3話 三 方法
読み方を変える
さて、出発点だけはまず子供の心と定めたが、それより少しずつ半径をのばしてだんだん周囲のほうに考えをひろげてゆくには、いかなる方法によるかというに、われらの考えによると、ここにもっとも注意せねばならぬのは言葉の羈絆から脱するということである。今の人間は言葉を用いてでなければ物が考えられぬゆえ、言葉の羈絆から脱するというても実は程度の問題であって、絶対に脱することはもとより望まれぬ。しかしながら初めからその心持ちで言葉を使用したならば、いくぶんか自由に考えることができよう。前に考えの出発点を子供の心におくがよろしいと言うたが、それから徐々と考えを進めてゆくにあたっても、まず一度は子供の境遇まで立ちもどり、子供が言葉を用いると同様の態度で言葉を用い、その後はただ必要なだけ新たな言葉を追加してゆけば、余計な誤りを引き入れずにすますことができよう。欲をいえば言葉などのまだなかった時代まで一度立ちもどって、さらに出なおして全く言葉などの助けを借りずに考えることができたならば、もっとも妙であるが、これは少し無理な注文のようであるから、せめては言葉にとらわれることのいまだ浅い子供の言葉の遣い方をまねて、どこまでも言葉にとらえられぬようにと注意しながら考えを進めてゆかねばならぬ。
言葉にとらえられたために起こるまちがいの第一は、境界のないところに境界ありと思い誤ることである。元来物の名前は他と区別するためにつけられたものゆえ、差別に基づいているはいうまでもない。互いに相違のある物を一つ一つに別の名をつけて呼ぶことは日々の生活上、便利でもあり必要でもある。子供が言葉を用いるにあたっては、ただ差別をいい現わすだけで、別に境界があるかないかは考えていない。腹が痛むとか、背がかゆいとか、足をくじいたとか、膝をすりむいたとかいうて、不便なく意を通じているだけで、腹とはどこからどこまでをいうか、腹と背との境はどこにあるか、どこまでが膝の領分でどこから先が、足の範囲かというようなことはまるで考えずにいる。子供は物の名を単に他と区別するための方便として用いているが、こうしている間ははなはだしい誤りは生ぜぬ。しかるに人間が哲学をやり始めると、そのままでは承知せず、必ずひとつひとつの言葉に定義を下さずにはおかぬが、これはよくよく誤謬の始まりである。なぜというに定義を造ることはすなわち境界のないところに便宜上境界を定めることであるが、これを用いつづけている間にはかかる境界が初めから存在していたかのごとくに思い込みやすい。解剖学の書物を開いて見ると人体の表面を若干の区域に分け、赤い線でいちいち、その境界を画き、上腹区、中腹区、下腹区、乳腺区、胸骨区、前頸区などと各区域に名称がつけてあるが、実物の人体の表面にはむろん何の境もない。いかにていねいに探して見ても、上腹区と中腹区との間にも中腹区と下腹区との間にも、判然たる境界線は決して見いだされぬ。そのありさまはいかに地面を探しても下谷区と浅草区との境界線がなく、いかに隅田川の底を調べても日本橋区と本所区との境界線が見当たらぬのにひとしい。されば頸とはどこからどこまでを言うか、腕とはどこからどこまでを言うかと尋ねられると、解剖書の図版の上では答えられても、実物を突きつけられてはたちまち閉口する。かような次第で、およそ物の名前の定義は、みな、人間が自身の都合で勝手に境界を定めたものに過ぎぬが、実物のある場合には、このことはただちに知れる。これに反して実物について検査してみる便宜のない抽象的の言葉であると、自分で造った境界線が真にそこにあるごとくに考えるくせがついて容易なことではこれが抜けぬが、これはすでに言葉に捕えられている徴候である。自分の地面と隣の地面との間には明らかな境界線を定めておかねば気がすまず、わが国と隣の国との間には溝を掘って境をあきらかにしておかぬと安心ができぬが、この心持ちが、言葉の方面にも働いて一つ一つの言葉の間に繩張りをしておかぬと、観念の整理ができぬごとくに感じ、なにはさておいても言葉の定義を造ることに骨を折るのであろう。しこうして、いったん、おのおのの言葉の領分の間に繩張りをすると、後にはこれに捕えられて、繩張りのあるところには必ずこれに相当する自然の境界が実際にあるものと信じて疑わぬにいたる。昔から哲学者の間に言葉の繩張りに関する水かけ論のすこぶる多かったのは、いずれも言葉に捕えられていながら、自身にこれに心づかなかったゆえである。
