三枚続

44話 四十四

1,187字 約2分 2012年4月8日 公開

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「お夏や。」

 折から奥で衰えた声して呼んだのは、病の床に()しているという母様(おっかさん)。この声を聞くと、愛吉は胸を折って、肩の中へ(うなじ)(すく)めて、口をむぐむぐと遣る。お夏はこれを見ぬようにしてちょいと見ながら、

母様(おっかさん)。」

「おお、いいえ、来るに及びません、勘定をしておいでか。」

「はい、」と軽く言う。

「御苦労だの。」

「母様、今夜は愛吉が来てくれまして、種々(いろいろ)あの交ぜかえしたり、下手な算盤を置いたり、間違ったことをいったりしますから、おもしろくッて()うございますよ。」

(ひど)いことを、」と口の(うち)、愛吉は苦い顔をして、お夏を(うら)めしそうに見る目をぱちくり。

「愛吉、難有(ありがと)うよ。」

「これは、」と額を押えたが、隔てていれば見えもせず、聞えもせず、()のあたりのお夏にはどんなに可笑(おかし)かったろう。

「母様、愛吉があんな風をいたします。」

 愛吉はじたばたしたが、くるりと坐り直って奥の(かた)に手をついた。

「どういたしまして、ええ、水をって申しますと、平時(いつも)のとおり裏長屋の婆さんが汲込(くみこ)んで行ったと仰有(おっしゃ)るんで、へい、もう根っから役に立ちません。」と膝を(さす)ったり、天窓(あたま)を掻いたり。

「へい、何でございまして、その、」

「何がどうおしなのさ、」とお嬢さん人の悪い。

 愛吉はまた慌てて、

「その、何でございまして、へい。」

「佃島のは達者かい。」

「ええ阿母(おっかあ)でございますか、ええ、ぴんぴんいたしております。ええ毎日のようにもお伺い申し上げませんければなりませんと、いつでもそう申しちゃあね、済まないッて言いますんでございますが、ああして一人で店を()っておりますし、それにこの頃じゃあ、度々上ると、お夏様が気を()んでお構い遊ばして、却ってお邪魔だからと、こんなに申しまして、へい。」

「そうかい、お前がちょいちょい来てくれるんだもの。佃島からは大変だ、今度逢ったら宜しくと申してくんなよ。」

難有(ありがと)うございます、(わっし)はどうもちっとも御用にゃ立ちませんで、ほんのもうお嬢様の癇癪(かんしゃく)、」

 途端にお夏が帳場格子をコトコトと叩いて気を着けた。振向くと眉を(ひそ)めて、かぶりを振って見せたので、

「癇、」と行詰り、

「癇……癪なんぞお起しなすっちゃあ不可(いけ)ません、紋床の親方なんぞも申しますが、気永に御養生なさいませんと、お()れなさるのは一番毒ですって、」といいかけて、額の汗を(ぬぐ)いながら、愛吉は這身(はいみ)になり、暗い蘆戸(よしど)覗入(のぞきい)れるようにして、

「もし御新造様(ごしんぞさま)え。」

 ややあって、

「あいよ。」

「そして早くよくおなんなすって、またお襟でもあたらして下さいまし、そうまずくはありませんや、剃刀(かみそり)だけは御用に立ちます。」としんみりする。

「涼しくなったら可かろうと思うよ、今夜あたりは余程(よっぽど)心持が()いようだよ。」

 しばらく(ことば)が途絶えたが、

「お夏や。」

「母様。」

先刻(さっき)うとうとしていると、戸外(おもて)大分(だいぶん)騒がしかったようだっけ、」

 愛吉はぎょっとして、また(うなじ)(すく)め、

「そうら。」

「何? あれは。」

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