10話 一〇
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その朝早く一度お末は姉の所に来た。而して母が散薬を飲みづらがつて居るから、赤坊の病気の時のオブラートが残つてゐるならくれろと云つた。姉は何んの気なしにそれを渡してやつた。と七時頃に又縫物を持つて来て、入口の隣の三畳でそれを拡げた。その部屋の戸棚の中にはこま/\したものが入れてあるので、姉はちよい/\そこに行つたが、お末には別に変つた様子も見えなかつた。唯羽織の下に何か隠して居るらしかつたけれども、是れはいつもの隠し食ひでもと思へば聞いても見なかつた。
三十分程経つたと思ふ頃、お末が立つて台所で水を飲むらしいけはひがした。赤坊を亡くしてから生水を毒のやうに思ふ姉は、飲むなと襖ごしにお末を叱つた。お末は直ぐやめて姉の部屋に這入つて来た。姉はこの頃仏いぢりにかまけて居るのであの時も真鍮の仏具を磨いて居た。お末もそれを手伝つた。而して三十分程の読経の間も殊勝げに後ろに坐つて聴いて居た、が、いきなり立つて三畳に這入つた。姉は暫くしてからふと隣りで物をもどすやうな声を聞きつけたので、急いで襖を開けて見ると、お末はもう苦しんで打伏して居た。いくら聞いても黙りこくつたまゝ苦しんでゐるだけだ。仕舞ひに姉は腹を立てゝ背中を二三度痛く打つたら、初めて家の棚の上にある毒を飲んだと云つた。而して姉の家で死んで迷惑をかけるのがすまないと詫びをした。
鶴吉の店にかけこんで来た姉は前後も乱れた話振りで、気息をせき/\是れだけの事を鶴吉に話した。鶴吉が行つて見ると姉の家の三畳に床を取つてお末が案外平気な顔をして、這入つて来た兄を見守りながら寝て居た。鶴吉はとても妹の顔を見る事が出来なかつた。
医者をと思つて姉の家を出た鶴吉は、直ぐ近所の病院にかけつけた。薬局と受附とは今眼をさましたばかりだつた。直ぐ来るやうにと再三駄目を押して帰つて待つたけれども、四十分も待つのに来てくれさうにはなかつた。一旦鎮まりかゝつた嘔気は又激しく催して来た。お末が枕に顔を伏せて深い呼吸をして居るのを見ると、鶴吉は居ても立つても居られなかつた。四十分待つた為めに手おくれになりはしなかつたか、さう思つて鶴吉は又かけ出した。
五六丁駈けて来てから見ると足駄をはいて居た。馬鹿なこんな時足駄をはいて駈ける奴があるものかと思つて跣足になつて、而して又五六丁雪の中を駈けた。ふと自分の傍を人力車が通るのに気がついて又馬鹿をしたと思ひながら車宿を尋ねる為めに二三丁引きかへした。人力車はあつたが車夫は老人で鶴吉の駈けるのよりも余程おそく思はれた。引返した所から一丁も行かない中に尋ねる医師の家があつた。総ての準備をして待つて居るから直ぐ連れて来いとの事であつた。
鶴吉は人力車に頓着なく姉の家に駈けつけて様子を聞くと、まださう騒ぐに及ばぬらしいとの事であつた。鶴吉は思はずしめたと思つた。お末は壜の大小を間違へて、大壜の方のものを飲んだに違ひない。大壜の方には苛性加里を粉にして入れてあるのだ。それに違ひないと思つたが、それをまのあたり聞く勇気はなかつた。
人力車を待つのに又暫くかゝつた。軈て鶴吉は車に乗つてお末を膝の上にかゝへて居た。お末は兄に抱かれながら幽かに微笑んだ。骨肉の執着が喰ひ込むやうに鶴吉の心を引きしめた。どうかして生かさう、鶴吉はたゞさう思ふだけだつた。
やがてお末は医師の家の二階の手広い一室に運ばれて、雪白のシーツの上に移された。お末は喘ぐやうにして水を求めて居た。
「よし/\今渇かないやうにして上げるからね」
如何にも人情の厚さうな医師は、診察衣に手を通しながら、お末から眼を放さずに静かにかう云つた。お末はおとなしく首肯いた。医師はやがてお末の額に手をあてゝしげ/\と患者を見て居たが鶴吉を見返つて、
「昇汞をどの位飲んだんでせう」
と聞いた。鶴吉はこゝで運命の境目が来たと思つた。而して恐る/\お末に近づいて、耳に口をよせた。
「お末、お前の飲んだのは大きい壜か小さい壜か」
と云ひながら手真似で大小をやつて見せた。お末は熱のある眼で兄を見やりながら、はつきりした言葉で、
「小さい方の壜だよ」
と答へた。鶴吉は雷にでも撃たれたやうに思つた。
「ど、どれ位飲んだ」
予て大人でも十分の二グラム飲めば命はないと聞かされて居るので、無益とは知りながらかう聞いて見た。お末は黙つたまゝで、食指を丸めて拇指の附根の辺につけて、五銭銅貨程の円を示した。
それを見た医師は疑はしげに首を傾けたが、
「少し時期がおくれたやうだが」
と云ひながら、用意してある薬を持つて来さした。劇薬らしい鋭い匂ひが室中に漲つた。鶴吉はその為めに今までの事は夢だつたかと思ふほど気はたしかになつた。
「飲みづらいよ、我慢してお飲み」
お末は抵抗もせずに眼をつぶつてぐつと飲み乾した。それから暫くの間昏々として苦しさうな仮睡に落ちた。助手は手を握つて脈を取りつゞけて居た。而して医師との間に低い声で会話を取りかはした。
十五分程経つたと思ふと、お末はひどく驚いたやうにかつと眼を開いて、助けを求めるやうにあたりを見まはしながら頭を枕から上げたが、いきなりひどい嘔吐を始めた。昨日の昼から何んにも食べない胃は、泡と粘液とをもどすばかりだつた。
「胸が苦しいよ、兄さん」
鶴吉は背中をさすりながら、黙つて深々とうなづくだけだつた。
「お便所」
さう云つて立上らうとするので皆がさゝへると、案外丈夫で起き直つた。便器と云つてもどうしても聞かない。鶴吉に肩の所を支へてもらつて歩いて行つた。階段も自分で降りると云ふのを、鶴吉が無理に背負つて、
「梯子段を一人で降りるなんて、落ちて死んぢまふぞ」
と云ふと、お末は顔の何処かに幽かに笑ひの影を宿して、
「死んでもいゝよ」
と云つた。
下痢は可なりあつた。吐瀉の是れだけあると云ふことが、せめてもの望みだつた。お末は苦しみに背中を大波のやうに動かしながら、はつ/\と熱い気息を吐いて居た。唇はかさ/\に乾破れて、頬には美しい紅みを漲らして。