葬制沿革史料

1話 葬制沿革史料(1)

6,926字 約14分 2025年7月31日 公開

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緒言

 前代日本人の後生觀念、乃至亡靈の去來に關する思想については、記録文獻の偏倚と乏少の爲に、從來可なり大雜把な、甲乙兩立し得ない推斷を許して居たが、是には未だ試みられざる一つの方法が殘つて居た。我々の現在なほ實行して居る慣習の中には、少なくとも一部は新たに制定し又は模倣したので無いものがまじつて居る筈であるが、それを仔細に考察し比較して、それ/″\の由來を尋ねるだけの勞苦を、避けて就かうとする者が無かつたのである。自分は幾度かその弱點を指摘した責任上、終に自ら斯くの如き機械的の整理事務に、當らなければならぬはめになつた。それには近年の地方同志が、各その地の事實を精細に報告して或程度までの綜合を可能ならしめた懇切なる援助に謝さなければならぬのである。是等の資料のうち、最も有力なるものは盆年越の魂祭行事であるが、この方は稍目鼻が付きかけて居る。無論明瞭疑無き證據が擧がつたといふのでは無いが、とにかくに民間佛教の導師たちが、訓へ又説いて居る樣には、人はホトケサマなるものを考へて居らず、依然として祖靈は故郷の娑婆を訪問して居た所を見ると、國内普通の信仰に於ては後生は別に有つたといふこと迄は言へさうである。葬制の方面には複雜な儀式ばかり多く、その背後に在るものは幽かにしか顏を出して居らぬから、まだ/\反對の説にも都合のよい事實が取上げられる樣に見えるが、それでも細かに注意をして居るうちには、僧侶の管轄し得ない問題の、弘く國中に共通して居ることだけは判つて來るであらう。結論は學者も戒愼して、さう早急に下さうとせぬ方がよいが、問題だけは囘避せぬやうにしなければならぬ。さうして自分はたゞその問題を算へ上げようとして居るのである。この以外にも更に痛切なるものが、續々として現はれて來るかも知れぬが、現在知られて居る一部分の事實からは、是だけのものが先づ注意せられるすべてゞある。大體のところ帝國の舊版圖の、面積二十分一ほどの土地の最近の實況が、ほゞ半分ばかり報告せられて居るものと見ればよからう。願はくは此問題の掲出によつて、それら殘りの地域の向學心を刺戟し、次々是と一致し又は背反する新事實が、今後の學徒の利用に供せられるやうに、この小さな勞苦を役立たせたいものである。私は是まで婚姻の風習、又は年中行事などにも同じ方法を以て、將來の調査の標目を列記して居る。趣旨は全く學問の山口を開けることに在る。是を以て直ちに全貌の發見の如く、誤解する人があつたらその人は不幸な學者である。しかも是だけの事實すらも知らないで、何か判つた樣な氣持をもつ者がもし有つたら、それはもう一段と氣の毒な人であることも亦確かである。

一 喪の始め

 死者の肉親が、いつから喪に入るかはまだ明らかになつて居ない。一旦呼吸が切れてもそれだけではまだ死んだとは解し得られないからである。醫者の宣告があつても、妻や兒はまだ名を呼ばずに居られない。實際壯年や少年には、氣が絶えて又吹返す例もあつた。しかし其試みとは別に、是非とも魂呼ばひをしたのは儀式である。支那で「哀を發する」といふなども、やはり亦全く事きれたと思つた後に、若干の期間があつたことを推測せしめる。恐らくは是とよく似た儀式を必要として居たのであらう。日本でも其時間が追々と短くなつたらしい形跡がある。

モトツケル といふ語は語義はまだ不明だが、肥前島原あたりには行はれて居る(葬號一六六頁)。病人斷末魔に近づくとき、彼と一番近い者、親ならば子、夫であつたら妻が、大きな聲で其名を喚ぶ、それをモトツケルと謂ふさうである。

マスウチ 會津地方では人が死にかゝつた時、其家の屋の棟に登つて一斗桝を伏せ、棒切れなどを以て敲く。是を桝打ちと名づけて魂の拔け去るのを抑へ、元へ戻す意味だと謂つて居るが、多くの場合は死の豫告である爲に、其音は哀れに聽えるといふ(郷土研究七卷三號)。

