1話 夫人利生記(1)
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瑠璃色に澄んだ中空の樹の間から、竜が円い口を張開いたような、釣鐘の影の裡で、密と、美麗な婦の――人妻の――写真を視た時に、樹島は血が冷えるように悚然とした。……
山の根から湧いて流るる、ちょろちょろ水が、ちょうどここで堰を落ちて、湛えた底に、上の鐘楼の影が映るので、釣鐘の清水と言うのである。
町も場末の、細い道を、たらたらと下りて、ずッと低い処から、また山に向って径の坂を蜒って上る。その窪地に当るので、浅いが谷底になっている。一方はその鐘楼を高く乗せた丘の崖で、もう秋の末ながら雑樹が茂って、からからと乾いた葉の中から、昼の月も、鐘の星も映りそうだが、別に札を建てるほどの名所でもない。
居まわりの、板屋、藁屋の人たちが、大根も洗えば、菜も洗う。葱の枯葉を掻分けて、洗濯などするのである。で、竹の筧を山笹の根に掛けて、流の落口の外に、小さな滝を仕掛けてある。汲んで飲むものはこれを飲むがよし、視めるものは、観るがよし、すなわち清水の名聞が立つ。
径を挟んで、水に臨んだ一方は、人の小家の背戸畠で、大根も葱も植えた。竹のまばら垣に藤豆の花の紫がほかほかと咲いて、そこらをスラスラと飛交わす紅蜻蛉の羽から、……いや、その羽に乗って、糸遊、陽炎という光ある幻影が、春の闌なるごとく、浮いて遊ぶ。……
一時間ばかり前の事。――樹島は背戸畑の崩れた、この日当りの土手に腰を掛けて憩いつつ、――いま言う――その写真のぬしを正のもので見たのである。
その前に、渠は母の実家の檀那寺なる、この辺の寺に墓詣した。
俗に赤門寺と云う。……門も朱塗だし、金剛神を安置した右左の像が丹であるから、いずれにも通じて呼ぶのであろう。住職も智識の聞えがあって、寺は名高い。
仁王門の柱に、大草鞋が――中には立った大人の胸ぐらいなのがある――重って、稲束の木乃伊のように掛っている事は、渠が小児の時に見知ったのも、今もかわりはない。緒に結んだ状に、小菊まじりに、俗に坊さん花というのを挿して供えたのが――あやめ草あしに結ばむ――「奥の細道」の趣があって、健なる神の、草鞋を飾る花たばと見ゆるまで、日に輝きつつも、何となく旅情を催させて、故郷なれば可懐しさも身に沁みる。
峰の松風が遠く静に聞えた。
庫裡に音信れて、お墓経をと頼むと、気軽に取次がれた住職が、納所とも小僧ともいわず、すぐに下駄ばきで卵塔場へ出向わるる。
かあかあと、鴉が鳴く。……墓所は日陰である。苔に惑い、露に辷って、樹島がやや慌しかったのは、余り身軽に和尚どのが、すぐに先へ立って出られたので、十八九年不沙汰した、塔婆の中の草径を、志す石碑に迷ったからであった。
紫袱紗の輪鉦を片手に、
「誰方の墓であらっしゃるかの。」
少々極が悪く、……姓を言うと、
「おお、いま立っていさっしゃるのが、それじゃがの。」
「御不沙汰をいたして済みません。」
黙って俯向いて線香を供えた。細い煙が、裏すいて乱るるばかり、墓の落葉は堆い。湿った青苔に蝋燭が刺って、揺れもせず、燐寸でうつした灯がまっ直に白く昇った。
チーン、チーン。――かあかあ――と鴉が鳴く。
やがて、読誦の声を留めて、
「お志の御回向はの。」
「一同にどうぞ。」
「先祖代々の諸精霊……願以此功徳無量壇波羅蜜。具足円満、平等利益――南無妙……此経難持、若暫持、我即歓喜……一切天人皆応供養。――」
チーン。
「ありがとう存じます。」
「はいはい。」
「御苦労様でございました。」
「はい。」
と、袖に取った輪鉦形に肱をあげて、打傾きざまに、墓参の男を熟と視て、
「多くは故人になられたり、他国をなすったり、久しく、御墓参の方もありませぬ。……あんたは御縁辺であらっしゃるかの。」
