影を踏まれた女

4話

4,058字 約8分 2017年10月15日 公開

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 夫婦は安心したようにまずほっとした。不思議そうにきょろきょろしている娘を再びそっと寝かせて、ふたりは抜き足をして二階を降りて来た。

 あくる日は弥助ひとりで再び下谷の行者をたずねると、老いたる行者はまた考えていた。

「それでは私にも祈祷の仕様がない。」

 突き放されて、弥助も途方にくれた。

「では、どうしても御祈祷は願われますまいか。」と、彼は嘆くように言った。

「お気の毒だが、わたしの力には及ばない。しかし、折角たびたびお出でになったのであるから、もう一度ためして御覧になるがよい。」と、行者はさらに一本の蝋燭を渡した。「今夜すぐにこの火を燃やすのではない。今から数えて百日目の夜、時刻はやはり子の刻、お忘れなさるな。」

 今から百日というのでは、あまりに先きが長いとも思ったが、弥助はこの行者の前でわがままを言うほどの勇気はなかった。かれは教えられたままに一本の蝋燭を頂いて帰った。

 こういう事情であるから、おせきの婿取りも当然延期されることになった。あんな行者などを信仰するのは間違っていると、要次郎は蔭でしきりに憤慨していたが、周囲の力に圧せられて、かれはおめおめそれに服従するのほかはなかった。

「夏のうちにどこかの滝にでも打たせたらよかろう。」と、要次郎は言った。彼は近江屋の夫婦を説いて、王子か目黒の滝へおせきを連れ出そうと企てたが、両親はともかくも、本人のおせきが外出を堅く(こば)むので、それも結局実行されなかった。

 ことしの夏の暑さは格別で、おせきの夏痩せは著しく眼に立った。日の目を見ないような奥の間にばかり閉じこもっているために、運動不足、それに伴う食欲不振がいよいよかれを疲らせて、さながら生きている幽霊のようになり果てた。わけを知らない人は癆症(ろうしょう)であろうなどとも(うわさ)していた。そのあいだに夏も過ぎ、秋が来て、旧暦では秋の終りという九月になった。行者に教えられた百日目は九月十二日に相当するのであった。

 それは初めて知ったわけではない。行者に教えられた時、弥助夫婦はすぐにその日を繰ってみて、それが十三夜の前日に当たることをあらかじめ知っていたのである。おせきが初めて影を踏まれたのは去年の十三夜の前夜で、行者のいう百日目があたかも満一年目の当日であるということが、かれの父母の胸に一種の暗い影を投げた。今度こそはその蝋燭のひかりが何かの不思議を照らし出すのではないかとも危ぶまれて、夫婦は一面に言い知れない不安をいだきながらも、いわゆる怖いもの見たさの好奇心も手伝って、その日の早く来るのを待ちわびていた。

 その九月十二日がいよいよ来た。その夜の月は去年と同じように明かるかった。

 あくる十三日、きょうも朝から晴れていた。ひる少し前に弱い地震があった。八つ頃(午後二時)に大野屋の伯母が近所まで来たといって、近江屋の店に立ち寄った。呼ばれて、おせきは奥から出て来て、伯母にもひと通りの挨拶をした。伯母が帰るときに、お由は表まで送って出て、往来で小声でささやいた。

「おせきの百日目というのは昨夜(ゆうべ)だったのですよ。」

「そう思ったからわたしも様子を見に来たのさ。」と、伯母も声をひそめた。「そこで、何か変わったことでもあって……。」

「それがね、姉さん。」と、お由はうしろを見かえりながら摺り寄った。「ゆうべも九つ(午後十二時)を合図におせきの寝床へ忍んで行って、寝ぼけてぼんやりしているのを抱き起して、うちの人が蝋燭をかざしてみると……壁には骸骨(がいこつ)の影が映って……。」

 お由の声は顫えていた。伯母も顔の色を変えた。

「え、骸骨の影が……。見違いじゃあるまいね。」

「あんまり不思議ですからよく見つめていたんですけれど、確かにそれが骸骨に相違ないので、わたしはだんだんに怖くなりました。わたしばかりでなく、うちの人の眼にも見えたというのですから、(うそ)じゃありません。」

「まあ。」と、伯母は溜め息をついた。「当人はそれを知らないのかえ。」

「ひどく眠がっていて、またすぐに寝てしまいましたから、なんにも知らないらしいのです。それにしても、骸骨が映るなんて一体どうしたんでしょう。」

「下谷へ行って訊いてみたの。」と、伯母は訊いた。

「うちの人は下谷へ行って、その話をしましたところが、行者さまはただ黙って考えていて、わたしにもよく判らないと言ったそうです。」と、お由は声を曇らせた。「ほんとうに判らないのか、判っていても言わないのか、どっちでしょうね。」

「さあ。」

 判っていても言わないのであろうと、伯母は想像した。お由もそう思っているらしかった。もしそうならば、それは悪いことに相違ない。善いことであれば隠すはずがないとは、誰でも考えられることである。二人の女は暗い顔を見合わせて、しばらく往来中に突っ立っていると、その頭の上の青空には白い雲が高く流れていた。