 桝の底を敲く呪は子供などが神隱しに遭つた場合、是を搜しまはる者が行ふ地方もある。是にもやはり近親の者が敲くを例とする。或は又當人の日頃用ゐて居た食器を、箸で叩いてあるく處もあるから、桝もやはり人間の魂を此世に繋ぐ食物の力から導かれて居るらしいのである。魂喚ばひの行はれる必要は、或はそれが一旦元の體から離れて、尚その近くにさまようて居る時刻の方が、一段と適切であつたらうとも思はれる。斯うして病室より外で桝を敲くなども、去り行く魂を喚び返す方法としか思はれぬのだが、後にはまだ片息のあるうちから是をする樣になつて、桝で抑へるといふ説明も生じたものらしい。自分などの生地播磨中部でも、末期に先だつて庭前の松樹の梢へ、提灯をともして登り、おうい/\とわめく風があつたが、是を何と謂つたかは記憶して居ない。東京から西に見える武相の山地では、定まつた岡の上に登つて魂を喚び、そこを呼はり山といふとの話も聽いたことがある。他の地方の類例は數多く集めて見なければならぬが、元は事きれときまつて後に、尚一應はこの式を踐んだのではないかと思ふ。因みに本居先生の玉勝間卷十に此問題が説いてあるのは參考すべきものである。野府記萬壽二年八月七日の條に、尚侍嬉子隱れたまひて後三日目に、陰陽師恆盛外一人がその屋上に昇つて魂呼をしたことを敍し、「近代不聞事也」と附記して居る。公家の日記類を注意したら、上流の古い慣行は此他にも尚見つかることゝ思ふ。

二 葬式の總名

 人の凶事の始から終り迄を、一括した名前はまだ知られて居ない。古い日本語でもモといふ語以外に、何か有つたかどうか私には明らかでない。現在の用語も地方毎に區々であるが、大抵は其中の最も主要なる作法、即ち家から葬地までの行列の名を以て、全體を覆ふことにして居る。ジャンボンとかジンカンとか又ガンモモとか謂ふのは、殊に印象の深い樂器の音であつて、多分は小兒の語を隱語のやうに採用したものと思ふが土地によつては是より外の正常の名の無い處もある。平生忌む語なるが故に屡傳承が絶えたものかと思はれる。

 東京などのオトムラヒといふ語は、よく考へて見るとやはり一種の忌詞らしい。トムラフといふのは葬後の供養のことなのだが、今では是を行列とも、又葬式の全部とも解して居るのである。トリオキといふ語は處理もしくは後始末といふ意味だから、總稱として似つかはしい語であるが、近畿中國では之を法師の引導の意味に、四國の一部では所謂湯灌の意味に、却つて之を限定して使つて居る。或はわざと用語の精確を避けようとでもしたのではないかと考へる。東京のオトムラヒに近い名稱は、隣接地域にはあまり無くて、薩摩の下甑島の一隅に、

トヒオクリ といふ名がある。但し是も今は老人たちの間にのみ知られて居るといふ(葬號一九〇頁)。單にオクリといふ語を葬送の意味に用ゐると、もう其語は他には使へなくなる。其不便を避ける爲に限定辭を冠せたので、或はトムラヒの方も元はトムラヒ送りと謂つたのかも知れぬ。

ノオクリ 單に送りと謂つて居る土地も無いわけでは無いが(小豆島方言など)、普通には野邊送り、又は野送りといふ語が弘く行はれ、又比較的古かつたやうである。葬地をノと謂つたのは理由のあることだが、それは後節に詳しく説かねばならぬ。

ミカクシ 身隱しはことによると以前の總名だつたかとも思ふが、現在は稍限られたる場合にしか使はれて居ない。たとへば海で死んだ亡者が明るみに在ることを厭ひ、磯に投げ出されて人に氣づかれずに居る場合に、夢などに現はれて身隱しをしてくれと頼むことがあると、長門の島々では謂つて居る(櫻田勝徳君)。又信州南端の或山村では、村の祭禮に臨んで死人があるとき、それを内密に葬つて置くことだけを身隱しと謂つて居る(山と民俗)。

カゲカクシ 是から下流の遠州阿多古の山村でも、密葬もしくは假埋葬だけを影隱しと謂つて居る。爪とか頭髮とかを殘し留めて置いて、本葬の折には是を棺に入れて送るさうである(能田太郎君)。

チリヤキ 駿河志太郡では野邊送りをチリヤキといふ名がある(内田武志君)。其語の起りは今は全く考へ出せない。他の類似の例の集まつて來るのを待つて居る他はない。

タタキダシ 信州の埴科郡(民俗學三卷一號)、又更級郡の一部には斯んな語も有る(方言集)。敲くと云ふのは葬列の樂器か、或は又特にこの樣な憎々しい名を用ゐる必要があつたのかも知れぬ。なほ此序に死者を意味する色々の隱語を、集めて見るのも參考にならうと思ふ。

