葬制沿革史料

2話 葬制沿革史料(2)

7,317字 約15分 2025年7月31日 公開

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ザシキナホシ 外に對しては告知が喪の開始であつたと共に、内に於ても亦一つの改まつた作法が認められた。座敷直しといふ語も喜界島でしか採用せられて居らぬが、是に該當する氣持だけは全國的であつた。島では人が死ぬと其夜の明方近くに、病室から是を表座敷へ移し、屏風又は戸障子で其周りを圍ひ、其枕元には香と水と、白飯と汁などを供へる。家族を始め再從兄弟までが、其左右に侍するを悔み人と謂ひ、一二の代表者が屏風の外に居て、訪客に應答するのを挨拶人と謂ふ(葬號一九七頁)。

マクラナホシ 此を枕直しと謂ふのは、或は今日の標準語かも知れぬ。普通は此時に特に北枕西向きに寢させる。阿蘇地方なども中國四國と同樣に枕直しといふ語もあるが、一部では又寢せ直しと謂つて居る(同上一五六頁)。薩摩の宮之城では之を枕はづしと謂ふさうである(同上一八五頁)。

マクラガヘシ 能登半島では枕がへし、又オギョウギといふ名もある。死體の下肢を曲げて入棺に便ならしめる故に御行儀である。寢床の上には刃物を置き、逆さ屏風を立てまはし、所謂紙花(しか)などを用意して僧の來るのを待つのである(珠洲郡誌)。安藝の佐伯郡などでは、僧侶の枕經のことを枕返しと謂つて居る(葬號一三七頁)。肥前島原地方のマクラゲシは、近所の者が寺へ知らせに行くことであつた。息を引取ると同時に佛壇には香を焚き、米と若干の賽錢を持たせて、寺へ行つて貰ふので、此使者を枕ゲシ持ちと謂ふから或はその米錢が枕ゲシであつたのかも知れない。枕ゲシ持ちには死者の魂が附いて寺に行くといふので、相當に重要な役となつて居る。途中人に逢つても物を言はず、人もよく是を察するといふ(同上一六六頁)。

ハブッサジ 喜界島では多分座敷直より前に、先づツブシ即ち膝を曲げ括り、次に新しい手拭を以て面部を蔽ふのだが、其をハブッサジと謂つて居る(葬號一九九頁)。サジは即ち手拭のこと、ハブッは「はふり」かと思はれる。死水を取るといふことの無いのは注意に値する。

カブリキモノ 阿蘇の宮地などでは枕直しの後に足を曲げさせ、其上に最上の美衣を逆さに掛ける。衣類を多く掛けるが、其中の一枚だけは必ず逆さにする。年をとつてからよい着物をこしらへると、被りギモンを作つたなどと蔭口せられるのは是から出た言葉である(同上一七七頁)。

ハヤオゴク 豐前築上郡では、病人が息を引取るとすぐに北向きに寢させ、同時に家人は早オゴクと謂つて、白飯を炊いてその枕元に供へる(同上一六四頁)。ゴクは御供で食物を意味する敬語である。

マクラメシ 是を枕飯と呼んで居る地域は廣いが、よく見ると此語にも少しづゝの意味の地方差がある。最も普通には右の早御供の如く、喪の開始と同時に供へるものをさう謂ふやうである。例へば長門の相島では人がすくばると直ぐに枕飯を炊いで丸い握飯となし、膳の上に茶碗を載せて其中に供へる。ホトケは死ぬとすぐに信濃の善光寺に行くので、その行つて戻つて來る迄の間に、枕飯は作つて置かねばならぬと謂ふ(櫻田君)。阿蘇の宮地では是をオテツキノオボクサマと謂ふが、やはり少量の米を飯に炊いて、少しでも殘らぬ樣に盛りつけて供へる。殘すと死人の爲に惡いと謂ひ又早く上げないと亡者の善光寺詣りが遲れるとも謂ふ(葬號一七七頁)。この善光寺は熊野では那智の妙法山に參るとも謂つて居る。亡靈は暫く故の家の附近に留まると謂ひつゝも、何處かへ一度は行つて來るやうな信仰があつたらしいのである。オボクは佛供とも解せられて居るが、やはり御供の轉訛のやうである。オテツキは落着きで、外から來た者に先づ供する食物を意味する。從うて是も善光寺へ出發する前といふのは誤解かも知れぬ。阿波の名東郡で枕の飯といふのは、湯灌の直ぐ前に供へると謂つて居る。しかし死者生前に使用した茶碗に高盛りにして、箸を添へて使者の枕頭に供へる點は(同上一四七頁)、他の地方も同じことである。

