邪宗門

3話 邪宗門(3)

7,591字 約15分 1998年12月7日 公開

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 そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、(かね)て御心を寄せていらしった中御門(なかみかど)の御姫様と、親しい御語いをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘(はなたちばな)の《におい》と時鳥(ほととぎす)の声とが雨もよいの空を(おも)わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、(おぼろ)げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数(にんず)も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田(とおだ)(かわず)の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門(びふくもん)の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土(ついじ)の陰で、怪しい(しわぶき)の声がするや否や、きらきらと白刃(しらは)を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々(たけだけ)しく襲いかかりました。

 と同時に牛飼(うしかい)童部(わらべ)を始め、御供の雑色(ぞうしき)たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破(すわ)と云う間もなく、(さん)を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色(けしき)もなく、矢庭(やにわ)に一人が牛の《はづな》を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃(しらは)の垣を造って、犇々(ひしひし)とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立(かしらだ)ったのが横柄に(すだれ)を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子(ようす)がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を(ななめ)に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に(しわが)れた声がして、

「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々(にくにく)しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、(いよいよ)怪しく思召して、明るい月の光に、その声の(ぬし)を、きっと御覧になりますと、(おもて)こそ包んで居りますが、あの中御門の御姫様に年久しく御仕え申している、平太夫(へいだゆう)に相違はございません。この一刹那はさすがの若殿様も、思わず総身(そうみ)の毛がよだつような、恐ろしい思いをなすったと申す事でございました。なぜと申しますと、あの平太夫が堀川の御一家(ごいっけ)(かたき)のように憎んでいる事は、若殿様の御耳にも、とうからはいっていたからでございます。

 いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人は一層声を(あらら)げて、太刀の切先(きっさき)を若殿様の御胸に向けながら、

「さらば御命(おんいのち)を申受けようず。」と罵ったと申すではございませんか。

        十四

 しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄(おもてあそ)びなさりながら、

「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によって呉れてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ。」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立(かしらだ)った盗人は、白刃(しらは)(ますます)御胸へ近づけて、

中御門(なかみかど)の少納言殿は、誰故の御最期(ごさいご)じゃ。」

「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした(あかし)もある。」

「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は(かたき)の一味じゃ。」

 頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、

「そうじゃ。仇の一味じゃ。」と、声々に罵り交しました。中にもあの平太夫(へいだゆう)は歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀(たち)で若殿様の御顔を指さしますと、

「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念(じゅうねん)なと御称え申されい。」と、嘲笑(あざわら)うような声で申したそうでございます。

 が、若殿様は相不変(あいかわらず)落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、

「してその方たちは、皆少納言殿の御内(みうち)のものか。」と、(ほう)り出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色(けしき)を見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、

「そうじゃ。それがまた何と致した。」

「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内(みうち)でないものがいたと思え。そのものこそは(あめ)(した)阿呆(あほう)ものじゃ。」

 若殿様はこう仰有(おっしゃ)って、美しい歯を御見せになりながら、肩を(ゆす)って御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは(きも)を奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。

「なぜと申せ。」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害(せつがい)した暁には、その方どもはことごとく検非違使(けびいし)の目にかかり次第、極刑(ごっけい)に行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、(おの)が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀が欲しさに、予が身を白刃に向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒美(ほうび)と換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか。」

 これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫(へいだゆう)だけは独り、気違いのように(たけ)り立って、

「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期(さいご)を遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか。」

「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの(うち)に少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白うなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀のためにする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか。」

 若殿様は鷹揚(おうよう)に御微笑なさりながら、指貫(さしぬき)の膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもと御談じになりました。

        十五

「次第によっては、御意(ぎょい)通り(つかまつ)らぬものでもございませぬ。」

 恐ろしいくらいひっそりと静まり返っていた盗人たちの中から、(かしら)だったのが(なかば)恐る恐るこう御答え申し上げますと、若殿様は御満足そうに、はたはたと扇を御鳴らしになりながら、例の気軽な御調子で、