クニガヘ といふ語は以前大阪の周圍などに行はれて居た(東成郡誌)。仙臺でも古く都參りといふのが葬禮のことであつた(方言以呂波寄)。伊豫の今治では「廣島へ煙草買ひに行つた」とか、又は大阪へ何とかしに行つたとかいふのが、死亡を意味する隱語であつた。

オヒマク 紀州の東牟婁郡では、人の死んだことを笈卷くと謂つて居る(縣方言集)。笈は旅人の用具で之を卷くとは出立を意味する。熊野は夙くから、山伏の死ぬことを、金になるなどといふ忌詞のあつた土地である。

三 訃報

セッカクヅカヒ 人の終りが近づくこと、近親に是を知らせる習はしは弘く存するが、會津などでは其報知を折角使と謂つて居る(若松市郷土誌)。此使を受ける者の範圍は、死使よりも又遙かに狹い。つまり末期の水を取り、魂喚ばひに參與しなければならぬ人々である。

シニヅカヒ 愈喪に入つての最初の事務は、一定の親戚へ知らせの飛脚を立てることで、組合近隣の者が是に任ずる。遠州では之を死使と謂ふさうである。

シニビンギ 三河西加茂郡などでは、是を又シニビンギと謂ふ。少しの支度も無しにすぐに立ち、日の中でも提灯を下げて行く。受けた家では時刻の如何によらず必ず其使に食事をさせる等の、色々の此時に限つた作法がある(民俗學二卷四號)。

フタリヅカヒ 常陸の行方郡では、此使を特に二人使と呼んで居る。必ず草鞋ばきの二人連れで、途中どこにも寄り路をしない等の定めがある(風俗畫報四四八號)。この二人連れといふことは、殆と全國的と謂つてよい程に、一般的なる習俗であるが、其理由はまだ私は聽いたことが無い。能登の七尾地方では、産にトウナイの女房を頼みに行く場合にも、やはりきまつて二人づれで行くといふ(諏訪藤馬君)。

キカセト 千葉縣は一帶にこの通知の役を聞かせ人と謂つて居るやうである(匝瑳郡誌)。

ツゲヤク 信州では是を告げ人と謂ふ所もあり(北佐久郡誌)、又告げ役とも謂つて居る。庚申講の仲間などが此役を引受けることになつて居る(北安曇郡郷土誌稿卷三)。其使は通例亦二人一組である。上伊那でも是を告げに行くといひ、告げに來た者にはたとへ茶一杯でも、何か飮食させて返すことになつて居る(民俗學四卷三號)。

ヒツゲ 壹岐で此役をヒツゲと謂ふのは、忌を「ヒがかゝる」と謂つて居るからである。死者の血族は常人と食事の火を別にし、其火は穢れて居るものと考へられた。それ故に忌のことを火とも謂ふのであらう。血族は從兄弟までは此火告げを受ける。此使も講中の仕事で、必ず二人で行くことになつて居る(壹岐島民俗誌)。

タヨリヅケ 九州の北部は肥前筑後肥後等、共に此使を便りづけと謂ひ、必ず二人連れである。或はタヨリとのみ謂ひ、此使を出すことをタヨリをつけると謂ふ土地もあるが、語のもとはやはり告げであらう。阿蘇では又押立て使とも呼んで居る(葬號一七〇頁)。

オト 周防の柳井邊ではオトと謂ひ、オトを言つて來たなどといふさうだが(森田道雄君)、其オトもやはり音であらう。別に變つた語では無くとも、後には凶事專用になつてしまふのである。

トムラヒビキャク 靜岡附近では東京同樣に知らせともいふが、又とむらひ飛脚とも謂つて居る(安倍郡誌)。三河の中部ではたゞ飛脚といつても此使のことである(額田郡誌)。

アカシ といふ名稱も亦駿河にはある(方言辭典稿)。

トドケ 常陸新治郡では、死亡と葬式の時刻を告げに行く二人一組の使を屆けといふ(民俗學三卷六號)。東京の近く北多摩郡にも同じ語はあるが、今では近親以外の會葬をトドケに行くといふやうになつて居る(高橋文太郎君)。元は一つで無いかと思ふ。陸前栗原郡などは、嫁聟の里方其他の縁續きの家の不幸に、親類打揃うて行くことを、トヅケに頼まれて行つたといふさうだが、是も報知を受けて會同するからの名であるらしい。葬儀の參加者は組中と親類だけであつたのが、追々その範圍の擴張を見ることになつたやうである。

 何故に必ず二人で行くかの理由は、まだ名稱の方からは之を窺ふことが出來ない。奧州の九戸郡では、一人で行くと死人が後からついて來る。故にもし一人で行かねばならぬ際には、腰に鎌を下げて行くといふ(方言と土俗一卷四號)。是は其まゝでは會得し兼ねるが使に行く者は本來「忌」に參加せぬ人であり、知らせる相手方は之に反して、當然に忌のかゝる人であることを考へると、或は二人といふことは忌の力に對抗する趣意とも解せられる。上總の夷隅郡などでは聞かせ人に限らず、葬儀の準備事務はすべて二人づゝ一組になつてすると謂つて居る(郡誌)。

