10話 十
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「貴方、その欄干にかかりました真蒼な波の中に、あの撫子の花が一束流れますような、薄い紅色の影の映ったのを、もしか、御覧なさりはしませんか。」
……と云う、瞳の色の美しさ、露を誘って明いまで。その色に誘われて、婦が棄てた撥袋の鏡台の端に掛ったのを見た。
我にもあらず茫と成って、
「彼処に見える……あれですか。」
「否、あんなものじゃありません。」とやや気組んで言う。
「それでは?……」
「否、絽の色なんです。――あの時あの妓――は緋の長襦袢を着ていました。月夜のような群青に、秋草を銀で刺繍して、ちらちらと黄金の露を置いた、薄いお太鼓をがっくりとゆるくして、羅の裾を敷いて、乱次なさったら無い風で、美しい足袋跣足で、そのままスッと、あの別荘の縁を下りて、真直に小石の裏庭を突切ると、葉のまばらな、花の大きなのが薄化粧して咲きました、」と言う……
大輪の雪は、その褄を載せる翼であった。
「あの、夕顔の竹の木戸に、長い袂も触れないで、細りと出たでしょう。……松の樹の下を通る時は、遠い路を行くようでした。舟の縁を伝わると、あれ、船首に紅い扱帯が懸る、ふらふらと蹌踉たんです……酷く酔っていましたわね。
立直った時、すっきりした横顔に、縺れながら、島田髷も姿も据りました。
私はその時、隣家の淡路館の裏にあります、ぶらんこを掛けました、柱の処で見ていたんですよ、一昨年ですわね、――巽さん。」
と、然も震を帯びた声で、更めて名を呼んで、
「貴方に焦れて亡く成りました、あの、――小雪さん――の事ですよ。」
実に、それは、小雪は伊勢の名妓であった。
辰吉は、ハッと気を打って胸を退いた。片膝揚げつつ框を背後へ、それが一浪乗って揺れた風情である。
褄に曳いたも水浅葱、団扇の名の深草ならず、宮歳の姿も波に乗ってぞ語りける。
「不思議ですわね、あの時、海が迎いに来て、渚が、小雪さんに近く成ると、もう白足袋が隠れました。蹴出しの褄に、藍がかかって、見渡す限り渚が白く、海も空も、薄い萌黄でござんした。
其処に唯一人、あの妓が立ったんです。笄がキラキラすると、脊の嫋娜とした、裾の色の紅を、潮が見る見る消して青くします。浪におされて、羅は、その、あの蹴出しにしっとり離れて、取乱したようですが、ああした品の可い人ですから、須磨の浦、明石の浜に、緋の袴で居るようでした。」
――驚破泳ぐ、とその時、池川の縁側では大勢が喝采した。――
「あれあれ渚を離れる、と浪の力に裾を取られて、羅のそのまんま、一度肩まで浸りましたね。衝と立つ時、遠浅の青畳、真中とも思うのに、錦の帯の結目が颯と落ちて、夢のような秋草に、濡れた銀の、蒼い露が、雫のように散ったんです。
まあ、顔が真蒼、と思うと、小雪さんは熟と沖を凝視めました、――其処に――貴方のお頭と、真白な肩のあたりが視えましたよ。
近所を漕いだ屋根舟の揺れた事!
貴方は泳いで在らしったんです。
真裸の男まじりに、三四人、私の知った芸者たちも五六人、ばらばらと浜へ駈けて出る。中には舫った船に乗って、両手を挙げて、呼んだ方もござんした、が、最うその時は波の下で、小雪さんの髪が乱れる、と思う。海の空に、珠の簪の影かしら、晃々一ツ星が見えました。」