ゲダキノママ 筑前の大島などは、枕飯は戸外に石か瓦で簡單な竈を築き、是で炊いで佛前に供へる。其燃料は軒の藁を焚付とし、葬儀用具を作つた木ぎれを薪にする。是をゲダキノママと謂ふのを下炊の飯と記して居るが(葬號一六二頁)、或は外竈だから外炊きかも知れぬ。但し此枕飯は葬具などを作つてから後のものと思はれるが、果して其前には無かつたのであらうか。三河北部の山村でも、枕飯は屋外の厩舍の脇などで、梯子を立て掛けて繩を下げ、それに鍋を吊して炊ぐ習ひである。米をさきに鍋に入れ水を後から注いで洗ふ等、片端から常の日とは逆さなことをする。此飯を炊ぐのは穴掘り役の仕事となつて居る。飯が煮える間に穴掘りは一枚のから莚をしき、二人其上に居て一足づゝ草鞋を作る。この草鞋だけはヒキソ(縱繩?)をあやにしない。是が葬式の日の棺持ちのはく草鞋になるのである。この枕飯は飯茶碗に山盛りにして、箸を眞直に立てゝ供へることは他の場合も同じだが、穴掘り役が定まつてから炊かせるとすれば、枕直しのすぐ後では無かつたらう。それでもやはり此飯が早く出來るほど、極樂へ早く行けるなどとは傳へて居る(設樂昭和八年六月號)。

オタカモリ 御高盛は人間の一生に三度は必ず供せられると謂はれる。成程誕生の日の産飯も、婚禮の日の夫婦相饗の飯も共に盛り切りで、信州諏訪などは三者名を異にせず、枕飯をもやはり御高盛りと謂つて居る。死者の嫁娘たちが手に/\少しづゝ盛り添つて、しまひには大へんな高盛りになる。此椀には三角形の白紙が貼り付けられてある(葬號七二頁)。

ヒトモリメシ 一盛り飯といふ名は、九州東松浦郡に行はれて居る。加部島では是に木の箸を立て、唐津では竹の箸である。此飯は最後に墓の中へ納めるのが此地方の習はしだといふ。盛り切り一杯飯は特別の食事、他の人々とは分配しない趣旨かと思はれる。常の生活に是が忌まれるのも、必ずしも凶事の聯想だけからとは言はれない。

イッパイメシ 筑前相島などの一杯飯は、湯灌がすみ死者を甕に納めてから、其前に供へることになつて居る。この盛り飯の上には木と竹との箸を添へるといふ(櫻田君)。是と枕飯とは別のものかどうか、何度も供へかへられるか否かの點は、重要であるがまだ各地とも精確に調べられて居ない。思ふに以前は野送り前の期間が短かゝつた故に、普通は一度の供飯で濟んだのであらう。それを改めたとすると前のものはどう處分したかゞ問題になる。この方面から尋ねて行つたら、まだ/\明らかになつて來ることが多からうと思ふ。

ジキノメシうちに椀に盛り、ソバ膳にして供へる。それを野邊まで持つて行き、埋葬と共に壙に入れるといふ(葬號一八八頁)。

ミチメシ 肥前平島などでは、枕飯を死人の道飯と謂つて居る(櫻田君)。是は明らかに枕上に供へたものを、次の世界まで持つて行かせるので、その考へ方は盆の魂送りの土産團子とよく似て居る。

