9話 九
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「些とでも涼しい心持に成りたくッて、其処等の木の葉の青いのを熟と視ていて、その目で海を見ると、漸と何うやら水らしい色に成ります。
でないと真赤ですぜ。日盛なんざ火が波を打っているようでしょう。――さあ、然うなると不思議なもので今も言った通りです。潮煮の鯛の目、鮑の蒸したのが涼しそうで、熱燗の酒がヒヤリと舌に冷いくらい――貴女が云った自棄ですか――
夕方、今しがた一時は、凪の絶頂で口も利けない。餉台を囲んだ人の話声を、じりじりと響くように思って、傍目も触らないで松原の松を見ていて、その目をやがて海の上にこう返すと、」
巽は目を離して指したが、宮歳の顔を見て、《さ》びた声して低く笑った。
「はははは、べッかっこをするんじゃありませんよ――。然うすると、海の色が朝からはじめて、颯と一面に青く澄んで、それが裏座敷の廻縁の総欄干へ、ひたひたと簾を流すように見えましてね、縁側へ雪のような波の裾が、すっと柔かに、月もないのに光を誘って、遥かの沖から、一よせ、寄せるような景色でした。
悚と涼しく成ると、例の頬辺が冷りとしました、螢の留った処です。――裏を透して、口の裡へ、真珠でも含んだかと思う、光るように胸へ映りました。」
敷居に凭れかかり、団扇を落して聞いていた婦は、膝の手を胸へ引いて、肩を細く袖を合せた。
「可厭な心持じゃなかったんです――それが、しかし確に、氷を一片、何処かへ抱いたように急に身を冷して、つるつると融るらしく、脊筋から冷い汗が流れました。香がします、水のような、あの、螢の。」
月の柳の雫でも夜露となれば身に染みる。
「私は何かに打たれたように、フイと席を立って戸外へ出ました。まだ明い。内の二階で、波ばかり、青く欄干にかかったようには、暮れてはいません。
名所図絵にありそうな人通りを見ていると、最う何もかも忘れました。が、宝丹は用心のために、柄にもない船頭が買ったんですが。
今の螢のお話で、無遠慮に御厄介に成りました。申訳にもと、思いますから、――私も、無理に附着けたらしいかも知れませんが、螢の留ったお話をしたんです。」
と半ば湯呑のあとを飲むと、俯目に紋を見て下に置いた。彼は帰りがけの片膝を浮かしたのである。
唯、呼吸を詰めて、
「貴方。」
「え。」
余り更まった婦の気に引入れられて驚いた体に沈んで云った。
婦は肩を絞るように、身をしめた手を胸に、片手を肱に掛けながら、
「螢じゃありませんわ。螢じゃありませんわ。」
「何がですえ。」
「そりゃ、あの……何ですよ、屹と……そして、その別荘のお二階へ、沖の方から来ましたって、……蒼い、蒼い、蒼い波は。」
柱の姿も蒼白く、顔の色も俤立って、
「お話を伺いますうちにも、私は目に見えますようで。そして、跡を、貴方の跡を追って浪打際が、其処へ門まで参っているようですよ。」
と、黒繻子の帯の色艶やかに、夜を招いて伸上る。
白い犬が門を駈けた。
辰吉は腰を掛けつつ、思わず足を爪立てた。