おばけの正体

131話 おばけの正体 第一三〇項 妖怪研究の結果(2)

4,014字 約8分 2016年6月5日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

とあるように、今日の学者、教育家、宗教家は大抵みな、近く枝頭の春に背きて、遠く隴頭の雲を踏むの類にあらざるかを疑い、ひとり自ら嘆息している次第であります。今日の教育、宗教の状態は、ただ今述ぶるとおりの事情でありますから、この二道によって迷信を退治するは、容易のことにあらずと考え、余は自ら一工夫をめぐらし、むしろ外科的医法によりて即席療治を施さんと欲し、妖怪研究の看板を掲げ、『妖怪講義』を発行して世に公にすることにいたしました。今、その要点を一口につまんで申せば、余おもえらく、世人が迷心、惑情を去り難きは、全く天運といえる一大怪物が目前にかかりて、なにほど己の心をたずねてみても、サッパリ分からぬ故であります。けだし、天運とは生死常ならず、禍福定まりなく、世事意のごとくならざる一事にして、これぞ宇宙の最大怪物と申してよろしい。この怪物が実に迷信のバクテリアにして、これに消毒法を施すにあらざれば、到底、世に迷信の痕跡を絶つことはむずかしいと考えます。妖怪研究の必要は全くこの点にあることは、諸君もすでにお分かりでありましょう。たとえて申せば、妖怪学は迷信のバクテリアを殺す消毒剤でありて、余はこれを専売する薬店でありますから、この病にかかりたる人は、一服用いてその効験を試みられたきものであります。

 老いて子に別れ、幼にして父を失い、妻は乳児をすてて去り、夫は家産を破りて死し、昨年は天災にくるしめられ、本年は病患に悩まされ、盗難火難、水災風災、相ついで至るときは、非凡の豪傑、賢人にあらざるよりは、迷いを起こさざるもの、けだし一人もなかるべしと思います。生死、禍福の門に迷わざることは、実に難中の至難であります。しかしながら、迷いやすきものはまた悟りやすきものにして、もしその人の病に相応せる薬法をもってこれを投ずれば、積年固結せる惑病迷疾も、一朝にして雲のごとく散じ、煙のごとく消ゆることができます。(ぎゃく)を医するにはキニーネ剤にしくものなく、迷信を医するには妖怪学にしくものなしとは、余が証券印紙付きにて保証するところであります。畢竟(ひっきょう)するに、人をしてひとたび天運のなんたるを明らかに了解せしむれば、生死の迷門も、禍福の暗路も、たやすく通過し得る道理でありますから、余はここにちょっと一口、天運のなんたるを述べようと考えます。

 天運は規則なきがごとくにして規則あり、定まりなきがごとくにして定まりありて、あたかも夏は暑く、冬は寒いと同じき道理でありますから、決して迷うにも、怪しむにも、嘆くにも、悲しむにも及びませぬ。およそ天の道は公平無私にして、人間のごとく偏頗(へんぱ)の私心あるものではありませぬから、人の方で自分勝手に願った祈りだとて、天はそれがために規則をまげるようなことは決していたしませぬ。すでに公平無私なれば、なにごとも権衡平均を保つように傾くが、天道の常性であります。高きものはこれをおさえ、ひくきものはこれをあげ、弱きものはこれを助け、強きものはこれをしりぞけ、張るものはこれを屈し、縮むものはこれを伸ばすが、いわゆる天道の平均主義であります。あたかも鉄道の敷設(ふせつ)に、高き所はこれを削り、低き所はこれをうずめ、なるべく地平を保たんとすることに似ております。ゆえに余は、天道はなお鉄道のごときかと申しています。

 古来の(ことわざ)にも「人間万事塞翁(さいおう)が馬」とあるがごとく、天道は決して一人の者に幸福のみを与うることなく、また不幸のみを下すことなく、幸福の後には不幸あり、不幸の後には幸福ありて、その循環の次第は、風雨の後には晴天あり、晴天の後には風雨あるがごとく、豊年の後には凶年あり、凶年の後には豊年あるがごとく、誠に天道の公平無私にして、しかも平均権衡を失わざるは感服するばかりであります。われわれなどの、あるときは晨起(はやおき)し、あるときは朝寝し、あるいは忽然(こつぜん)として怒り、あるいは卒爾(そつじ)として喜び、気ままに規則を犯し、勝手に約束を破るものとは、実に天地の相違ではありませぬか。この道理をよくよく推し極めてみれば、世に真の不幸者なく、真の罹災(りさい)者なく、長き年月の間に吉凶禍福の差し引きを立つれば、さほどの損もなければ、得もないことが分かります。しかるに、ひとたび不幸にあえば、再三これを重ねんとし、一人天災にかかれば、一家ことごとくこれにかからんとする傾向あるは、これ多くは天のしからしむるところにあらずして、自ら招くところであります。およそ天災、不幸は弱点に付け込むものなれば、あまり災難を恐れて迷心を増長せしむれば、ますます種々の災難が四方よりおしかけて来るものであります。諺にも「疑心暗鬼を生ず」といえるがごとく、多くの災難、不幸は、これを疑懼(ぎく)するより起こるに相違ありませぬ。軽症の病が重患となり、()くべき病人がにわかに死するがごときは、多くは自分の迷心より招くところであります。一家の衰微滅亡も、やはり天のしからしむるところにあらずして、自ら招くところなるは、これに準じて知ることができます。

