常民婚姻史料

4話 常民婚姻史料(4)

9,453字 約19分 2025年8月8日 公開

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1、ムコヨビ 聟が婚禮の以前に嫁の父と、近づきになつて居ない例も古くからあつた。聟入があつても中途でそこ/\に歸つて行く場合さへ多かつた。それで舅たちが一日も早く、聟を我身内にしようとする宴會は行はれたらしいのである。さうしてそれは必ずしも嫁の里歸りと、同じ機會のみを以て行はれては居ない。石川縣の能美郡などは、婚禮の後七日目に、ナカガヘリと名づけて嫁が里方へ戻つて來る。それから更に數日して、聟と其親類とを招いて饗應するのである。是をあの地方では聟よびと呼んで居る(郡誌)。中返りは一に又ナカイレとも謂ふ。聟方の父はミツンマイ、即ち式後三日目に嫁の里から贈つて來た餅の容器に、赤飯を入れて嫁を送つて行くが、此際には聟どのは行かない(民俗學二卷八號)。この聟よびを又聟取りとも謂ふのは、里方にとつても一人の男の子を増したことになるからであらう。福井縣の一部では、この聟よびの濟まぬうちは、聟が所用あつて訪ねて來ても、嫁の家で箸を取らぬのを作法として居る。それ故に里では嫁入後成るべく早く、聟よびを行ふ必要があるのである。御馳走は大體に嫁入の時と同じやうにする。この聟よびの濟んだ翌日、又は別に日を期して聟竝に媒妁人等を招いて、打ちくつろいだ酒宴を催すのを、此地方では膝直しと謂つて居る。前日來の勞を慰するから膝直しだと考へて居るらしい(今立郡誌)。

2、イチゲン 越後の蒲原地方では、新夫婦の里歸りに行くことをイチゲンと謂つて居る(加無波良夜譚)。一見は第一次の見參に相違ないから、即ち又聟を主とした名であつた。西蒲原ではエチゲンは初聟入祝宴のことだと謂つて居る(里言葉)。常陸の眞壁郡などで、嫁の里開きをゲンザンといふのもそれであると思ふ。この聟見參は三日目も待たずに、行はれて居る例が稀でない。肥前江島でも嫁入翌日の頭直しは、もとは聟入の宴であり、今でも良い衆といふ家だけでは、婚禮の直ぐ後に宿兄弟同伴で聟入をして居る。同國平島でも嫁入の當夜、祝言のすぐ後に聟入があつた。信州の諏訪では嫁入翌日の酒宴に、嫁の親兄弟を招く爲に、聟は朝早く前日の御禮かた/″\嫁の家を訪問するさうである(以上婚姻號)。長門の豐浦郡で舅入と謂ふのは、是も嫁入の式後嫁の里方に聟を招いて饗應することであつた(郷土教育資料)。

3、シンキャク 能登の輪島でも家によつては、嫁入の夜直ちに新郎を嫁の里へ招待して聟入の式を擧げる例があるといふ(鳳至郡誌)。里歸り同日の聟同行は、全く後々の便法であることが察しられる。備中上房郡ではこの三日目の里歸りを新客と謂ひ、其際聟も行くと記して居る(郡誌)。美濃でも同じ日を新客又は初通ひと名づけ、其他にもさう謂つて居る處は方々にあるが、新客はどうも聟が來る故にさう謂ふとしか思はれぬ。初通ひも或は聟の通つた習はしから出て居るのかも知れないが是は便宜上後に里歸りの條に一括する。

