浮舟

13話 十三

1,550字 約3分 2018年10月13日 公開

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 蛤の灯がほんのりと、(また)来て……

「お退()きよ、退いておくれよ。」

「よう、お前。」

 と言う。……人をつけ、蛤なんぞに、お前呼ばわりをされる兄哥(あにい)でないぞよ。

「此処は、今夜用がある。」

「大事の処なんだから。」

「よう。」

「仕ようがない。ね、酔っぱらって。」

「臭い事。」

「憎らしい、松葉で(つッ)ついて遣りましょう。」

 敏捷(すばや)い、お転婆なのが、すっと幹をかけて枝に登った。()、松の中に蛤が、明く真珠を振向ける、と一時(ひとしきり)、一時、雨の如く松葉が(そそ)ぐ。

「お、(いた)。」

「何うしたの。」と下から云う。

 松の上なが、(きょう)がった声をして、

「松葉が私を(くすぐ)るわよ、おほほ、おほほ。」

「わはは。」と浜の松が、枝を揺って(どっ)と笑う。

「きゃッ。」と我ながら猿のような声して笑って、六蔵はむっくと起きて、

姉等(あねえら)、仕立ものの用はねえか。」と、きょとんとして四辺(あたり)()た。

 浅葱を(かえ)す白浪や。

 燃ゆるが如き緋の(もすそ)、浪にすっくと小雪の姿。あの、顔の色、瞳の艶、――恋に死ぬ身は美しや、島田のままの星である。

 蛤が六つ七つ、むらむらと渚を泳いで、左右を照らす、真珠の光。

 凄じいほど気高い顔が、一目、怨めしそうに六蔵の(おもて)を視て、さしうつむいて、(えり)白く、羅の両袖を胸に(ひし)掻合(かきあわ)す、と見ると浪が打ち、打ち重って、裳を包み、帯を消し、胸をかくし、島田髷の浮んだ上に、白い潮がさらり、と立つ。と磯際の高波は、何とてそのまま沖に退くべき。

 颯と寄る浪がしら、雪なす獅子の毛の如く、別荘の二階を包んで、真蒼(まっさお)に光る、と見る、とこの小舟は揺上って、松の梢に、ゆらりと乗るや、尾張を越して富士山が向うに見えて、六蔵素天辺(すてっぺん)に仰天した。

 這奴(しゃつ)横紙を破っても、縦に舟を漕ぐ事能わず、(あまつさ)櫓櫂(ろかい)もない。

「わああ、助けてくれ、助船(たすけぶね)。」

「何うしました、何うした。」

 人目を忍んで、暗夜(やみよ)を宮歳と二人で来た、巽は船のへりに立つと、突然(いきなり)跳起きて大手を拡げて、且つ船から転がり出した六蔵のために驚かされた。

 菩提所の――巽は既に詣ではしたが――其処ではない。別荘の釣舟は、海に溺れた小雪が魂をのせた墓である。

「小雪さんを私と思って。」……

 あの、船で手を取って、あわれ、生命掛けた恋人の、口ずから、()めて、最愛(いとし)い、と云って(ほし)い、可哀相とだけも聞かし給え。

 御神燈は未だ白かったのに、夜の暗さ、別荘の門、街道も寝静まる、夢地を辿る心地して、宮歳のかよわい手に、辰吉は袖を引かれて来たのであった。

「へい、仕立ものの御用はねえかね。」

 きょろん、とした六蔵より、巽が却って茫然とした。

 宮歳の姿は、潮の香の(ただよ)う如く消えたのである。

 別荘の主人池川の云うのには、その宮歳は、小雪と姉妹のように仲のよかった芸妓である。

 内証ながら、山田の御師(おし)何某(なにがし)にひかされて、成程、現に師匠をしている、が、それは、山田の廓、新道の、俗に螢小路と云う処に(なまめ)かしく、意気である。

 言語道断、昨夜(ゆうべ)急に二見ヶ浦へ引越して来る筈はない!

 ()て翌朝の事であった。

 電話で、新道の(ある)茶屋へ、宮歳の消息を聞合せると、ぶらぶら病で寝ていたが、昨日急に、(へん)(かわ)って世を去った。

 ――写真を抱いていましたよ、死際に薄化粧して……巽さんによろしく……――

 その時、別荘の座敷の色は、二見ヶ浦の、海の蒼いよりも藍であった。

 簾に寄る白浪は、雪の降るより()お冷い。

 その朝、六蔵も別荘の客の一人であった。が、お先ばしりで、(ひと)一所(いっしょ)に、草の(こみち)を、幻の跡を尋ねた――確に此処ぞ、と云う処に、常夏がはらはら咲いて、草の根の露に濡れつつ、白檀の蒔絵の、あわれに潮にすさんだ折櫛が――その絵の螢が幽に()った。

 松に舫った釣舟は、主人(あるじ)(なさけ)で、別荘の庭に草を植え、薄、刈萱(かるかや)女郎花(おみなえし)桔梗(ききょう)の露に燈籠を点して、一つ、二見の名所である。

(『新小説』一九一六[大正五]年四月号)

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