浮舟

9話

1,224字 約2分 2018年10月13日 公開

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(ちっ)とでも涼しい心持に成りたくッて、其処等の木の葉の青いのを(じっ)と視ていて、その目で海を見ると、(やっ)と何うやら水らしい色に成ります。

 でないと真赤ですぜ。日盛(ひざかり)なんざ火が波を打っているようでしょう。――さあ、然うなると不思議なもので今も言った通りです。潮煮(うしお)の鯛の目、鮑の蒸したのが涼しそうで、熱燗の酒がヒヤリと舌に冷いくらい――貴女が云った自棄(やけ)ですか――

 夕方、今しがた一時(ひとしきり)は、凪の絶頂で口も利けない。餉台を囲んだ人の話声を、じりじりと響くように思って、傍目も触らないで松原の松を見ていて、その目をやがて海の上にこう返すと、」

 巽は目を離して(ゆびさ)したが、宮歳の顔を見て、《さ》びた声して低く笑った。

「はははは、べッかっこをするんじゃありませんよ――。然うすると、海の色が朝からはじめて、(さっ)と一面に青く澄んで、それが裏座敷の廻縁(まわりえん)の総欄干へ、ひたひたと(すだれ)を流すように見えましてね、縁側へ雪のような波の裾が、すっと柔かに、月もないのに光を誘って、遥かの沖から、一よせ、寄せるような景色でした。

 (ぞっ)と涼しく成ると、例の頬辺(ほっぺた)(ひや)りとしました、螢の留った処です。――裏を透して、口の(うち)へ、真珠でも含んだかと思う、光るように胸へ映りました。」

 敷居に(もた)れかかり、団扇を落して聞いていた(おんな)は、膝の手を胸へ引いて、肩を細く袖を合せた。

可厭(いや)な心持じゃなかったんです――それが、しかし確に、氷を一片(ひときれ)、何処かへ抱いたように急に身を冷して、つるつると融るらしく、脊筋から冷い汗が流れました。(におい)がします、水のような、あの、螢の。」

 月の柳の雫でも夜露となれば身に染みる。

「私は何かに打たれたように、フイと席を立って戸外(そと)へ出ました。まだ明い。内の二階で、波ばかり、青く欄干にかかったようには、暮れてはいません。

 名所図絵にありそうな人通りを見ていると、()う何もかも忘れました。が、宝丹は用心のために、柄にもない船頭が買ったんですが。

 今の螢のお話で、無遠慮に御厄介に成りました。申訳にもと、思いますから、――私も、無理に附着(くッつ)けたらしいかも知れませんが、螢の留ったお話をしたんです。」

 と半ば湯呑のあとを飲むと、俯目(ふしめ)に紋を見て下に置いた。彼は帰りがけの片膝を浮かしたのである。

 ()呼吸(いき)を詰めて、

「貴方。」

「え。」

 余り更まった(おんな)の気に引入れられて驚いた(てい)に沈んで云った。

 (おんな)は肩を絞るように、身をしめた手を胸に、片手を肱に掛けながら、

「螢じゃありませんわ。螢じゃありませんわ。」

「何がですえ。」

「そりゃ、あの……何ですよ、(きっ)と……そして、その別荘のお二階へ、沖の方から来ましたって、……蒼い、蒼い、蒼い波は。」

 柱の姿も蒼白く、顔の色も俤立(おもかげだ)って、

「お話を伺いますうちにも、私は目に見えますようで。そして、跡を、貴方の跡を追って浪打際が、其処へ門まで参っているようですよ。」

 と、黒繻子の帯の色艶やかに、夜を招いて伸上(のびあが)る。

 白い犬が門を駈けた。

 辰吉は腰を掛けつつ、思わず足を爪立てた。

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