4、ウチアゲ 此言葉も今では新客や一見と同樣に、或は嫁の里開きの日のことだと思つて居る人があるか知らぬが、名前の起りはやはり別にあつた。熊本縣北部にはウチアゲはたゞ婚宴の終といふ意味に用ゐられ、直接關係者の慰勞のことだとも報ぜられて居るけれども(婚姻號)、多分は語の感じから出た誤解だらう。兎に角に近畿以東では、すべて是を聟よびとしか解して居ないのである。たとへば福井縣ではウチアゲは初聟入、即ち膝直しの翌日のことだと謂ひ(若越方言集)、加賀の河北郡でも始めて聟を饗する宴と謂ひ(石川縣方言彙集)、越中でも初聟入り即ち結婚後に妻の生家へ行くことだといふ(太田榮太郎君)。能登の鹿島郡などは結納の帶代に對する返しとして袴代を贈るのも聟が始めて嫁の里に招かるゝ際だといひ、之をウチアゲと呼ぶらしいがはつきりしない(旅と傳説、婚姻號)。北部飛騨などは結納の後、或は嫁入式の當日、聟が先づ嫁の家を訪れて一つの式を擧げることをウチアゲに行くと謂つて居る。是から見ると打揚げの如くケの音を濁り始めたのが誤りで、本來は「打明け」即ち若き男女はカタラハンとして居ることを、娘の親に知らしめる方式の永く殘つて居たものであらう。同じ岐阜縣の武儀郡などは、輿入の當日嫁の出發前聟が仲人と共に嫁の里に行き、其親族と同席して饗應を受け、嫁の出發より少し早く歸つて來る風が可なり盛んに行はれ、之を打揚げと呼んで居るのだが、斯うして置けば、「新客」即ち嫁の里返りの日に同行するに及ばず却つて便利だから近頃になつて行はれたと、私等から見ればやゝ逆な説明をして居る(民族二卷三號)。以前のウチアゲは少なくとも斯うは解されなかつた。さうして嫁入の前後を問はなかつたやうである。早川氏の集めた三河山村の「花祭」の翁の文句に、翁が若い頃結婚をしたことを語るに對して、それなら「定めて打あげをしたであらう」と言ひ、それから聟入の日の光景を面白く語らせる所がある。

5、アヒアケ 滋賀縣の高島郡では、聟入のことをアヒアケと謂つて居る。東京、京都では普通之を相聟、即ち姉妹二人の聟どうしの關係と解して、しかも其理由を知るに苦しんだのであつたが、考へて見ると是も、「打明け」と聯絡の有る語であつた。兎に角にウチアゲの元は、親なり親類なりの承認を求むる式であつた。中世の露顯も實は形式ばかりで内々は父母が早くから承知し且つ希望し、たゞ公然と親子名のりをするだけに止まる場合が多かつた。吾妻鏡が記して居る皇族將軍の二度の露顯式などは、二度ともに御前の新殿に引移られてから後に行はれた。史料寛喜元年十一月十六日の條の御露顯なども、女御入内の後七日目であつた。

6、カガシムコ 嫁は木尻から聟は横座からといふ諺もあつて、兎角よい家へ娘を遣りたがる人が昔も多かつた。さうすると聟入の日の款待も一通りではなかつたので、以前は是を乞聟とも奔走聟とも謂つたが、今はさういふ語はもう無くなつたやうである。之と反對に聟があんまり親の賞翫に値ひせぬと、聟入は雙方とも不熱心になり勝ちであつた。それといふのが此日は男の最も晴れがましい日であつて、一世一代の見えを張らなければならなかつたからである。狂言記などの中にも又おろか聟の昔話にも、此日の滑稽が幾つと無く描かれて居る。至つて尋常の聟には氣が進まなかつた筈である。信州の北安曇郡では、初聟は八月十五日の「月見よび」に招かれて行けなかつたら、九月十三夜には是非都合して行かなければならぬ。それにも行けないと十月十日の十日夜に行くのだが、是は案山子聟などと名づけられて非常に馬鹿にされた(同郡郷土誌稿三卷)。木曾では今日では聟入を受けると受けないとは、雙方の協議次第として居る(西筑摩郡誌)。行かずともよいのなら追々に行かなくなるだらう。

一二 結納聟

1、ユヒナフムコ 前節には專ら嫁入より後に行はれる聟入に就いて例を集めた。是からは嫁入の日より前かたに、聟入をすます風習に注意して見よう。結納聟即ち結納の日に聟入をする處はそちこちにあるが、斯ういふ語のあるのは越前の一部だけが、今知られて居る。この地方では結納の際に、聟に父兄や他の親族の者が同行して行くことがあつて、それをば結納聟と謂つて居る。斯うして置けば後に聟よびの饗宴を省略することが出來て便利だとも考へられて居る。此時は本膳の後に嫁候補者が出て來て、茶を立てゝ客に饗するのを常として居る(今立郡誌)。

2、ユヒナフイチゲン 越後の中頸城郡などは、結納は普通は親戚と仲人とで持つて行くことになつて居るが、時としては此日花聟が嫁の家に招かれて行く例もあつて、之を結納一見と謂ふ。其時は途中行列がある。先づ釣臺に祝儀物を載せ、其後へ仲人、聟の親、聟本人それから親類が行く。前の作法は是の略式と見なされて居る。嫁入の日取りは此日に取りきめることを習はしとして居る(婚姻號)。