「それは重畳(ちょうじょう)じゃ。何、予が頼みと申しても、格別むずかしい儀ではない。それ、そこに()老爺(おやじ)は、少納言殿の御内人(みうちびと)で、平太夫(へいだゆう)と申すものであろう。(ちまた)風聞(ふうぶん)にも聞き及んだが、そやつは日頃予に恨みを含んで、あわよくば予が命を奪おうなどと、大それた企てさえ致して()ると申す事じゃ。さればその方どもがこの度の結構も、平太夫めに(そそのか)されて、事を挙げたのに相違あるまい。――」

「さようでございます。」

 これは盗人たちが三四人、一度に覆面の下から申し上げました。

「そこで予が頼みと申すのは、その張本(ちょうぼん)老爺(おやじ)(から)めとって、長く禍の根を断ちたいのじゃが、何とその方どもの力で、平太夫めに縄をかけてはくれまいか。」

 この御仰(おんおお)せには、盗人たちも、余りの事にしばらくの間は、呆れ果てたのでございましょう。車をめぐっていた覆面の(かしら)が、互に眼を見合わしながら、一しきりざわざわと動くようなけはいがございましたが、やがてそれがまた静かになりますと、突然盗人たちの唯中から、まるで夜鳥(よどり)の鳴くような、(しわが)れた声が起りました。

「やい、ここなうっそりどもめ。まだ乳臭いこの殿の口車に乗せられ居って、抜いた白刃を持て扱うばかりか、おめおめ御意に従いましょうなどとは、どの面下げて申せた義理じゃ。よしよし、ならば(おの)れらが手は借りぬわ。高がこの殿の命一つ、平太夫が太刀ばかりで、見事申し受けようも、瞬く暇じゃ。」

 こう申すや否や平太夫は、太刀をまっこうにふりかざしながら、やにわに若殿様へ飛びかかろうと致しました。が、その飛びかかろうと致したのと、頭だった盗人が、素早く白刃を投げ出して、横あいからむずと組みついたのとが、ほとんど同時でございます。するとほかの盗人たちも、てんでに太刀を鞘におさめて、まるで(いなむし)か何かのように、四方から平太夫へ躍りかかりました。何しろ多勢(たぜい)無勢(ぶぜい)と云い、こちらは年よりの事でございますから、こうなっては勝負を争うまでもございません。たちまちの内にあの老爺(おやじ)は、牛の《はづな》でございましょう、有り合せた縄にかけられて、月明りの往来へ引き据えられてしまいました。その時の平太夫の姿と申しましたら、とんと(わな)にでもかかった狐のように、牙ばかりむき出して、まだ未練らしく(あえ)ぎながら、身悶えしていたそうでございます。

 するとこれを御覧になった若殿様は、欠伸(あくび)まじりに御笑いになって、

「おお、大儀。大儀。それで予の腹も一先(ひとまず)癒えたと申すものじゃ。が、とてもの事に、その方どもは、予が車を警護(かたがた)、そこな老耄(おいぼれ)を引き立て、堀川の屋形(やかた)まで参ってくれい。」

 こう仰有(おっしゃ)られて見ますと盗人たちも、今更いやとは申されません。そこで一同うち揃って、雑色(ぞうしき)がわりに牛を追いながら、縄つきを中にとりまいて、月夜にぞろぞろと歩きはじめました。(あめ)(した)は広うございますが、かように盗人どもを御供に御つれ遊ばしたのは、まず若殿様のほかにはございますまい。もっともこの異様な行列も、御屋形まで参りつかない内に、急を聞いて駆けつけた私どもと出会いましたから、その場で面々御褒美を頂いた上、こそこそ退散致してしまいました。

        十六

 さて若殿様は平太夫(へいだゆう)を御屋形へつれて御帰りになりますと、そのまま、御厩(おうまや)の柱にくくりつけて、雑色(ぞうしき)たちに見張りを御云いつけなさいましたが、翌朝は(そうそう)あの老爺(おやじ)を、朝曇りの御庭先へ御召しになって、

