、怪しい姿に見うけられました。

 するとその時、私の側にいた、逞しい鍛冶(かじ)か何かが、素早く童部(わらべ)の手から竹馬をひったくって、

「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと(ぬか)したな。」と、噛みつくように喚きながら、(はす)に相手の(おもて)を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門(しゃもん)は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、いよいよ高く女菩薩(にょぼさつ)画像(えすがた)を落花の風に(ひるがえ)して、

「たとい今生(こんじょう)では、いかなる栄華(えいが)を極めようとも、天上皇帝の御教(みおしえ)(もと)るものは、一旦命終(めいしゅう)の時に及んで、たちまち阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄に()ち、不断の業火(ごうか)に皮肉を焼かれて、尽未来(じんみらい)まで吠え居ろうぞ。ましてその天上皇帝の(のこ)された、摩利信乃法師(まりしのほうし)(しもと)を当つるものは、命終の時とも申さず、明日(あす)が日にも諸天童子の現罰を蒙って、白癩(びゃくらい)の身となり果てるぞよ。」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶(かじ)まで、しばらくはただ、竹馬を(ほこ)にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆れてじっと見守って居りました。

        十

 が、それはほんの僅の()で、鍛冶(かじ)はまた竹馬(たけうま)をとり直しますと、

「まだ雑言(ぞうごん)をやめ居らぬか。」と、恐ろしい権幕(けんまく)で罵りながら、矢庭(やにわ)沙門(しゃもん)へとびかかりました。

 元よりその時は私はじめ、誰でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の(おもて)を打ち据えたと、思わなかったものはございません。いや、実際竹馬は、あの日の()けた頬に、もう一すじ蚯蚓腫(みみずばれ)の跡を加えたようでございます。が、横なぐりに打ち下した竹馬が、まだ青い笹の葉に落花を(はら)ったと思うが早いか、いきなり大地(だいち)にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、肝腎の鍛冶の方でございました。

 これに辟易(へきえき)した一同は、思わず逃腰(にげごし)になったのでございましょう。揉烏帽子(もみえぼし)(たて)烏帽子も意気地なく(うしろ)を見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲癇病(てんかんや)みのように白い泡さえも噴いて居ります。沙門はしばらくその呼吸を窺っているようでございましたが、やがてその瞳を私どもの方へ返しますと、

「見られい。わしの云うた事に、(いつわ)りはなかったろうな。諸天童子は即座にこの横道者(おうどうもの)を、目に見えぬ(つるぎ)で打たせ給うた。まだしも(かしら)が微塵に砕けて、都大路(みやこおおじ)に血をあやさなんだのが、時にとっての仕合せと云わずばなるまい。」と、さも横柄(おうへい)に申しました。

 するとその時でございます。ひっそりと静まり返った人々の中から、急にけたたましい泣き声をあげて、さっき竹馬を持っていた童部(わらべ)が一人、切禿(きりかむろ)の髪を躍らせながら、倒れている鍛冶(かじ)の傍へ、転がるように走り寄ったのは。

阿父(おとっ)さん。阿父さんてば。よう。阿父さん。」

 童部(わらべ)はこう何度も(わめ)きましたが、鍛冶はさらに正気(しょうき)に還る気色(けしき)もございません。あの唇にたまった泡さえ、不相変(あいかわらず)花曇りの風に吹かれて、白く水干(すいかん)の胸へ垂れて居ります。

「阿父さん。よう。」

 童部(わらべ)はまたこう繰り返しましたが、鍛冶が返事をしないのを見ると、たちまち血相を変えて、飛び立ちながら、父の手に残っている竹馬を両手でつかむが早いか、沙門を目がけて健気(けなげ)にも、まっしぐらに打ってかかりました。が、沙門はその竹馬を、持っていた画像(えすがた)の旗竿で、事もなげに払いながら、またあの気味の悪い(えみ)を洩らしますと、わざと(やさ)しい声を出して、「これは滅相な。御主(おぬし)父親(てておや)が気を失ったのは、この摩利信乃法師(まりしのほうし)がなせる(わざ)ではないぞ。さればわしを(くるし)めたとて、父親が生きて返ろう次第はない。」と、たしなめるように申しました。

 その道理が童部(わらべ)に通じたと云うよりは、所詮この沙門と打ち合っても、勝てそうもないと思ったからでございましょう。鍛冶の小伜は五六度竹馬を振りまわした後で、べそを掻いたまま、往来のまん中へ立ちすくんでしまいました。

        十一

 摩利信乃法師(まりしのほうし)はこれを見ると、またにやにや微笑(ほほえ)みながら、童部(わらべ)(かたわら)へ歩みよって、

「さても御主(おぬし)は、聞分けのよい、年には増した利発な子じゃ。そう温和(おとな)しくして()れば、諸天童子も御主にめでて、ほどなくそこな父親(てておや)正気(しょうき)に還して下されよう。わしもこれから祈祷(きとう)しょうほどに、御主もわしを見慣うて、天上皇帝の御慈悲に御すがり申したがよかろうぞ。」