3、ムコイチゲン 群馬縣佐波郡の一部で、聟一元などと字に書いて居るのは、結納品を嫁の家に贈つた直ぐ後に、聟と其近親とが仲人を案内として、嫁女の家に行つて饗應を受けることである。嫁入當日の午前又は午後のこともあるが、又四五日前に聟入をすることもあつて、それからは往來をする。因みに此地では嫁入の翌日に、新婦の近親か亦仲人に伴なはれて、聟の家に行くのをたゞ一元と稱し、嫁入と同じ日に行つてしまふのを「送り一元」と謂つて居る(佐波郡東村誌)。一元を一見と書くべきことは既に述べた。

4、チャムコイリ 筑前の新宮邊では茶聟入といふ慣例がある。茶といふのも約束確立の日のことで、此日結納に茶色の帶などを持ち、やはり聟まぎらかしを同行して、聟が嫁の家を訪問するのである(櫻田君)。

5、ナイシウゲン 伊豆の下田あたりでは、結納を入れることを、内祝言と謂ふさうである。それから吉日を選んで愈合の式を擧げる。相識の間ならば斯んな迂遠な手續きを要せずと謂つて居るのは(旅と傳説、婚姻號)、所謂ドラヅレならば内祝言などは無いといふ意味と解する。遠江の志太郡でも結納を内祝言と謂つて居る(郡誌)。

6、ユヒナフ 是は新たに採集するに及ばぬ語のやうだが、言葉は同じでも内容は土地毎に多少ちがつて居る。注意して置きたいのは、此日聟入をする風習が時々ある以外に、

 イ、此日を以て嫁入の期日を取極める習慣の多いことである。

 ロ、結納を送るを以て婚約の成立と見、以後變更を許されなかつたことである。越後の刈羽郡では此日新婦に銕漿を附けさせ、駿河の安倍郡では此日以後嫁入前、聟の親が死亡すれば嫁として葬式の供をさせた(民事慣例類集)。土地によつては嫁引移りが翌年になる場合、暮には聟方から嫁の年取米を送つて來た。信州などでは堅い家は今でもさうする。

 ハ、結納の品物には、地方によつて輕重の差等が大きい。其うちで金錢の處は最も新しい「改良」と見なされて居る。其一つ前には衣類、他に尚化粧道具などの例もある。食物と酒とを持つて來るのは、多分古い形であらうと思ふ。

 ニ、どういふわけでか茶の包を持つて來る地方もある。

 ホ、それよりも特に重要なことは、結納の以前にもう一度、婚約成立の酒を入れる土地の至つて多いことである。其事はずつと詳しく次の節で説かねばならぬ。

 ヘ、結納の式の無い土地がある。さういふ處では前の酒入れを結納と解して居るものがある。或は結納に送るべき衣類や金を、嫁入當日の聟入に持つて來る土地がある。結納の期日が嫁入の前の日である所もあれば、當日午前の結納もある。又結納返しだけは嫁入に携へて來る處もある。

 ト、結納の期日は其前の酒入れの日にきめて置く土地もある。之を要するに聟入と結納とは、もとは極めて近い式であつて、所謂結納聟は必ずしも二つの式の合併では無かつたらしい。

 チ、ユヒナフといふ語が實は妙なものであつた。壹岐島では嫁入の日の前刻に聟入が行はれ、鯛二枚と酒一荷と茶二包とを持參する。この酒と魚とには美しく結んだ飾り繩が掛けられる。從つてユイナフは即ち結繩のことだと解する人もあるやうである(婚姻號)。私の推測では、本來はユヒノモノ即ち家と家との新しく姻戚關係を結ぶ爲に、共同に飮食する酒と肴とを意味する語で、聟が之を携へて聟入するのが本式であつたのかと思ふ。尚觀察を重ぬべきである。

7、ナフヘイ 徳島縣では一般に結納をノウヘイと呼んで居る(阿波の言葉)。或はたゞ單に熨斗とも謂ふのは、必ず熨斗鮑を附けて來たからで、其のしも亦正式の食物であつた。ナフヘイは勿論學問ある者の新語で、或は納幣かと言つた人もあるが、納聘といふ漢語の採用である。

