秋の岐蘇路

1話 一

1,483字 約3分 2020年11月21日 公開

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 大井(おほゐ)、中津川(なかつがは)の諸驛を過ぎて、次第に木曾の翠微(すゐび)に近(ちかづ)けるは、九月も早(はや)盡きんとして、秋風(しうふう)客衣(かくい)に遍(あま)ねく、虫聲路傍に喞々(しよく/\)たるの頃なりき。あゝわが吟懷、いかに久しくこの木曾の溪山に向ひて馳(は)せたりけむ。名所圖繪を繙(ひもと)きて、幼き心に天下またこの好山水(かうさんすゐ)ありやと夢みしは昔、長じて人の其山水を記せるの文を讀み、客(かく)の其勝(そのしやう)を説くを聞くに及びて、興湧き胸躍りて、殆どそを禁(とゞ)むるに由なかりき。さればわが昨日(きのふ)遙かに御嶽(おんたけ)の秀絶なる姿を群山挺立(ていりつ)の中(うち)に認めて、雀躍して路人(ろじん)にあやしまるゝの狂態を演じたるもまた宜(むべ)ならずや。

 木曾の溪山は十數里、其特色たる、山に樹多く、溪(けい)に激湍(げきたん)多く、茅屋(ばうおく)村舍山(さんかい)水隈(すゐわい)に點在して、雲烟の變化殆ど極(きはま)りなきにありといふ。住民また甚だ太古の風(ふう)を存し、婦(ふ)は皆齒に涅(でつ)し、山袴(やまばかま)と稱する短袴(たんこ)を穿(うが)ち、ことに其の清麗透徹たる山水は克(よ)く天然の麗質を生じて、世に見るを得べからざるの美頗(すこぶ)る多しと聞く。まして須原(すはら)の驛の花漬賣(はなづけうり)の少女(をとめ)はいかにわが好奇の心を動かしけむ。われも亦願はくはこの山中の神韻に觸れて、美しき神のたまさかなる消息を聞かばやと思ふの念甚だ切なりき。

 ことに、既に長き旅路に勞(つか)れたる我をして、嚢中(のうちう)甚だ旅費の乏しきにも拘らず、奮(ふる)つてこの山中に入(い)らしめたる理由猶一つあり。そは、わが親しき友のこの山中なる福島(ふくしま)の驛にありて、美しき詩想を養ひつゝあること是なり。この友は木曾山中の妻籠(つまご)驛に生れて、其のすぐれたる詩想とそのやさしく美しき胸とは、曾てわれをして更に木曾の山水に憧(あく)がれしめたるもの、今しも共にその山水に對して、詩を談し、文を論じたらんには、その興の饒(おほ)き、あはれ果して如何(いか)なるべき。これ我の殊更に遠きを厭(いと)はずして、この山中に入(い)りたる所以なり。

 落合(おちあひ)驛を過ぎて、路二つに岐(わか)る。一は新道にして木曾川の流に沿ひ、一は馬籠峠(まごめたうげ)を踰(こ)えて妻籠(つまご)に入(い)る。われは其路の岐(わか)るゝ一角に立ちて、久しくその撰擇に苦しまざるを得ざりき。聞く、新道の木曾川に沿へるの邊、奇景百出、岩石の奇、奔湍(ほんたん)の妙、旅客必ずこれを過ぎざるべからずと。况(いは)んや、其路坦々(たん/\)として砥(と)の如く、復た舊道の如く嶮峻ならざるに於てをや。されど其道を過ぎんには、わが稚(をさな)き頃より夢に見つる馬籠(まごめ)驛の翠微(すゐび)は遂に一目をも寓する能(あた)はざるなり。往古の木曾の關門とも稱すべき風情ある驛舍の景は、永久(とこしへ)にわが眼に映ぜずして終らざるべからず。

 われは遂に舊道を取りつ。

 數歩にして既にその舊道のいかに嶮に、且(かつ)いかに荒廢に歸したるかを知りぬ。昔の大路(たいろ)には荊棘(けいきよく)深く茂りて、をり/\横(よこたは)れる小溪には渡るべき橋すら無し。否、崕(がけ)は崩れ、路は陷(おちゐ)りて、磊々(らい/\)たる岩石の多き、その歩み難きこと殆ど言語に絶す。かくて溪流を徒渉すること二、路は暫し松林(しようりん)の間を穿(うが)ちて、茅屋(ばうおく)村舍の上に靡(なび)ける細き烟のさながら縷(る)の如くなるを微見(ほのみ)つゝ、次第に翠嵐(すゐらん)深き處へとのぼり行きしが、不圖(ふと)四面打開きたる一帶の高地に出でゝわれは思はず足を停(とゞ)めぬ。あゝ何等の壯觀ぞ。今までかゝる後景を背にしながら夢にもそれと知らざりしはわれながらあまりのおぞさと思はるゝばかりの美しさ。昨日(きのふ)仰ぎし惠那岳(えなだけ)は右に、美濃(みの)一國の山々は波濤の打寄するが如く蜿蜒(ゑんえん)と連(つらな)り亙(わた)りて、低き處には高原を披(ひら)き、凹(くぼ)き處には溪流を駛(はし)らせ、村舍の炊烟(すゐえん)、市邑(しいう)の白堊(はくあ)、その眺望の廣濶(くわうくわつ)なる、殆ど譬(たと)ふべき言葉を知らず。まして、秋の初の清く澄みたる空氣は明かに、山々の巓(いたゞき)に白旗(はくき)を飜したらんごとき雲の長くおもしろく靡(なび)けるなど誰かつく/″\と眺入りて、秋の姿のさびしさに旅思を惱まさぬものかあらん。ことにわれは多恨の遊子(いうし)、秋の草木(くさき)に置く露の觸るればやがて涙の落つる悲しき身なるをや。

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