44話 四十四
読み方を変える
「お夏や。」
折から奥で衰えた声して呼んだのは、病の床に臥しているという母様。この声を聞くと、愛吉は胸を折って、肩の中へ頸を縮めて、口をむぐむぐと遣る。お夏はこれを見ぬようにしてちょいと見ながら、
「母様。」
「おお、いいえ、来るに及びません、勘定をしておいでか。」
「はい、」と軽く言う。
「御苦労だの。」
「母様、今夜は愛吉が来てくれまして、種々あの交ぜかえしたり、下手な算盤を置いたり、間違ったことをいったりしますから、おもしろくッて可うございますよ。」
「酷いことを、」と口の裡、愛吉は苦い顔をして、お夏を怨めしそうに見る目をぱちくり。
「愛吉、難有うよ。」
「これは、」と額を押えたが、隔てていれば見えもせず、聞えもせず、目のあたりのお夏にはどんなに可笑かったろう。
「母様、愛吉があんな風をいたします。」
愛吉はじたばたしたが、くるりと坐り直って奥の方に手をついた。
「どういたしまして、ええ、水をって申しますと、平時のとおり裏長屋の婆さんが汲込んで行ったと仰有るんで、へい、もう根っから役に立ちません。」と膝を擦ったり、天窓を掻いたり。
「へい、何でございまして、その、」
「何がどうおしなのさ、」とお嬢さん人の悪い。
愛吉はまた慌てて、
「その、何でございまして、へい。」
「佃島のは達者かい。」
「ええ阿母でございますか、ええ、ぴんぴんいたしております。ええ毎日のようにもお伺い申し上げませんければなりませんと、いつでもそう申しちゃあね、済まないッて言いますんでございますが、ああして一人で店を行っておりますし、それにこの頃じゃあ、度々上ると、お夏様が気を揉んでお構い遊ばして、却ってお邪魔だからと、こんなに申しまして、へい。」
「そうかい、お前がちょいちょい来てくれるんだもの。佃島からは大変だ、今度逢ったら宜しくと申してくんなよ。」
「難有うございます、私はどうもちっとも御用にゃ立ちませんで、ほんのもうお嬢様の癇癪、」
途端にお夏が帳場格子をコトコトと叩いて気を着けた。振向くと眉を顰めて、かぶりを振って見せたので、
「癇、」と行詰り、
「癇……癪なんぞお起しなすっちゃあ不可ません、紋床の親方なんぞも申しますが、気永に御養生なさいませんと、お焦れなさるのは一番毒ですって、」といいかけて、額の汗を拭いながら、愛吉は這身になり、暗い蘆戸を覗入れるようにして、
「もし御新造様え。」
ややあって、
「あいよ。」
「そして早くよくおなんなすって、またお襟でもあたらして下さいまし、そうまずくはありませんや、剃刀だけは御用に立ちます。」としんみりする。
「涼しくなったら可かろうと思うよ、今夜あたりは余程心持が可いようだよ。」
しばらく言が途絶えたが、
「お夏や。」
「母様。」
「先刻うとうとしていると、戸外が大分騒がしかったようだっけ、」
愛吉はぎょっとして、また頸を縮め、
「そうら。」
「何? あれは。」