13話 十三
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蛤の灯がほんのりと、再来て……
「お退きよ、退いておくれよ。」
「よう、お前。」
と言う。……人をつけ、蛤なんぞに、お前呼ばわりをされる兄哥でないぞよ。
「此処は、今夜用がある。」
「大事の処なんだから。」
「よう。」
「仕ようがない。ね、酔っぱらって。」
「臭い事。」
「憎らしい、松葉で突ついて遣りましょう。」
敏捷い、お転婆なのが、すっと幹をかけて枝に登った。呀、松の中に蛤が、明く真珠を振向ける、と一時、一時、雨の如く松葉が灌ぐ。
「お、痛。」
「何うしたの。」と下から云う。
松の上なが、興がった声をして、
「松葉が私を擽るわよ、おほほ、おほほ。」
「わはは。」と浜の松が、枝を揺って哄と笑う。
「きゃッ。」と我ながら猿のような声して笑って、六蔵はむっくと起きて、
「姉等、仕立ものの用はねえか。」と、きょとんとして四辺を視た。
浅葱を飜す白浪や。
燃ゆるが如き緋の裳、浪にすっくと小雪の姿。あの、顔の色、瞳の艶、――恋に死ぬ身は美しや、島田のままの星である。
蛤が六つ七つ、むらむらと渚を泳いで、左右を照らす、真珠の光。
凄じいほど気高い顔が、一目、怨めしそうに六蔵の面を視て、さしうつむいて、頸白く、羅の両袖を胸に犇と掻合す、と見ると浪が打ち、打ち重って、裳を包み、帯を消し、胸をかくし、島田髷の浮んだ上に、白い潮がさらり、と立つ。と磯際の高波は、何とてそのまま沖に退くべき。
颯と寄る浪がしら、雪なす獅子の毛の如く、別荘の二階を包んで、真蒼に光る、と見る、とこの小舟は揺上って、松の梢に、ゆらりと乗るや、尾張を越して富士山が向うに見えて、六蔵素天辺に仰天した。
這奴横紙を破っても、縦に舟を漕ぐ事能わず、剰え櫓櫂もない。
「わああ、助けてくれ、助船。」
「何うしました、何うした。」
人目を忍んで、暗夜を宮歳と二人で来た、巽は船のへりに立つと、突然跳起きて大手を拡げて、且つ船から転がり出した六蔵のために驚かされた。
菩提所の――巽は既に詣ではしたが――其処ではない。別荘の釣舟は、海に溺れた小雪が魂をのせた墓である。
「小雪さんを私と思って。」……
あの、船で手を取って、あわれ、生命掛けた恋人の、口ずから、切めて、最愛い、と云って欲い、可哀相とだけも聞かし給え。
御神燈は未だ白かったのに、夜の暗さ、別荘の門、街道も寝静まる、夢地を辿る心地して、宮歳のかよわい手に、辰吉は袖を引かれて来たのであった。
「へい、仕立ものの御用はねえかね。」
きょろん、とした六蔵より、巽が却って茫然とした。
宮歳の姿は、潮の香の漾う如く消えたのである。
別荘の主人池川の云うのには、その宮歳は、小雪と姉妹のように仲のよかった芸妓である。
内証ながら、山田の御師、何某にひかされて、成程、現に師匠をしている、が、それは、山田の廓、新道の、俗に螢小路と云う処に媚かしく、意気である。
言語道断、昨夜急に二見ヶ浦へ引越して来る筈はない!
扨て翌朝の事であった。
電話で、新道の一茶屋へ、宮歳の消息を聞合せると、ぶらぶら病で寝ていたが、昨日急に、変が変って世を去った。
――写真を抱いていましたよ、死際に薄化粧して……巽さんによろしく……――
その時、別荘の座敷の色は、二見ヶ浦の、海の蒼いよりも藍であった。
簾に寄る白浪は、雪の降るより尚お冷い。
その朝、六蔵も別荘の客の一人であった。が、お先ばしりで、衆と一所に、草の径を、幻の跡を尋ねた――確に此処ぞ、と云う処に、常夏がはらはら咲いて、草の根の露に濡れつつ、白檀の蒔絵の、あわれに潮にすさんだ折櫛が――その絵の螢が幽に照った。
松に舫った釣舟は、主人の情で、別荘の庭に草を植え、薄、刈萱、女郎花、桔梗の露に燈籠を点して、一つ、二見の名所である。
(『新小説』一九一六[大正五]年四月号)