「こりゃ平太夫、その方が少納言殿の御恨(おうらみ)を晴そうと致す心がけは、成程(おろか)には相違ないが、さればとてまた、神妙とも申されぬ事はない。殊にあの月夜に、覆面の者どもを駆り催して、予を殺害(せつがい)致そうと云う趣向のほどは、中々その方づれとも思われぬ風流さじゃ。が、美福門のほとりは、ちと場所がようなかったぞ。ならば(ただす)の森あたりの、老木(おいき)の下闇に致したかった。あすこは夏の月夜には、せせらぎの音が間近く聞えて、()の花の白く(ほのめ)くのも一段と風情(ふぜい)を添える所じゃ。もっともこれはその方づれに、望む予の方が、無理かも知れぬ。ついてはその殊勝なり、風流なのが目出たいによって、今度ばかりはその方の罪も(ゆる)してつかわす事にしよう。」

 こう仰有(おっしゃ)って若殿様は、いつものように晴々と御笑いになりながら、

「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。(ついで)ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ。」

 私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、(にが)りきった面色(めんしょく)が、泣くとも笑うともつかない気色(けしき)を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ(せわ)しそうに、働かせて()るのでございます。するとその容子(ようす)が、笑止(しょうし)ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑顔(おえがお)を御やめになると、縄尻を控えていた雑色(ぞうしき)に、

「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい。」と、難有(ありがた)御諚(ごじょう)がございました。

 それから間もなくの事でございます。一夜の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花橘(はなたちばな)の枝を肩にして、這々(ほうほう)裏の御門から逃げ出して参りました。所がその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の(おい)の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺(おやじ)の跡をつけたのでございます。

 二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足(はだし)を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉の《におい》のする、築土(ついじ)つづきの都大路(みやこおおじ)を、とぼとぼと歩いて参ります。途々通りちがう菜売りの女などが、稀有(けう)文使(ふづか)いだとでも思いますのか、迂散(うさん)らしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺(おやじ)はとんとそれにも目をくれる気色(けしき)はございません。

 この調子ならまず何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうと致しましたが、よもやに引かされて、しばらくは猶も跡を慕って参りますと、丁度油小路(あぶらのこうじ)へ出ようと云う、道祖(さえ)の神の(ほこら)の前で、折からあの辻をこちらへ曲って出た、見慣れない一人の沙門(しゃもん)が、出合いがしらに平太夫と危くつき当りそうになりました。女菩薩(にょぼさつ)(はた)、墨染の法衣(ころも)、それから十文字の怪しい護符、一目見て私の甥は、それが例の摩利信乃法師だと申す事に、気がついたそうでございます。

        十七

 危くつき当りそうになった摩利信乃法師(まりしのほうし)は、咄嗟(とっさ)に身を(かわ)しましたが、なぜかそこに足を止めて、じっと平太夫(へいだゆう)の姿を見守りました。が、あの老爺(おやじ)はとんとそれに頓着する容子(ようす)もなく、ただ、二三歩譲っただけで、相不変(あいかわらず)とぼとぼと寂しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不審に思ったものと見えると、こう私の甥は考えましたが、やがてその側まで参りますと、まだ我を忘れたように、道祖(さえ)の神の(ほこら)(うしろ)にして、(たたず)んでいる沙門の()なざしが、いかに天狗の化身(けしん)とは申しながら、どうも唯事とは思われません。いや、(かえ)ってその眼なざしには、いつもの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤いが、漂っているのでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を(ななめ)に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。

 が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字(くじ)を切りながら、何か咒文(じゅもん)のようなものを口の内に繰返して、(そうそう)歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門(なかみかど)と云うような(ことば)が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして、側目(わきめ)もふらず悄々(しおしお)と歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院(にしのとういん)の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては忘れそうになったくらい、落着かない心もちに苦しめられたとか申して居りました。