ガキメシ 佐渡の河原田などの例では、死者に飯を供へる際にも盆の精靈棚と同樣に、別に小皿に少し取分けて置き、是を餓鬼飯と謂ふ。しかもホトケの飯も人間は決して食うてはならぬもので、餓鬼に遣るものだと謂つて居るさうである(葬號五五頁)。此問題は次の出立ちの飯、又は墓前の食物とも關聯して居る。三つの場合を併せて考へて見なければならぬ。

ハヤダンゴ 青森縣の野邊地あたりは、枕飯の代りに枕團子をこしらへる。是を又早團子とも謂つて居る。粳米をさつと洗ひさつと搗いて丸めた團子で、すぐに之をうでて供へる。だから常の團子は搗いた日にうでることを嫌ひ、必ず二日に跨がらしめるのである(同上三七頁)。

イッパイダンゴ 同じ外南部でも八戸市附近では、是を一杯團子と謂つて死者があれば先づ造る。一杯といふのは穀を量る器に一つのことで二合五勺である。此米を粉にして拇指ほどの大さに丸める。葬式の日にも是を携へて行き、墓づとめが終ると是を茶と米と共に水に混じ、半紙一枚をひろげて其上に注ぎかける。是をアラネコスルと謂ふのは、この小さな團子を霰に見たてたからで、盆の墓參りのホカヒとも同じ作法である。此アラレを烏が啄み食うてくれぬと、後が續くと謂つて大きに氣にかける(葬號三二頁)。

シトギ 粢といふのは米の粉をこねて作つた生の團子のことで、別に凶禮の食物と限るわけは無いのだが、備中の府中邊では人の死んだとき、糠の附いたまゝの米を粉に挽いて卵形の團子に丸め、蒸さずに供へるものゝみをシトギと謂つて居る(方言集)。秋田縣の仙北地方でも、シトギといへば枕團子のことに限るといふ話だが、果してさうであるか。東北でも他の地方はシトギは生粉の團子のことで、又煮シトギといふ語もあり、めでたい日にも拵へるやうである。

マクラダンゴ 枕團子は枕飯と重複して、又は前後して共に作る土地も多いやうである。相州津久井邊では、死者の枕元に六つの團子を置き供へる。本來は内庭へ梯子を逆さに掛け、臼を左りにまはして白米の粉を挽いて拵へたものだが、近頃は大抵米の飯を丸めたものを以て代用する。之を食ふと度胸がよくなるといふ(葬號八三頁)。佐渡の河原田町の枕團子は、死人があつて寺行きの使を出す前に勝手元で之を作る。其數は四々の十六箇、老人の枕團子は其齡にあやかりたいといふ者があつてよく盜まれる。何度供へても一つも無くなることがある(同上五三頁)。

オクリダンゴ 三河の北設樂郡などは、枕飯も送り團子も共にこしらへる。送り團子の方も早く出來るほど死人が早く極樂へ行かれるといふ(設樂昭和八年六月號)。南設樂の方は埋葬の際の供物として、稍遲く送り團子をこしらへるらしい。さうして是が鴉などに取られて早く無くなると、亡者は極樂に行かれると謂つて居る(田嶺炬燵話)。

タナツケダンゴ 筑前の大島でも、葬式の日になつて團子をこしらへて供へる。それを棚付け團子又はゴウノダンゴと謂ふ。幾人もかゝつて作るのを習ひとして居る(葬號一六三頁)。

イッポンバナ 常の日に一本花を立てるのを忌むのは、やはり新亡者の枕元に立てるからであらうが、此方は一盛り飯や一杯茶を進めるのと、動機がよほど違ふやうに思ふ。新しい神道の葬式に於ても、喪主の捧げる玉串だけが別に大きく、又各人もたゞ一本の小枝を持つと同じく、この花の枝は亡靈を依らしむる料であつたので、何本も立てゝは招く心持が無くなるのであつた。この花に何を立てるかは注意に値する。筑前大島では必ず椿の枝、近江高島郡でも椿又は柾木の花の無い枝を一本さした。この一本花は又葬列に加はつて墓まで持つて行つた。持つべき人の數が多いと、其花の種類を増加した。出雲の簸川郡では百合とか菊とかの造花、奧州八戸でも三つ花と稱して、菊椿芥子の三種の一本花を墓に立てた。何れも粗末な造花であるといふ(以上葬號各條)。

