3話 三
読み方を変える
今まで、おせきは月夜を恐れていたのであるが、その後のおせきは、昼の日光をも恐れるようになった。日光のかがやくところへ出れば、自分の影が地に映る。それを何者にか踏まれるのが怖ろしいので、かれは明かるい日に表へ出るのを嫌った。暗い夜を好み、暗い日を好み、家内でも薄暗いところを好むようになると、当然の結果としてかれは陰鬱な人間となった。
それが嵩じて、あくる年の三月頃になると、かれは燈火をも嫌うようになった。月といわず、日といわず、燈火といわず、すべて自分の影をうつすものを嫌うのである。かれは自分の影を見ることを恐れた。かれは針仕事の稽古にも通わなくなった。
「おせきにも困ったものですね。」と、その事情を知っている母は、ときどきに顔をしかめて夫にささやくこともあった。
「まったく困った奴だ。」
弥助も溜め息をつくばかりで、どうにも仕様がなかった。
「やっぱり一つの病気ですね。」と、お由は言った。
「まあそうだな。」
それが大野屋の人々にもきこえて、伯母夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立っていただけに、彼は一種の責任があるようにも感じられた。
「おまえがそばに付いていながら、なぜ早くその犬を追ってしまわないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からも叱られた。
おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は二十歳の春を迎えている。前々からの約束で、ことしはもう婿入りの相談をきめることになっているのであるが、肝腎の婿取り娘が半気ちがいのような、半病人のような形になっているので、それもまずそのままになっているのを、おせきの親たちは勿論、伯母夫婦もしきりに心配していたのであるが、ただ一と通りの意見や説諭ぐらいでは、どうしてもおせきの病をなおすことは出来なかった。
なにしろこれは一種の病気であると認めて、近江屋でも嫌がる本人を連れ出して、二、三人の医者に診てもらったのであるが、どこの医者にも確かな診断をくだすことは出来ないで、おそらく年ごろの娘にあり勝の気鬱病であろうかなどというに過ぎなかった。そのうちに大野屋の総領息子、すなわち要次郎の兄が或る人から下谷に偉い行者があるということを聞いて来たが、要次郎はそれを信じなかった。
「それは狐使いだということだ。あんな奴に祈祷を頼むと、かえって狐を憑けられる。」
「いや、その行者はそんなのではない。大抵の気ちがいでも一度祈祷をしてもらえば癒るそうだ。」
兄弟がしきりに言い争っているのが母の耳にもはいったので、ともかくもそれを近江屋の親たちに話して聞かせると、迷い悩んでいる弥助夫婦は非常によろこんだ。しかしすぐに娘を連れて行くといっても、きっと嫌がるに相違ないと思ったので、夫婦だけがまずその行者をたずねて、彼の意見を一応きいて来ることにした。それは嘉永二年六月のはじめで、ことしの梅雨のまだ明け切らない暗い日であった。
行者の家は五条の天神の裏通りで、表構えはさほど広くもないが、奥行きのひどく深い家であるので、この頃の雨の日には一層うす暗く感じられた。何の神か知らないが、それを祭ってある奥の間には二本の蝋燭がともっていた。行者は六十以上かとも見える老人で、弥助夫婦からその娘のことをくわしく聞いた後に、彼はしばらく眼をとじて考えていた。
「自分で自分の影を恐れる……それは不思議のことでござる。では、ともかくもこの蝋燭をあげる。これを持ってお帰りなさるがよい。」
行者は神前にかがやいている蝋燭の一本をとって出した。今夜の子の刻(午後十二時)にその蝋燭の火を照らして、壁かまたは障子にうつし出される娘の影を見とどけろというのである。娘に何かの憑き物がしているならば、その形は見えずともその影がありありと映るはずである。その娘に狐が憑いているならば、狐の影がうつるに相違ない。鬼が憑いているならば鬼が映る。それを見とどけて報告してくれれば、わたしの方にもまた相当の考えがあるというのであった。かれはその蝋燭を小さい白木の箱に入れて、なにか呪文のようなことを唱えた上で、うやうやしく弥助にわたした。
「ありがとうござります。」
夫婦は押し頂いて帰って来た。その日は夕方から雨が強くなって、ときどきに雷の音がきこえた。これで梅雨も明けるのであろうと思ったが、今夜の弥助夫婦にとっては、雨の音、雷の音、それがなんとなく物すさまじいようにも感じられた。
前から話しておいては面倒だと思ったので、夫婦は娘にむかって何事も洩らさなかった。四つ(午後十時)には店を閉めることになっているので、今夜もいつもの通りにして家内の者を寝かせた。おせきは二階の三畳に寝た。胸に一物ある夫婦は寝たふりをして夜のふけるのを待っていると、やがて子の刻の鐘がひびいた。それを合図に夫婦はそっと階段をのぼった。弥助はかの蝋燭を持っていた。
二階の三畳の襖をあけてうかがうと、今夜のおせきは疲れたようにすやすやと眠っていた。お由はしずかに揺り起こして、半分は寝ぼけているような若い娘を寝床の上に起き直らせると、かれの黒い影は一方の鼠壁に細く揺れて映った。蝋燭を差し出す父の手がすこしく顫えているからであった。
夫婦は恐るるように壁を見つめると、それに映っているのは確かに娘の影であった。そこには角のある鬼や、口の尖っている狐などの影は決して見られなかった。