4話 四 用心
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われらの哲学は以上述べたとおり、子供の心を出発点とし、できるだけ言葉に捕えられぬように注意しながら論を進めてゆくことを主張するが、その際いかなる心持ちで事物を見るべきかというに、これには子供の心とは正反対の態度を取ることを要する。子供は自分の分からぬと思うことは、何でも親や付き添いの人に尋ねるが、何とでも答えてもらいさえすればそれで満足する。すなわち聞いたことを何でもそのままに信ずる性質を備えているが、これは哲学には絶対に禁物である。見ずして信ずる者は幸なりなどというて、宗教は初めから信ずることを要求するが、哲学は何ごとをも批評し研究するつもりで取りかからねばならぬ。われらの考えによれば、およそ一派の哲学を組み立てようとする者には、あたかも五十年の一生を絶えずだまされ続け、世の中にはすでに愛憎をつくしている老人のごとくに、何ごとをもただでは信ぜぬという態度が必要である。今日までの人間の知識の歴史が、誤っては改め、誤っては改めることの連続であるのを思えば、何ごとでも軽々しく確信するのは大いに考えものであるが、特に先から先へと物の理屈を考えてゆく哲学においては、どこに一つのまちがいがはいりこんでも、それから先が全部だめになるところがあるゆえ、議論の一段ごとに、厳重な用心をせねばならぬ。
人のいうたこと、書物に書いてあることをそのままに信ぜぬのみならず、自分で直接に見たと思うこと、さわったと思うことでも一応は確かめてみる必要がある。生理学の書物を開いて見れば、錯覚や幻覚の例がいくらも出ているが、特別の注意を怠ると、そのためずいぶん誤ったことをそのまま信ずるにいたらぬとも限らぬ。並行線でもこれに若干の斜線を画き加えると不並行線に見え、一個の豌豆でもこれを中指を人差し指の上に折り重ねてなでると確かに二つあるごとくに感ずる。ただしこれは物差しで測るとか目で見るとか、手の掌でふれるとかすれば、線の並行せること、豌豆の一つよりないことが容易に知れるゆえ、錯覚のままに誤り信ずるにはいたらぬ。また同じ大きさのゴム球でも、短い棒の先でなでれば大きく感じ、長い棒の先でなでれば小さく感ずるが、目を開いて見ればただちにその誤りを訂正することができる。人間には感覚の器官が幾種類もあるゆえ、たとえ一種の感覚器で誤り感じても、他の感覚器で調べてみれば、その誤りなることに気がついて決してまちがいのままには終わらぬ。ただし注意を怠ると、繩が蛇に見えたり、薄が幽霊に見えたりして、これを見た当人は確かに蛇や幽霊を見たと信じている例はいくらでもある。
ない物が見えたり、ある物が見えなかったりするのが幻覚であるが、熱病などにかかるとこのことは決してまれでない。もしも世間の人間がことごとく同じ熱病にかかり、同じ幻覚を持ったならば、これを訂正する道はないわけであるが実際にはさような場合は決してあるはずはなく、一人の熱病人の周囲には、数十人数百人の健康な人が控えているゆえ、これとくらべて、病人の幻覚の誤りなることはただちに確かめられる。ガスをかいだり、薬を飲んだりすれば、神経系統にある変化が起こって、幻覚が生ずることのあるべきはだれにも理解せられるであろうが、病気や薬によらずともずいぶん幻覚を生ぜしめうる場合があろう。たとえば日常普通の生活状態とは大いに異なった境遇に身をおいたり、つねには決してせぬような変わったことをなし続けたりすれば、神経系統の具合が変わって、そのため他人には見えぬ物が見えたり、他人の感ぜぬことを感じたりするようになることもあろう。このような場合に、その当人は幻覚を幻覚と思わず、これを真実と確信してその上に勝手な人生観を立てることが多いが、われらから見ればこれは熱病人の幻覚と同一に取り扱うべきものである。インドの宗教信者の行なうような、難行苦行をすれば、ずいぶん光明を放った仏の姿がありありと目の前に見えることもあろうが、これはその当人限りに見えるものでだれにもその存在を信ぜしめるわけにはゆかぬ。特殊の一個人が特殊の修行を積んで、初めて達しえた神経系統の特殊の状態は、普通の健全な人間と異なるという点においては、熱病人と毫も異なるところはない。
しからば、われわれは何を信ずべきかというに、われらの考えによれば、普通の健全な人間が、普通の境遇にあって、甲の感覚器の誤りを乙、丙、丁の感覚器によって検査するというだけの注意を払うて見聞したことを信じておくのがいちばん安全である。疑い始めれば、際限がないゆえ、やむをえずどこかでがまんして、信じておかねばならぬが、前に述べた病気や薬による幻覚のことなどを思えば、まず、病気にもかからず、薬の影響をもこうむっていない普通の健康者を標準として、それらの人間が見たと信じ、聞いたと信じていることをともに信じておくのほかはなかろう。われらの哲学は子供の心を出発点とし、言葉の羈絆から脱するように努めながら、一歩一歩誤りの入りきたらぬように注意して進むつもりであるが、これは従来の哲学を全く眼中におかず、新たな道を進むことにあたる。一面にむずかしい文句の書いてある黒板を一度きれいに拭い去って、新規にこれを汚そうと試みるのである。これまで人々の崇めきたった偶像をことごとく打ちこわして、できるならば今後は偶像なしにすましたいのであるが、いかがなものであろうか。とにかく、この方針によって一種の哲学系統を組み立ててみたならば、従来のとは違うたものが何かできそうに思われるが、われらにはもはやそのようなことをなすべき時間もなければ望みもない。それゆえただこの方針で考えたことを二つ三つだけ書きつづって、次にかかげるにとどめる。