イハイカクシ 佐渡ではこの一本花を、位牌隱しの花といふ名があつた(同上五五頁)。隱しもしようが其位牌と呼ばるゝものゝ出來るよりも前から、我民族の葬式には是が缺くべからざるものであつた。是が立てられなかつたら、身を離れた靈は依る處が無かつたのである。

 一杯飯を食へば坊主が死ぬ。一杯茶を飮めば坊主に逢ふといふ諺が、津輕には有るさうである(津輕口碑集)。逢ふ方は判るが死ぬと言ひ始めたわけは解しかねる。大體に凶事の作法は常の日にせぬことをし、從うて平生は出來る限り之を避けるのだが、單にそれは惡い時の作法だから忌むといふ以上に、特に「坊主が死ぬ」といふ類の結果を豫想して居るものは、別に何か信仰上の理由説があつたのかも知れぬ。一つや二つの氣まぐれな説明はあてにもならぬが、それが數多く偶發すれば何等かの暗示にはなる。比較の可能になるまで、注意してさういふ記憶を貯へて行くべきだと思ふ。

六 忌中の徽章

ヒガハリ 喪のある家の火は惡くなると認められて居る。それで煙草を吸ひ、又は煮たり燒いたりしたものを食ふと、影響は其人にも及ぶものと、覺悟しなければならなかつた。不必要な他人を忌の中に卷き込まぬ爲には、主としてこの家の火の混同に警戒すればよかつたのである。忌を火と呼ぶに至つた事情は略明白である。上總の君津郡の海岸には、東京などで謂ふ忌中を、火がはりといふ處があるといふ。或は「火が惡い」といふ形容詞の聽きそこなひかも知らぬが、別火といふ語もあるから、火變りと謂つても不思議は無い。

ヒヲカブル 是は九州あたりで可なり弘く行はるゝ語である。標準語の忌がかゝると内容は同じだが、其定めは公式の服忌令とも一致せぬ例が多い。たとへば佐賀あたりの田舍は、父方目上二十日、母方目上十日、從兄弟三日、親々は四十九日といふのもある(民族と歴史五卷六號)。この四十九日は即ち中陰の七七日に當るのである。子分と稱して假の契約をした者は此外かと思ふが、中には自ら進んで餘分の火を被る者もあつたかと思はれる。

ヒマケ 火負けは最も注意すべき俗信である。土佐の長岡郡で之を説いて居るが(葬號一五九頁)、搜せば他の地方にも有りさうに思はれる。喪の家に出入した者が病を獲れば之を火負けと謂ひ、之を治するの色々の呪法がある。棺の繩の一部を黒燒にして服するなども其一つで、豫め其需要の爲に、埋棺の際から繩の端を少し出して置くといふ。

ヒアヒ 忌中の火には外部の人が近づくを避けたゞけで無く、内に居る者も努めてその常火と紛れることを戒めたらしい。出雲の舊神門郡などでは、元は忌中には主屋座敷を使用せず、家に下家(げや)建て出しを設けて其中に住み、その下家へもたゞ裏口からばかり出入した。是に依つて市中軒竝の地では、毎戸家の兩脇に三尺づゝの細路があけてあつて、此路を火相(ひあひ)と謂つた(民事慣例類集)。東京でヒアハヒといふのも同じ語であらう。奧羽でも一般にヒヤコと呼んで居る。現在は火災を防ぐアハヒ、即ち間地のやうに想像せられて居るが、其爲としては餘り狹すぎる。事によると何れも忌の火の通行の爲に設けられたものかも知れぬのである。

モガリ 津輕地方に於ては、喪のある家の表口には二本の木を斜十文字に組んで立てゝ置く、是をモガリといふさうである(東奧日用語辭典)。普通の辭書には是をたゞ垣根の一種の如く説いて居るが、少なくともこのX形にはシンボリックな意味があつたのみならず、是によつて始めて殯をモガリと訓ませた理由もわかるのである。同じ青森縣でも野邊地などは、モガリは葬送前に棺を置く室のことで、出た跡をやはり二人で掃除し、あと札といふものを貼つて置く室のことだといふ(中市謙三君)。越中の新湊でも竹を斜めに十字に組んで、簾の外に縛つて置く風がある。主人の時は大きく小兒などならば小さい。但しモガリといふ名は無いといふ(大間知篤三君)。