 世に不幸の種類いたって多きも、不幸中の不幸は死の一事であります。死は天道の常則にして、我人の免るべからざるところなれども、天寿を全うすることあたわざるは、多くその人自ら招くところなることは、実際に照らして明瞭であります。死すでにしからば、他はいわずとも分かりましょう。かかる道理でありますから、いやしくも人たるものは、天道、天運の規則を明らかにし、生死、禍福の門路を究め、百難、千死をおかしても、決して迷情を動かさず、疑念を起こさず、泰然として一心を不動の地に置き、ふたたび生死路頭の迷子とならざるように平素研究しおくは、この世の浮き橋を渡るに、肝要中の肝要なる心得であります。

 一家の建築には小刀細工では間に合わず、大店の商法には目の子勘定では役に立たず、生死の迷心を定むるには、人相、方位のごとき小刀細工や、売卜(ばいぼく)禁厭(きんよう)のごとき目の子勘定では到底むずかしい。必ずや天地の大道に基づき、道理の根元を明らかにせなければなりませぬ。だれも富士山に登りて、はじめて箱根の低きを知り、地球図を見て、はじめて日本の小なるを覚ゆるがごとく、天地の大道を究めて、はじめて迷信のたのむに足らざるを了解するようになります。ゆえに、我人のたのむべくよるべく安心すべきものは、天地の大道を離れて、決してそのほかに求むることはできませぬ。諸君、もしいやしくも迷信のたのむに足らざるを知らば、速やかに去りて妖怪の学林に遊び、もって天地の大道を講究せよ。諸君、もしいやしくも安心の求むべきを知らば、たちまち来たりて余が門庭に入り、もって生死の迷路を看破せよ。天堂近きにあり楽園遠きにあらず、ただ生死、禍福の迷雲妄霧を一掃して、心天高き所に真月を仰ぐの一事、よく眼前咫尺(しせき)に天堂、楽園を開くことができます。諸君、決してこのことを疑うなかれ。もしこれを疑わば、請う、これを神仏に問え。神仏もし答えずんば、これを先聖に問え。先聖なお告げずんば、これを後人に問え。諸君は必ず先聖後聖、その()一なることを知らん。ただ、余が諸君に誓うところは、古人われを欺かず、われまた他人を欺かざることであります。

 一人の安逸は一国の安逸であり、一家の快楽は一社会の快楽であります。妖怪の研究よく生死路頭の迷人、禍福院内の病客をして最楽至安の天地に遊ばしむるを得ば、その社会国家を益することは申すまでもありませぬ。古来、英雄の事跡を見るに、みな生死、禍福に痴情を起こさず、方寸城中一点の迷塵(めいじん)をとどめざるものに限ります。非凡と凡人との別、英雄と愚俗との差は、迷心を有すると有せざるとによりて分かります。ゆえに、人もし英雄とならんと欲せば、必ずまず迷信を一定する道を講じなければなりませぬ。いかに平々凡々の人物にても、ひとたび迷信を翻して精神を安定するを得ば、意外の事業を大成し得るは必然の道理であります。よし政治家になるにも実業家になるにも、軍人になるにも役人になるにも、この大決心が欠けていて、些々(ささ)たる吉凶禍福に心を奪わるるようでは、平々凡々の輩となりて果つるよりほかはありませぬ。果たしてしからば、妖怪学の研究は一人一家の幸福のみならず、国家社会の繁盛をきたすもととなることは、諸君においても十分わかりましたであろうと考えます。

 以上はあまり妖怪学の効能を述べ過ぎるように見えて、売薬屋の効能書のように思う人もありましょうけれども、余が目的は、最初よりいたずらに閑人の道楽のつもりで始めたるわけではなく、全く愚民の迷心を安定せんとする本心より出でたるものなれば、世人にその趣意を誤解せざるように注意を願いたき一念より、かくのごとく効能を述べたる次第であります。その効能の果たして名実相応するやいなやは、自分免許の保証では人の承知せざる恐れあれば、諸君の研究の結果をまちて決定することにいたしましょう。

 余はこの一事につき、多年焦慮苦心の結果むなしからず。去るころ、宮内大臣より陛下の御前へ奉呈せりとの御沙汰(さた)をこうむり、不肖の光栄満身に余り、感泣おくところを知らざるほどでありました。また、引き続きて文部大臣より過分の賛辞を賜るの栄を得、その喜びまた、まさにあふれんとするばかりでありました。かかる栄誉に対しては、今より一層精を励まし、(しん)を凝らし、もってますます妖怪の蘊奥(うんおう)を究め、宇宙の玄門を開き、天地の大道を明らかにし、生死の迷雲を払い、広く世人をして歓天楽地の間に逍遥(しょうよう)せしめ、永く国家をして金城鉄壁の上に安座せしむることを、かつ祈りかつ誓うところであります。諸君にして、もしよくこの微衷を知らば、余にとりては誠に願うところの幸いであります。

 右は自分で書いたるものを自分で引用したものであるから、なんとなく自画自賛のようなれども、その意、ただ先年の所述なることを示さんためにほかならぬ。

目次に戻る

感想を書く

目次