四 寺行き

テラアカシ 右の推測をやゝ力づける事實は、次々に尚現はれて來る。其一つの場合として僧侶はどうなるといふことを考へて見る。所謂菩提寺へは親族への通知と同時に、やはり近隣の者が行くことになつて居る。それを寺行きと謂ふのが普通であるが、信州諏訪などでは又寺アカシとも稱し(葬號七〇頁)、是にも訃音を意味する特別の語を用ゐて居る。目的は期日の打合せ、墓地の下檢分の如き事務的のものゝ樣に解せられて居るが、さうとばかりは見られない食物運搬の方式があつた。

オカツゴ 例へば能登の鹿島郡では、死亡後直ちに夜なれば翌朝、親戚中の重立つた者が、白米二升を携へて檀那寺へ、死者の案内と葬儀の日取とを告げに行く。此際に持つて行く米をオカツゴと謂ふさうである(同上一九〇頁)。

キツガケ 是等の言葉には、何かしらぬが此習俗の起りを含んで居るらしく感じられる。薩摩甑島の瀬々浦などでは、此米を又キツガケと謂つて居る。人が死ぬとそこに居合せた婦人が一人、早速二合五勺のキツガケの米を持つて、寺へ行くのださうである(同上一九〇頁)。但しこの米は同時に又親族の方へも持つて行くらしい。報告の文はごく明瞭では無いが、親族へは子供を走らせるとある。さうして其通知をしてあるく者が、只今誰それが死にましたと報告して、其印までに重箱に入れた米を置いて行くのがキツガケだと謂ふ。寺だけには限らなかつたらしい語氣である。此點はもう一度たしかめる必要がある。

オハナゴメ 豐前築上郡でも米一升に十錢を包んで寺へ通知に出かけることになつて居る。其米をオハナ米と謂ふとある(葬號一六四頁)。御花米は祭典その他儀式用米の總稱で、葬事の場合に限られた名でも無いが、此地方として注意すべきは、同じ際に親類縁者から、若干の錢の包みと共に持つて來る一升の米を、やはりオハナ米の名を以て呼んで居ることである。即ち死者と共に食ふべき食料にも同じ名が有るわけである。講組の者からも同じく米一升を重箱に入れて持つて來るが、此方はオハナ米と謂はぬらしい。以前は其中の一つまみだけを、オッパン米として請取り、他は返したのだが、近頃は全部貰ひ受けることになつて居るといふ(同上)。このオッパン米の意味が明らかになつたら、三種の贈遺の異同を知ることが出來ると思ふ。

オハチゴメ 肥後の阿蘇地方ではオハチ米の語がある。前者とよく似て居るが一方が誤植といふわけではあるまい。こゝでは會葬者持參の米一升をも御鉢米と謂つて居り、葬式翌日に導師への禮として、寺へ贈るのをも亦さう謂つて居る。是は米一俵香料一封の外に、特に御鉢米として米一升を添へるのだから(同上一七五頁)、或は通知の日に持參した習はしが、是へ移つて居るのかも知れない。

コンブクロ 越後西蒲原郡では、寺又は葬家へ贈る米の袋を特にさう謂つて居る。色々の布切れを縫合せた美しい袋である(里言葉)。是もたゞ小袋の意で凶事に限られた名でも無いのだが、一旦斯ういふ場合の用に供すると、自然に他では言はぬことになるのである。

ヒヂ 九州南海の喜界島では、凶事の通知をヒヂと謂つて居る。血族關係の無い近隣の人の任務として、戸主の指圖を承けて親類へヒヂを持ちまはるからさう謂ふらしい(葬號一九九頁)。持ちまはるといふ所を見ると、爰でも甑島の樣に食物を携へて行つたらしいのである。忌火の條下に再説するが、鹿兒島縣には香奠をヒデといふ語がある。ヒヂも是と同じ語で、現在は取り遣りが逆になつて居るけれども、身内の人々だけに是から忌の飯を食はせようとする趣旨で、その共同の食料を通知と共に運んだものと思ふ。さうして他の地方ではその忌火料を、寺の和尚にまでも分配して居たのは、彼等のみは喪屋の穢れに混ぜしめる意味らしいが、この人々はそれに格別頓着せず、之を一種の收入とし權利として、親類へは送らなくなつた後までも、是だけは止められなかつたものと思ふ。

五 枕飯

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