 しかしその御文は(つつが)なく、御姫様の御手もとまでとどいたものと見えまして、珍しくも今度に限って早速御返事がございました。これは私ども下々(しもじも)には、何とも確かな事は申し上げる訳に参りませんが、恐らくは御承知の通り御闊達な御姫様の事でございますから、平太夫からあの暗討(やみう)ちの次第でも御聞きになって、若殿様の()気象の人に優れていらっしゃるのを、始めて御会得(ごえとく)になったからででもございましょうか。それから二三度、御消息を御取り(かわ)せになった後、とうとうある小雨(こさめ)の降る夜、若殿様は私の甥を御供に召して、もう葉柳の陰に埋もれた、西洞院(にしのとういん)の御屋形へ忍んで御通いになる事になりました。こうまでなって見ますと、あの平太夫もさすがに()が折れたのでございましょう。その夜も険しく眉をひそめて居りましたが、私の甥に向いましても、格別雑言(ぞうごん)などを申す勢いはなかったそうでございます。

        十八

 その()若殿様はほとんど夜毎に西洞院(にしのとういん)の御屋形へ御通いになりましたが、時には私のような年よりも御供に御召しになった事がございました。私が始めてあの御姫様の、眩しいような御美しさを拝む事が出来ましたのも、そう云う折ふしの事でございます。一度などは御二人で、私を御側近く御呼びよせなさりながら、今昔(こんじゃく)の移り変りを話せと申す御意もございました。確か、その時の事でございましょう。御簾(みす)のひまから見える御池の水に、さわやかな星の光が落ちて、まだ散り残った(ふじ)の《におい》がかすかに漂って来るような夜でございましたが、その涼しい夜気の中に、一人二人の女房を御侍(おはべ)らせになって、もの静に御酒盛をなすっていらっしゃる御二方の美しさは、まるで倭絵(やまとえ)の中からでも、抜け出していらしったようでございました。殊に白い単衣襲(ひとえがさね)に薄色の(うちぎ)を召した御姫様の清らかさは、おさおさあの赫夜姫(かぐやひめ)にも御劣りになりはしますまい。

 その内に御酒機嫌(ごしゅきげん)の若殿様が、ふと御姫様の方へ御向いなさりながら、

「今も(じい)の申した通り、この狭い洛中でさえ、桑海(そうかい)(へん)度々(たびたび)あった。世間一切の法はその通り絶えず生滅遷流(せいめつせんりゅう)して、刹那も(じゅう)すと申す事はない。されば無常経(むじょうきょう)にも『未曾有一事不被無常呑(いまだかつていちじのむじょうにのまれざるはあらず)』と説かせられた。恐らくはわれらが恋も、この掟ばかりは逃れられまい。ただいつ始まっていつ終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ。」と、冗談のように仰有(おっしゃ)いますと、御姫様はとんと()ねたように、大殿油(おおとのあぶら)の明るい光をわざと御避けになりながら、

「まあ、憎らしい事ばかり仰有(おっしゃ)います。ではもう始めから(わたくし)を、御捨てになる御心算(おつもり)でございますか。」と、優しく若殿様を御睨(おにら)みなさいました。が、若殿様は(ますます)御機嫌よく、御盃を御干しになって、

「いや、それよりも始めから、捨てられる心算(つもり)()ると申した方が、一層予の心もちにはふさわしいように思われる。」

「たんと御弄(おなぶ)り遊ばしまし。」

 御姫様はこう仰有って、一度は愛くるしく御笑いになりましたが、急にまた御簾(みす)の外の夜色(やしょく)へ、うっとりと眼を御やりになって、

「一体世の中の恋と申すものは、皆そのように(はか)ないものでございましょうか。」と独り(ごと)のように仰有いました。すると若殿様はいつもの通り、美しい歯を見せて、御笑いになりながら、

「されば(はか)なくないとも申されまいな。が、われら人間が万法(ばんぽう)の無常も忘れはてて、蓮華蔵(れんげぞう)世界の妙薬をしばらくしたりとも味わうのは、ただ、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは恋慕三昧(れんぼざんまい)に日を送った業平(なりひら)こそ、天晴(あっぱれ)知識じゃ。われらも穢土(えど)の衆苦を去って、常寂光(じょうじゃっこう)の中に(じゅう)そうには伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい。何と御身(おみ)もそうは思われぬか。」と、横合いから御姫様の御顔を御覗きになりました。

        十九

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