言葉に捕えられたために生ずるまちがいの第二は事物を模型化しながらこれに心づかぬことである。自然物を手に取って調べて見ると一つとして絶対に相ひとしい物はないが、それに一つ一つ別の名称をつけて区別することはとうてい不可能であるゆえ、やむをえずある程度まで互いに相似た物を集めて一組とし、これに対して一つの名をつけた。犬とか猫とか、松とか竹とかいうのはかくしてつけた種類の名であるが、このような名称を用いつづけていると、ついには同じ名で呼ばれる物はみな同一であるごとくに思い、その中の一つ一つが、互いに相異なるという事実を忘れやすい。また同じ名で呼ぶ物の間の相違を忘れる結果として、別の名で呼ぶ物と物との間の相違を常に一定量であるごとくにみなすにいたる。たとえば同じく犬というても一匹一匹にかならず違うものであるに、犬という言葉をつかっていると、犬をすべて同じ物と見なして、その間の相違を無視する傾きが生じ、猫という言葉を用いれば、猫をすべて同じ物と見なしてどの犬とどの猫とでもその間の相違の量はいつも同じであるごとくに感じやすい。これは実際に相違のあるところを相違のない形になおし、凸凹のあるところを平面に造り変えたのであるゆえ、明らかに事実の模型化である。もっとも同じ名で呼ぶ物の間の相違が目立つ場合には、さらにこれを細別していちいちに名称をつけるが、かくしても、ただ階段が一つ下がっただけで取り扱う心持ちは少しも変わらぬ。すなわち犬をセッター、ポインター、テリヤー、グレーハウンド等に分けて、これらの名称を用いればまたセッターをすべて同じ物、ポインターをすべて同じ物と思う傾きが生ずるゆえ、事実を模型化するという点は前にひとしい。一方の高い端から、他方の低い端まで連続している斜面には、高さの同じ部分は決してないが、すべての部分にことごとく名称をつけることはできぬゆえ、その中から最も特徴のいちじるしい点を若干だけ選んでこれに名称をつけて満足するのほかはないが、かくしていちいちの名称の範囲に繩張りをし、繩張り内を水平であるごとくに見なせば、斜面はそのため階段の形に造り変えられる。無限に変化のある物にはそのままでは名がつけられぬゆえ、便宜上これをいくつかの部分に分かち、それに名をつけておくよりほかにいたし方はないが、これはあたかも斜面を階段に造り変えたことにあたる。果物屋の亭主が最大から最小まで漸々移りゆく数多くの林檎を自分の見計らいで、これは一個六銭の部類、これは一個七銭の部類と便宜幾組かに分けるのも、鉄道の係りが、初生児から老年まで次第に移りゆく人間の年齢を、ここまでは無賃の部、ここまでは半額の部、ここからが全額の部と便宜三組に分けるのも皆これと同様の扱いをしているのである。虹の色を七つに分けるのも、もしも、各色の範囲を定めるならば、境界のないところに境界を造って、一種の模型に直したことにあたる。
また物に名称をつけると、その物を静止し固定せしめる傾きが生ずる。絶えず動いて変じゆく物にはそのままでは名がつけられぬゆえ、随時にある瞬間をとらえ、これをしばらく静止するものと仮定して名をつけるよりほかにいたし方がない。そうしてかく飛び飛びにいくつかの瞬間をとらえてこれに名称を付し、隣接する名称との間を繩張りで仕切ると、繩張り内だけでは動かなかったごとくに感じ、時の流れはあたかも静止の時期と、一足飛びの瞬間とが互いに相交代するごとき形に模型化せられる。歴史をいくつかの時代に分けて、各時代に、それぞれ名をつけるとややもすれば、かような感じを起こさしめるおそれがある。天地間にある万物はいずれも変化せぬものはないが、名称のほうは固定しているゆえ、名称をつけられ、それで呼ばれると、その物までが固定せるごとくに見なされるをまぬがれぬ。常に変じつつある物を暫時固定せるごとくに考えきたった例は、昔からずいぶんたくさんにあるが、これには言葉が大いに手伝っていたと思われる。
以上述べたとおり、言葉を用いて物を考える場合には、勢い境界のないところに境界を造ったり、言葉に合わせて事物を模型化したりすることを避けられぬが、このことはむろん有形の物質に限ったわけではなく、無形の抽象的方面にも通じたことである。しこうして有形物のほうでは実際境界があるかないか、模型と実物とが一致するか、せぬかを実物について直接に検査して見る便宜があるから、誤りを見いだすことが、比較的に容易であるが、無形の事物になると、かような検査がすこぶる困難であるために、まるで誤った議論でもなかなか化の皮が現われず長く生命を保つことができる。また有形物のほうでは実際にない物に名をつける気遣いはないが、無形の議論においては、ない物を想像して、これに名をつけることがしばしばあり、しかも、いったん名がつけられるとその物があるかのごとき心持ちになる。名さえつけてなければ初めから全く問題にものぼらなかったはずの想像物が、名があるばかりに、多数の人々にやかましく論ぜられるのを見ても、いかに今日の学者が言葉の奴隷となっているかが知られる。されば物の理屈を考えるにあたっては、できるだけ言葉の羈絆を脱し、決して言葉にとらえられて、むだなことに頭脳をなやまさぬように充分注意せねばならぬ。