おばけの正体

128話 おばけの正体 第一二八項 真怪の有無

1,318字 約3分 2016年6月5日 公開

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 以上述べたる妖怪談は、たいてい明治維新後に起こりたる出来事中、原因の発覚せしもののみを掲げたのである。その他に原因未詳の怪事はたくさんあれども、すでに知れたるものより推測すれば、およそ妖怪の正体はなんであるを知らすること、決して困難でない。つまり、世間普通にいうところの妖怪は真の妖怪でなく、むしろ妖怪の偽物である。しかるに、世人ははじめより妖怪ありとの予想をもって自ら迎え、さらに疑念を起こして探検することなきために、偽物が真物となって後世に伝わるのである。余の研究するところによれば、少なくとも怪談の七、八分は、人為的偽怪と偶然的誤怪であると思う。人為的とは人の故意に造り出だせるもの、偶然的とは故意にあらざるも偶然誤って妖怪と認むるものをいうのである。よって、妖怪の大部分は天狗(てんぐ)にもあらず、狐狸(こり)にもあらず、幽霊にもあらず、悪魔にもあらず、人なりと断言することができる。

 果たしてしからば、世に妖怪、不思議は絶無かとの問いが起こるであろう。余はこれに対して、真の妖怪、真の不思議は、かえって世人の妖怪とも不思議ともせざるところに存すとの持論である。しかして、この真怪は偽怪を打破するにあらざれば、立証することができぬ。あたかも、暗雲を払わざれば明月を開現することのできぬと同様である。余はこの点について、さらに一言しておきたい。

 ある人、余にたずねていうには、「君の妖怪を論ずるや、一も偽怪、二も偽怪として排斥(はいせき)し、世に妖怪なきがごとく唱うるようなれども、また真怪あるがごとく談じ、前後矛盾するようではないか。また、妖怪あるかと問えばないといい、ないかと問えばありと告ぐるは、アマノジャクのように考えらるる」と申すから、余はこれに答えて、「世間一般の妖怪とするものは妖怪にあらずして、世間一般の非妖怪視するところにおいて、かえって妖怪ありとの論なれば、あるいは矛盾の評を招き、あるいはアマノジャクの名を与えらるるかも知れぬ。しかし老子は、『愚者は道を聞きて大いに笑う。笑わざれば道にあらず』といい、また『言うものは知らず、知るものは言わず』とも説いている。この言も一応聞いただけでは矛盾、アマノジャクのようなれども、深く(せん)じきたらばそのしからざることが分かる。また、ある人の狂歌に、仏と凡夫との相違を挙げて、『釈迦阿弥陀(しゃかあみだ)うそいへばこそ仏なり、まことをいはば凡夫なりけり』と詠みたるものがある。これ、矛盾またはアマノジャクのようなれども、凡夫と仏とは真偽の標準を異にすることを知らば、その歌の道理あることが分かる。凡夫の心より真と思うことは仏の目にては偽と見、凡夫の偽は仏の真なりとすれば、釈迦、阿弥陀が(うそ)を言うとは、凡夫の所見より定めたるものに過ぎぬ。よって、その嘘は真の嘘ではない。凡夫の愚かな目より見て嘘と思うくらいのところに、かえって真のまことがあるわけだ。これと同じく、世間の妖怪とするものを余は妖怪にあらずとし、世間の非妖怪とするものを余は妖怪とするのも、決して矛盾なるにもあらず、アマノジャクでもなく、当然の断案である。もし、世間の人も研究眼をもって詮議(せんぎ)を尽くしたならば、必ず余と同一の結論に達するであろうと信じている」

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