 こう云うと沙門は旗竿を大きく両腕に(いだ)きながら、大路(おおじ)のただ中に(ひざまず)いて、(うやうや)しげに頭を垂れました。そうして眼をつぶったまま、何やら怪しげな陀羅尼(だらに)のようなものを、声高(こわだか)()し始めました。それがどのくらいつづいた事でございましょう。沙門のまわりに輪を作って、この不思議な加持(かじ)のし方を眺めている私どもには、かれこれものの半時もたったかと思われるほどでございましたが、やがて沙門が眼を開いて、脆いたなり伸ばした手を、鍛冶(かじ)の顔の上へさしかざしますと、見る見る中にその顔が、暖かく血の色を盛返して、やがて苦しそうな(うな)り声さえ、例の泡だらけな口の中から、一しきり長く溢れて参りました。

「やあ、阿父(おとっ)さんが、生き返った。」

 童部(わらべ)は竹馬を抛り出すと、嬉しそうに小躍りして、また父親の傍へ走りよりました。が、その手で()き起されるまでもなく、呻り声を洩らすとほとんど同時に、鍛冶はまるで酒にでも酔ったかと思うような、覚束ない身のこなしで、(おもむろ)に体を起しました。すると沙門はさも満足そうに、自分も悠然と立ち上って、あの女菩薩(にょぼさつ)画像(えすがた)を親子のものの(かしら)の上に、日を蔽う如くさしかざすと、

「天上皇帝の御威徳は、この大空のように広大無辺じゃ。何と信を起されたか。」と、(おごそ)かにこう申しました。

 鍛冶の親子は互にしっかり(いだ)き合いながら、まだ土の上に(うずくま)って居りましたが、沙門の法力(ほうりき)の恐ろしさには、魂も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の(はた)を仰ぎますと、二人とも殊勝げな両手を合せて、わなわな震えながら、礼拝(らいはい)いたしました。と思うとつづいて二三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠を脱いだり、烏帽子を直したりして、画像(えすがた)を拝んだものが居ったようでございます。ただ私は何となく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔界の風に染んでいるような、(いま)わしい気が致しましたから、鍛冶が正気に還ったのを(しお)に、(そうそう)その場を立ち去ってしまいました。

 後で人の話を承わりますと、この沙門の説教致しますのが、震旦(しんたん)から渡って参りました、あの摩利(まり)の教と申すものだそうで、摩利信乃法師(まりしのほうし)と申します男も、この国の生れやら、乃至(ないし)唐土(もろこし)に人となったものやら、とんと確かなことはわからないと云う事でございました。中にはまた、震旦でも本朝でもない、天竺(てんじく)(はて)から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨染の法衣(ころも)が翼になって、八阪寺(やさかでら)の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩利信乃法師の仕業には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。

        十二

 と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師(まりしのほうし)が、あの怪しげな陀羅尼(だらに)の力で、瞬く暇に多くの病者を(なお)した事でございます。盲目(めしい)が見えましたり、(あしなえ)が立ちましたり、(おし)が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩わしいくらいでございますが、中でも一番名高かったのは、(さき)摂津守(せっつのかみ)の悩んでいた人面瘡(にんめんそう)ででもございましょうか。これは(おい)を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す(むくい)から、左の膝頭にその甥の顔をした、不思議な(かさ)が現われて、昼も夜も骨を(けず)るような業苦(ごうく)に悩んで居りましたが、あの沙門の加持(かじ)を受けますと、見る間にその顔が気色(けしき)(やわら)げて、やがて口とも覚しい所から「南無(なむ)」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方(あとかた)もなく消え失せたと申すのでございます。元よりそのくらいでございますから、狐の()きましたのも、天狗の()きましたのも、あるいはまた、何とも名の知れない、妖魅鬼神(ようみきじん)の憑きましたのも、あの十文字(じゅうもんじ)の護符を頂きますと、まるで()の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。

 が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗(ひぼう)したり、その信者を呵責(かしゃく)したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が(なまぐさ)い血潮に変ったものもございますし、()()の稲を一夜(いちや)の中に(いなむし)が食ってしまったものもございますが、あの白朱社(はくしゅしゃ)巫女(みこ)などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩(びゃくらい)になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身(けしん)だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の(つるぎ)にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句(あげく)、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。

 そう云う勢いでございますから、日が()るに従って、信者になる老若男女(ろうにゃくなんにょ)も、追々数を増して参りましたが、そのまた信者になりますには、何でも水で(かしら)(ぬら)すと云う、灌頂(かんちょう)めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依(きえ)した明りが立ち()ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、ある日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原に(おびただ)しい人だかりが致して居りましたから、何かと存じて(のぞ)きました所、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けて()るのでございました。何しろ折からの水が(ぬる)んで、桜の花も流れようと云う加茂川へ、大太刀を()いて(かしこま)った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形(いぎょう)な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのでございますから、余程面白い見物(みもの)でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人(ひにん)小屋の間へ、小さな蓆張(むしろば)りの(いおり)を造りまして、そこに始終たった一人、(わび)しく住んでいたのでございます。

        十三

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