8、ユイレ 奈良縣は普通結納をユイレ、富山縣でも富山高岡の兩市共にユエレと謂ふ。即ちユヒイレの約であつて、貞丈雜記には既に之を注意し、「言ひ入れ」の轉訛だと説いて居るが、是はユヒといふ慣習に心付かなかつた時代の人だから致し方が無い。信州はたしか南佐久郡で、結納をエイノモノと謂つて居た。ユヒは通例田植などの相互手傳の場合に現はれ、それを土地によつてエイともヨイともイイとも謂つて居る。聟と舅の家の間には此時からユヒがあつたのである。

9、イイレ 土佐の幡多郡では結納をタノメ又はイレ、甲州の上九一色村でも之をイイレと呼んで居た。甲州のイイレは通例は花嫁の式服一揃ひを贈るが、上衣だけをさういふこともある。あの女はイイレを着て居るといふ言葉もきくといふ(旅と傳説、婚姻號)。

10、イハヒモノダテ 又、イハヒダテともいふ。岩手縣の北部などで、他の地方の結納送りをさう謂ふので、既に「口合せ酒」も濟んだ後、雙方から祝ひの品物を屆け合ふことださうである(民俗研究九卷)。

11、ホンシキチャ 熊本縣鹿本郡などに於て婚約成立の後、吉日を選んで嫁の方へ衣類其他の結納品を、可なり色々と贈つて來ることを本式茶と謂つて居る。其品目の中に萬引魚二枚があるのも珍しい。之に對して嫁方から聟方へ、熨斗に酒樽に萬引魚一枚、袴地等を送るのを戻茶(もどりちや)と謂ひ、嫁の家で此事を近隣や親類に報告するを、茶披露といふ(郡誌)。本式といふのは何に對してかわからぬが、多分婚約成立の酒入れを、もと茶と謂つた爲であらう。

12、モタヒ 常陸では結納を古くモタイと謂つて居た。後世の樽入れに該當する語が、たま/\久しく殘つて居たのである。酒甕をモタヒといふ語は倭名鈔にも出て居る。

13、ザツシャウ 大隅の種子島で結納のことだといふ。雜餉は本來は今の重詰のやうなもので、一般に人に食物を送る方法であつたが他ではもう忘れて婚姻の場合だけに、斯んな古い言葉が遺つて居たのである。

14、タノメ 結納をタノメと謂ふ例は、土佐と伊豫の西の部分、その對岸の豐後の臼杵などにも見られる。是から東は中國も紀州も弘く一樣にタノミと謂つて居る。即ち契約成り互に信頼し得る徴で、今ならば保障ともいふべき語であらう。農業の相助制では舊八月朔日に、互ひに物を贈り合つて交誼の變らぬことを表したが、足利期以後は此風が武家公家にも入つて、依然として此日を憑むの節供と呼んで居た。併しユヒノモノが即ちタノメであつた理由は、農作を中に置いて考へないと解し難い。

15、タンモリ 播州の揖保郡などでは、結納をタンモリと謂ふらしいが、是は今一度突留めて見る必要がある。タノメ・タノミの意味が解し難くなつて、或は「たまはれ」といふ語が生れたのかも知れぬ。

16、カタメ 是は通例は第一次の酒入れ、即ち結納よりも以前に先づ仲人と共に飮む酒の名になつて居るのだが、佐賀縣の佐賀小城二郡などでは、本式の結納の方を固めと謂ふらしい。少なくとも他の地方の結納の品々、茶とか帶とか麻とか扇子とか長熨斗とかを、酒と一緒に持込むことをさう謂つて居る。さうかと思ふと他の一方に、衣類帶料等の重々しい物を持つて來るより、前方に、酒だけ納める行事をばユヒナフ又はタノミと謂ふ土地がある。最初は此手續きが二度で無かつたといふことも考へられ、又酒肴以外の物は後の風だといふことも想像せられる。とにかくに二つの名稱は土地によつて混同して居て、是だけで慣習の相異を説くことは六つかしいのである。

17、ホンザケノシキ 本酒の式、加賀の小松町附近に此名がある。婚約成立の日即座に、酒二升と鯣とを贈るのが假りの式だと見えて此邊では之を袂酒と呼んで居る。本酒の式は別に日を協定して行ふのである(能美郡誌)。贈る品物も今日では酒肴だけに限らないことゝ思ふ。

