上州沼田より日光へ

4話 四 闇の金精峠

1,092字 約2分 2019年9月11日 公開

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風景の美に打たれ、孵化の話に興を催し、珍らしき馳走に舌皷うちて、この湖畔に凡そ二時間ばかり費して、今や午後二時半となりぬ。夜光命そつと裸男の肩を叩いて曰く、『御説の通り握飯を持參しても、この通りに非ずや』と。裸男一言もなくして、頭を掻く。

 いざとて、林藏氏と別れて發足す。林藏氏一老夫をして、導を爲さしむ。八町坂の急路を上る。夜光命曰く、『富士上層の胸突八町より急なり』と。右手に八町瀑の水音を聞く。これに就くの路なし。湖上に舟を浮べて見ば、この瀧定めて壯觀ならむと思はる。坂路盡きて菅沼に出づ。老夫舟を漕ぐ。この湖長さ十四五町、幅三四町、大尻、丸の二湖に比して、更に大に、更に幽邃也。とにかくに白根の北麓に連なれる三湖、大なりとはせざれど、風致あり。日光に遊ぶもの、脚力と風景眼とあらば、閑却すべきに非ず。夏は、日光よりこゝに來たる學生や西洋人少なからずと聞く。

 湖の北端に上陸して老夫と別れ、いよ/\金精峠を攀づ。八町坂に比すれば、ずつと勾配緩にして、思ひしより上り易し。頂上に達して、時計を見れば、正に午後五時也。上り來りし方は樹に妨げられて見えず。笈摺岩、右に天を衝く。前方には男體、太郎の二山、相竝んで立ち、近く脚下に湯の湖の一半見ゆ。この峠海拔六千六百尺、箱根の最高峯の神山の絶頂よりも高きこと千六七百尺、通路として高きこと、天下有數也。日暮れぬほどにとて、一呼して下る。この峠に男根の形したる石を祀れる祠ありとの事なるが、こは見落したりき。

 急坂を下りに下りて、やれ安心と思ふ折しも、路を失ひて澤に行當れり。澤を下るに、大石小石ごろ/\横はりて、手を用ゐずば、歩くを得ず。夜光命泣聲を出して、『こは人の通る路に非ず。うか/\行きては、どんな目に遇ふかも知れず』とて立どまる。『まア/\行き給へ。必ず路に出づるに相違なし』と、裸男勵まして行く。昨夜用ゐし提燈また役立ちたり。提燈を點ずれば、數歩は明かなる代りに、それ以外は、提燈なきよりも、却つて一層闇黒也。『危い/\』と、夜光命幾たびか泣聲を出す。『歩くが危しとならば、こゝに火を焚いて夜を明かさむか』と云へば、それもいや也。『さきへ行くが危ければ、あとの澤の入口へ引返さむか』と云へば、それもいや也。『も少し進んで見ずや』と云へば、それもいや也。こまつたこと哉。十口坊ふと右の方に上りしに、忽ち叫んで曰く、『路あり/\』と。これにて夜光命の機嫌回復、元氣も回復、うれしや/\と熊笹の中を通ること、凡そ半里にして、湯本に著く。夜光命曰く、『われ生れてより、今夜のやうに困りしこと無し。提燈は珍藏して、家の寶となさむ』と。

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