 お由はやがて泣き出した。

「おせきは死ぬのでしょうか。」

 伯母もなんと答えていいか判らなかった。かれも内心には十二分の恐れをいだきながら、ともかくも間にあわせの気休めを言っておくのほかはなかった。

 伯母は家へ帰ってその話をすると、要次郎はまた怒った。

「近江屋の叔父さんや叔母さんにも困るな。いつまで狐使いの行者なんかを信仰しているのだろう。そんなことをしてこっちをさんざん(おど)かしておいて、おしまいに高い祈祷料をせしめようとする魂胆に相違ないのだ。そのくらいの事が判らないのかな。」

「そんなことを言っても、論より証拠で、ちょうど百日目の晩に怪しい影が映ったというじゃないか。」と、兄は言った。

「それは行者が狐を使うのだ。」

 またもや兄弟喧嘩がはじまったが、大野屋の両親にもその裁判が付かなかった。

 行者を信じる兄も、行者を信じない弟も、しょせんは水かけ論に過ぎないので、夕飯を境にしてその議論も自然物別れになってしまったが、要次郎の胸はまだ納まらなかった。夕飯を食ってしまって近所の銭湯へ行って帰ってくると、今夜の月はあざやかに昇っていた。

「いい十三夜だ。」と、近所の人達も表に出た。中には手を合わせて拝んでいるのもあった。

 十三夜――それを考えると、要次郎はなんだか家に落ちついていられなかった。かれはふらふらと店を出て、柴井町の近江屋をたずねた。

「おせきちゃん、いますか。」

「はあ。奥にいますよ。」と、母のお由は答えた。

「呼んでくれませんか。」と、要次郎は言った。

「おせきや。要ちゃんが来ましたよ。」

 母に呼ばれて、おせきは奥から出て来た。今夜のおせきはいつもよりも綺麗(きれい)に化粧しているのが、月のひかりの前にいっそう美しく見えた。

「月がいいから表へ拝みに出ませんか。」と、要次郎は誘った。

 おそらく断わるかと思いのほか、おせきは素直に表へ出て来たので、両親も不思議に思った。要次郎もすこし案外に感じた。しかし彼はおせきを明かるい月の前にひき出して、その光りを恐れないような習慣を作らせようと決心して来たのであるから、それをちょうど幸いにして、ふたりは連れ立って歩き出した。両親もよろこんで出してやった。

 若い男と女とは、金杉の方角にむかって歩いて行くと、冷たい秋の夜風がふたりの(たもと)をそよそよと吹いた。月のひかりは昼のように明かるかった。

「おせきちゃん。こういう月夜の晩にあるくのは、いい心持だろう。」と、要次郎は言った。

 おせきは黙っていた。

「いつかの晩も言った通り、つまらないことを気にするからいけない。それだから気が(ふさ)いだり、からだが悪くなったりして、お父さんやおっ母さんも心配するようになるのだ。そんなことを忘れてしまうために、今夜は遅くなるまで歩こうじゃないか。」

「ええ。」と、おせきは低い声で答えた。

 ――影や道陸神、十三夜のぼた餅――

 子供の唄がまた聞こえた。それは近江屋の店さきを離れてから一町ほども歩き出した頃であった。

「子供が来てもかまわない。平気で思うさま踏ませてやる方がいいよ。」と、要次郎は励ますように言った。

 子供の群れは十人ばかりがひと組になって横町から出て来た。かれらは声をそろえて唄いながら二人のそばへ近寄ったが、要次郎は片手でおせきの右の手をしっかりと握りながら、わざと平気で歩いていると、その影を踏もうとして近寄ったらしい子供等は、なにを見たのか急にわっと言って一度に逃げ散った。

「お化けだ、お化けだ。」

 かれらは口々に叫びながら逃げた。影を踏もうとして近寄っても、こっちが平気でいるらしいので、さらにそんなことを言って嚇したのであろうと思いながら、要次郎は自分のうしろを見返ると、今までは南にむかっていたので一向に気が付かなかったが、斜めにうしろの地面に落ちている二つの影――その一つは確かに自分の影であったが、他の一つは骸骨の影であったので、要次郎もあっと驚いた。行者を狐つかいなどと(ののし)っていながらも、今やその影を実地に見せられて、彼はにわかに言い知れない恐怖に襲われた。子供らがお化けだと叫んだのも嘘ではなかった。

 要次郎は不意の恐れに前後の考えをうしなって、今までしっかりと握りしめていたおせきの手を振り放して、半分は夢中で柴井町の方へ引っ返して逃げた。

 その注進に驚かされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへ駈けつけてみると、おせきは右の肩から袈裟斬(けさぎ)りに斬られて往来のまん中に倒れていた。

 近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかかって、いきなり刀をぬいておせきを斬り倒して立ち去ったというのであった。宵の口といい、この月夜に辻斬りでもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまったのかも知れない。

 おせきが自分の影を恐れていたのは、こういうことになる前兆であったかと、近江屋の親たちは嘆いた。行者の奴が狐をつけてこんな不思議を見せたのだと、要次郎は憤った。しかし誰にも確かな説明の出来るはずはなかった。ただこんな奇怪な出来事があったとして、世間に伝えられたに過ぎなかった。

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