18、タルイレ 樽入れは通例右にいふ袂酒のことだが、二度目の結納即ちタノミのことをさう謂つて居る地方も可なり弘い。例へば紀州の有田郡、上州の館林地方、武藏の妻沼、千葉縣も東上總の諸郡は樽入れである。海上郡の樽飮みも結納のことだとは言ふが、此日は金帛は贈らず只酒を飮むだけで、別に嫁入の日に米叺などを、柳樽鮮魚と共に持つて行く例があるさうである(郡誌)。宮城縣宮城郡などの樽入れは正しく納聘であつて、村によつては之を内酒日、又内祝儀と謂ふ家もあるさうである。單なる酒肴以外に、紋附料と稱して一封の金を贈る。此金は嫁方より離婚を申込むときには、返濟すべきものとなつて居る由(郡誌)。

19、タルヲサメ 能登で穴水の町などは之を樽納めと謂ひ(鳳至郡誌)、又酒納めだの樽立ちだのと謂つて居る。持つて來るのは仲人と親族とで、聟は來ずに代理を出すのが普通のやうだが、酒肴以外に必ず帶一筋を添へ、又は帶代と稱して一封の金員を贈る。村によつては其現金を帶代とは言はずに、酒代納めと謂つて居る(珠洲郡誌、直村の條)。さうして酒を納めたといふことは、婚約の完全に定まつたことを意味するのださうであるが、是を嫁迎の日に持つて行くものもあるのだから、つまりは結納は婚姻そのものゝ式であつた。

20、タルタテ 秋田縣鹿角郡の樽立ても、同じく亦嫁引移りの日取りをきめる機會であつた。持つて行くのは名の通り樽肴のみだが、是には聟の父親が自ら行き、且つ嫁衣裳の反物を携へて、之を嫁方の親類に見せた(内田君)。南北秋田郡でも樽立ては婚約成るの證と認められ、此樽を開いた以上は故なく契約を廢することを得なかつた。訴訟となつた節は、この樽立てを以て契約の效に立てたといふ(民事慣例類集)。

21、タルビラキ 縁談が纏まつたことを親族に告げ、祝賀の小宴を開くことを、宮崎縣でも樽開きと呼んで居る(日向の言葉)。つまり樽入れの酒を酌むのであらうが、此樽は最初の濟み樽のことやら、二度目の禮樽のことやらまだ明瞭としない。併し此地方での二度目の樽入れは、非常に嫁入の期日と接近して居る。だから吹聽は事實もう少し前にしなければならなかつたらう。

22、レイムコイリ 日向と接した熊本縣の山村では、縁談整うて後吉日を選び、聟及び其近親媒妁人等、禮樽肴といふのを携へて嫁の家に行き、婚約の成立に就て相應の挨拶をする。是を禮聟入と謂つて居る。人によつては是をも「樽入れ」といふのだが、其前に既に一度樽入れは濟んで居るのである。禮聟入の際には夫婦の盃も爲さしめて置いて、二人の男女の出入を便にする例も多い(阿蘇郡誌)。以前は花嫁が此日に始めて銕漿をつけた。今でも此晩に普通は荷物送りがある。聟方の若い衆が箪笥をかたげに來り、かね附け祝に集まつた村の娘たちは、是に墨を塗り又白粉をつけた(旅と傳説、婚姻號)。

23、チャノモノ 同じ縣でも海に沿うた宇土郡などでは、結納のことを茶の物と謂つて居る。即ち第一次の樽濟みの後、吉日を定めて仲立ちが之を持つて行く。色々の贈品の外に必ず雌蝶雄蝶を附けた茶の包を添へる。之を親戚近隣に披露する宴を茶披露と謂ひ、嫁方からの返禮の品を戻り茶と謂ふ(宇土郡誌)。

24、チャギモノ 筑前の大島などは、以前は結納の式といふは無かつたらしい。近頃茶着物と名づけて、氣の利いたところで紋附と帶、普通は帶だけ嫁方に贈る。それも嫁入の當日持つて行くのである(婚姻號)。前に掲げた茶持ちといふ役がこれで大よそわかる。

25、オチャオビ 福岡縣久留米地方では、朝聟入即ち嫁入當日の聟入の際、聟の方から帶地を持つて來る。それを直ぐに仕立てゝ其夕の輿入れに着用することになつて居る。帶に茶を添へて持つて來る故に御茶帶といふ(民族と歴史五卷六號)。

