32話 三十二
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「そこでお夏さんだ、どうなすったろう。私がこの慌て方じゃあ二階に残った女連は気絶たかも分らない。お夏さんはお夏さんで、雛を大切に取出しそうな権幕だったが、火急にも何にも内裏様一個抱く時分にゃあ、火の粉を被んなすったに違いがないと、さあ、心配になって堪りません。
矢でも鉄砲でも火事場へ飛んで帰って、お夏さんの様子を見ようと、引返そうとすると、抱えている鶏なんです。
先刻のあの場合にも、愛吉鶏をッてお謂いなすった、どうしよう、これをまあ。
葛籠長持と違って、人の家へ投ッ放しに預けて来られるんじゃあなし、庇って持っていた日にゃあ、人混の中だってうっかり歩行かれるんじゃあねえ。火の中から助け出したばかりで、跡をお去らばにして可い位なら、お夏さんがお頼みはなさるまいし、私だって頼まれる程の事じゃあなし、困りましたね、どうも、何しろ活物だから始末が悪かったろうじゃアありませんか。
人通のない土手だって、軍鶏ばかり置いて行きゃ、どこへ去っちまうも知れたもんじゃアありませずね。見りゃ溜池の中に舟もあったし、材木もありましたが、水死人を捜すように鶏を浮しとく数じゃありませず、持扱いましたね、全く気が気じゃあなかったんで、一羽抱え込んで跣足で池の縁をまごまごしてる風ッてのはありません、我ながら薄ぼんやり、どうしてるのかと思いました。
火事はまだ盛です。
すると灰のように薄赤い向うの路へ影がさして、四五人一列になって来るのがあります。土手を横に切って、あれから埋地にかかった橋の、欄干が真中で切れて水へ折れ込んでいようという、ぺんぺん草の生えてる袂へ寄って、渡ろうとする時分にゃあ私が居る間近になったから見えました。
真先が女で、二番目がまた女、あとの二人がやっぱり女、みんな顔の色が変ってまさ、島田か銀杏返か、がッくり根が抜けて、帯を引摺ってるのがありますね、八口の切れてるのがありますね、どれもどれも小刻みに、歩行くと絡むのは燃立つでしょう。
一人々々に人形だの、雛の道県だのを持ってる、三人目の、内裏様を一対、両手に持って、袖で掻合して胸に押着けていたのがお夏さん、夜目にも確か、深川中探したって、およそその位なのはないのですからね、……助かった。
つかつかと駈け寄って、背後から、ちょうど橋の真中へその一組のかかったのを、やあ、と私あ嬉し紛れに頓興な声を懸けました。
屹と立留って、黙って私を見なすった、その時のようにお夏さんの、あんな気高い凄い顔を見たことはありませんでしたよ。鬢の毛も乱れています、それに、場所がそんなでしょう、天を焦す明でしょう。つい目の前にあの、愛吉、鶏をッて謂いなすった二階の景色が見えるのに、急に変ってそれなんでしょう、こりゃ死んだ魂が直とここへ映るのか、そうでなけりゃお夏さんの守護をして、緋の袴の連中が火の中から化けて来たのだ。」