おばけの正体

70話 おばけの正体 第七〇項 高山の妖怪病

1,185字 約2分 2016年6月5日 公開

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 世間にて高山に登るときに、神経麻痺して手足も動かぬようになり、気絶してたおるることがある。これを天狗(てんぐ)に襲われたとか、魔に触れたとか、地方によっていろいろの名称を与え妖怪の所業に帰するも、その実、平地と高山とは気象も気圧も異なるために、その影響を神経に及ぼして起こるに相違ない。ここに長崎県下の温泉(うんぜん)山の実験談を、『読売新聞』の記事を借りて紹介しよう。長崎県にては、この状態にかかることを「だらし」と呼ぶ由。

 古来、温泉山に登るときは、必ず搏飯(むすび)と梅干しとを携うべし。梅干しは霧を払うの妙薬にして、搏飯は「だらし」を予防するがためなりとの言い習わしあり。「だらし」とは一種の妖怪的飢餓病とのみあって、いまだこれを明白に実験したる者あらざりしが、長崎高等学校医学部生徒某氏は自らこれを実験し、また他人がこの怪病にかかるを見たりという。今その話を聞くに、右の学生はこのころ暑中休暇を得て帰村せんとする途次、右の村と小浜村との間なる山中(あざ)小田山の頂上、矢筈(やはず)の下手辻と称する坂道において、一人の男、野に倒れおるを見たり。その男、学生を見るより(かす)かな声にて、「『だらし』にかかりて困りおるゆえ、搏飯あらば賜れ」という。学生はかねて「だらし」のことを聞きおるをもって、用意の搏飯を与えけるに、男は喜びてこれを食し終われば、間もなく力付きて()せ下れり。さて、右の学生が実験したるは、その後のことにて、冬季休業のため帰村せんとて、右の山道に来かかりしに、たちまち空腹となり、ひもじさいや増して、身体の疲労尋常ならず。手足しびれてすくみたるがごとく、ちょっとも動けず。強いて足をあぐれば、その重さ千(きん)をひくがごとく、手を動かせば、縛られたるに似たり。(こう)じ果てて石に腰打ちかくれば別に苦痛も感ぜざるが、立てば身の重さ少しも減ぜず。進退ここにきわまりながら叫べども応ずる人なきに、ぜひなくはうがごとく坂を()じ登りはじめたるが、たちまち昏絶倒臥(こんぜつとうが)して死生を弁ぜざるもの十数分、その前は時候にも似ず全身すこぶる熱暖なりしが、このときに至り、はじめて野嵐の冷え渡るを覚えて目をさまし、それより千辛万苦して、わずかばかり離れたる横道の茶店にたどりつき、蕎麦(そば)(わん)食したれば、身心はじめてわれにかえり、寒さも相応に感ずるごとくなりて、まずつつがなく郷里に帰着したり。これすなわち「だらし」に取りつかれたるものなるが、里俗には、なにか食物を携えおればこの魔にかからずといえど、実際においては、(いわし)売りの男が鰯の傍らに昏倒(こんとう)したる例あり。その他、数人の同行者が一時におかされたるの例あり。結局は空腹に乗じて、人体内に一種強力の麻痺(まひ)を与うる空気のためなるべし、云云(うんぬん)

 この実験談に照らすに、空腹のときに多く起こるは、高山の空気の人身に影響せること明らかである。これ温泉山に限るにあらず、諸国の高山には往々聞くことである。

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