カセ 喪家の玄關に、竹を二つ割りにして斜十文字に結はへて置く風は、なほ諸處にあり、其名は一定して居ない。集めて置く必要があると思ふ。是をカセと謂ふ土地もたしかにあつたが、今その場所を忘れてしまつた。

ヲリカケ 筑前の大島・地島等では、割竹の頭を曲げて荒繩で結はへたものを二つ、喪のある家の門口に立てる。是を折掛と謂ふのである。出棺後は取立つて燒却してしまふといふ(葬號一六二、二一〇頁)。同じ名は又北九州で、水の神の祭具などにも用ゐられて居るが二者直接の關係は無いやうに思ふ。

ミス 簾を入口に垂れ、忌中と書いた紙を斜めに貼る例は、東京の町家でも尚常に見かけるが、多分は人の出入の多い商業地區だけの風習であらう。是を垂れて置く期間は、生計の必要上次第に短かくなり、忌の制度の崩壞を促す原因の一つであつたことは、書證の方からも之を知ることが出來る。野邊地などでは親戚に喪を發表すると同時に、此ミスを掛けて忌中の札を貼るのみならず、尚近い親戚でも同樣にミスを掛けるさうである(中市君)。

エンリョナハ 越後の中部、古志三島等の數郡では家に不幸が有つて正月年賀の禮を斷はる場合に、門口に藁繩を張つて置き之を遠慮繩と謂つた。同じく魚沼頸城の各郡は、門口に三尺ばかりの棒を立て、それを延引棒と名づけて居たさうである(越後風俗志)。

ムヌヌキ 沖繩本島島尻地方などで自分が見たのは、喪家の方でする作法では無く、村に死者があると他の家々で、門口の地上に木を横たへ、又は繩を引き砂を撒いて、それをムヌヌキと謂つて居た。又内地の鬼瓦と同樣に、瓦屋の一端に漆喰を以て獅子形を作つたものをも、同じ名を以て呼んで居る。中古文學の「もののけ」とは別の語のやうである。喜界島でも名は何と謂ふか知らぬが、葬列の通路に面する家々では、バシ即ち喰はず芋の根引したものを三本、そろへて門口に置いて萬の妖を避けた。バシは芋の一種だが、其汁が身に附けば大變痒いので、人や獸に忌まれる植物である(葬號一九九頁)。

フジョウヨケ 筑前地島では、葬式が通る御宮の前と、葬式のある家の門口とに、モガリ同樣のものを立て、之を不淨除けといふ。但しこゝでは青竹を二本組合せ、且つ其結び目から石をぶら下げたものである(同上二一〇頁)。

ミカクシヅカ 墓に行く通路が神の社の前を過ぐる場合、正面に塚を築いて置く風習も元はあつた。下野野木宿に於ては之を見隱し塚と謂つて居る。葬列は郷社から見えぬやうに、其外側を迂曲したといふ(日本道中略記)。この見隱しも葬式のことで、社から見えぬやうに隱すといふ意味で無からう。

ササヒキ 上州では家に死人が有るとき、神靈を涜さんことを恐れ、他人に依頼して室内の神棚を、笹の葉を以て掩うてもらふ風があつた。之を笹引と謂ふ(群馬郡誌)。白紙を神棚の前に垂れるなどは、東京でもすることである。

キチウダナ 農家で屋敷の入口の路に接した處に、棒を立てゝ小さな棚をしつらへる風は三河にもあり、之を忌中棚といふ(郷土研究五卷二號)。四十九日の間置くといふ。自分が羽後の男鹿半島の村で見たのは、至つて小さな木のホコラで、中に神社の札が入つて居た。忌ある間家の内では祭を營み得ない爲では無いかと思ふ。但し彼處では何と謂ふかを尋ねなかつたから、忌中棚とは別かも知れぬ。

七 年たがへ

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