26、オチャギン 肥前鷹島の例だが、内陸にも弘く行はれて居る。結納であるが多くは金、今は二十圓ぐらゐが普通、嫁入の日に持參する。此際聟方の者嫁方に行き酒を飮む。本人が來なくとも之を聟入と謂つて居る。是が終つてから一同聟の家に行くのが嫁入で、此時に聟と嫁との盃はある(櫻田君)。

 肥後の玉名地方の結納は嫁入の當日では無いやうだが、とにかくよほど近づいてからである。贈り物は帶の外に米が三俵五俵、是に肴料といふのが附くので、それを茶銀とも謂つて居る。近年其高が次第に多くなり、百圓以上の場合も稀でないといふ(能田太郎君)。御茶が常民の飮み物となつたのは、九州とても決して古いことでは無かつたらう。さうすれば是を結納の料としたのも、中世以後の新制といふべく、それを帶地の名とし更に又金錢を以て代へたなどは、又一段と新しい變遷と見るべきである。

 我々の興味をもつ點は、何故に西國でばかり特に此風が起つたかといふことゝ、どうして酒肴の他に是を添へることになつたかであるが、是は或は女と酒との、古い關係を解説するたよりになるかも知れぬ。

27、スズノカネ 酒の代りに金錢を贈る例もある。伊豆大島の波浮港などは、結納のことを錫の金と謂つて居る(山本靖民君)。スズは金屬製の酒徳利のことだから是も亦樽代と同じ意味で、即ち此地方にも聘禮に金を贈る風習のあつたことを語るものである。

28、メシクヒ 福島縣の海岸地方には、結納を飯喰ひといふ名稱がある。贈品は十一種九種又は七種、是を目録に載せ、別に金圓を添へて來るのを縁起と謂ふとあるのは(石城郡誌)、是も亦縁金の訛であらう。縁金といふ語は他の地方でも折々聞く所で、所謂支度料の別名である。飯喰ひは如何にも殺風景な語ではあるが、やはり九州の方の茶の物等と同じく、此日聟來つて共同の飮食をしたことを意味する、古風な習慣の痕跡のやうに思ふ。

29、フンジサン 鹿兒島縣大島に於て結納の式に該當する語、字に書けば本持參である。即ち口納めが濟んで後、日柄を選んで仲人を以て贈る品々、普通餅二組と燒酎三沸し即ち三升、生魚と硯蓋即ち料理若干で、今日は是に尚現金を添へるものが多い。嫁方では此日祝宴を開くが返禮はしない。聟は此時から公然と夫婦となるが、嫁ソーリ即ち嫁入は其後に行はれる(岩切登君)。是を持つて來ることをジサンチキーと謂ふ。チキーは多分「つかひ」であらう。東北でも物を贈ることをしば/\ツカフと謂つて居る。

30、ゴバンコリ 沖繩縣の國頭では、許婚を親戚知友に披露する宴が嫁方で行はれ、其際に聟入がある。聟は近親者と共に酒肴を携へて嫁方に行き、近親の人々に挨拶をする。此時の宴に限つて盃の遣り取りは無く、何れも受けきりである。聟が歸つて行く時は嫁方の人々、又酒肴を携へて送つて行き、そこで又酒宴がある(旅と傳説、婚姻號)。ゴバンは御飯のことかと思はれる。此日の式が濟むともう公然と夫婦で、聟はトジバンと稱して毎夕嫁の家に行つて宿するやうである。

31、モドリチャ 聟方の茶の物に對して、嫁方の返禮の品を戻り茶といふことは、熊本縣では一般の風らしい。之を受けると聟方でも茶披露をした(上益城郡誌)。中部以東は之を結納返しと稱し、大抵同じ日に約半額ほどのものを返すといふ例が多いが、香川縣などでは其返しを嫁入の日に持參することになつて居る。甲州には聟引出といふ昔風の語が殘つて居る。普通は羽織や袴などで、是亦イイレの返禮である。引出物とは謂つても聟入の際に與へるのでは無く、やはり後から聟の家へ送り屆ける(婚姻號)。

32、モラヒジャウ 貰ひ状。宮城縣には樽入の日に貰ひ状、呉れ状を交換する習ひが古くからある(宮城郡誌)。或は又縁組状とも稱し親類仲人立會の上之を授受し、是がすむと破談することは出來ない。近世は是に證劵印紙を貼用するものさへあつた(民事慣例類集)。關東は一般にたゞ親類書を結納の品に添へるのみであつた。信州などはそれを由緒書と謂つて居る(南安曇郡誌)。

一三 手締めの酒

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