「お上人様。」
裾冷く、鼻じろんだ顔を上げて、
「――母の父母、兄などが、こちらにお世話になっております。」
「おお、」と片足、胸とともに引いて、見直して、
「これは樹島の御子息かい。――それとなくおたよりは聞いております。何よりも御機嫌での。」
「御僧様こそ。」
「いや、もう年を取りました。知人は皆二代、また孫の代じゃ。……しかし立派に御成人じゃな。」
「お恥かしゅう存じます。」
「久しぶりじゃ、ちと庫裡へ。――渋茶なと進ぜよう。」
「かさねまして、いずれ伺いますが、旅さきの事でございますし、それに御近所に参詣をしたい処もございますから。」
「ああ、まだお娘御のように見えた、若い母さんに手を曳かれてお参りなさった、――あの、摩耶夫人の御寺へかの。」
なき、その母に手を曳かれて、小さな身体は、春秋の蝶々蜻蛉に乗ったであろう。夢のように覚えている。
「それはそれは。」
と頷いて、
「また、今のほどは、御丁寧に――早速御仏前へお料具を申そう。――御子息、それならば、お静に。……ああ、上のその木戸はの、錠、鍵も、がさがさと壊れています。開けたままで宜しい。あとで寺男が直しますでの。石段が欠けて草蓬々じゃ、堂前へ上らっしゃるに気を着けなされよ。」
この卵塔は窪地である。
石を四五壇、せまり伏す枯尾花に鼠の法衣の隠れた時、ばさりと音して、塔婆近い枝に、山鴉が下りた。葉がくれに天狗の枕のように見える。蝋燭を啄もうとして、人の立去るのを待つのである。
衝と銜えると、大概は山へ飛ぶから間違はないのだが、怪我に屋根へ落すと、草葺が多いから過失をしでかすことがある。樹島は心得て吹消した。線香の煙の中へ、色を淡く分けてスッと蝋燭の香が立つと、かあかあと堪らなそうに鳴立てる。羽音もきこえて、声の若いのは、仔烏らしい。
「……お食り。」
それも供養になると聞く。ここにも一羽、とおなじような色の外套に、洋傘を抱いて、ぬいだ中折帽を持添えたまま葎の中を出たのであった。
赤門寺に限らない。あるいは丘に、坂、谷に、径を縫う右左、町家が二三軒ずつ門前にあるばかりで、ほとんど寺つづきだと言っても可い。赤門には清正公が祭ってある。北辰妙見の宮、摩利支天の御堂、弁財天の祠には名木の紅梅の枝垂れつつ咲くのがある。明星の丘の毘沙門天。虫歯封じに箸を供うる辻の坂の地蔵菩薩。時雨の如意輪観世音。笠守の神。日中も梟が鳴くという森の奥の虚空蔵堂。――
清水の真空の高い丘に、鐘楼を営んだのは、寺号は別にあろう、皆梅鉢寺と覚えている。石段を攀じた境内の桜のもと、分けて鐘楼の礎のあたりには、高山植物として、こうした町近くにはほとんどみだされないと称うる処の、梅鉢草が不思議に咲く。と言伝えて、申すまでもなく、学者が見ても、ただ心ある大人が見ても、類は違うであろうけれども、五弁の小さな白い花を摘んで、小児たちは嬉しがったものである。――もっとも十ぐらいまでの小児が、家からここへ来るのには、お弁当が入用だった。――それだけに思出がなお深い。
いま咲く草ではないけれども、土の香を親しんで。……樹島は赤門寺を出てから、仁王尊の大草鞋を船にして、寺々の巷を漕ぐように、秋日和の巡礼街道。――一度この鐘楼に上ったのであったが、攀じるに急だし、汗には且つなる、地内はいずれ仏神の垂跡に面して身がしまる。
旅のつかれも、ともに、吻と一息したのが、いま清水に向った大根畑の縁であった。
……遅めの午飯に、――潟で漁れる――わかさぎを焼く香が、淡く遠くから匂って来た。暖か過ぎるが雨にはなるまい。赤蜻蛉の羽も、もみじを散して、青空に透通る。鐘は高く竜頭に薄霧を捲いて掛った。
清水から一坂上り口に、薪、漬もの桶、石臼なんどを投遣りにした物置の破納屋が、炭焼小屋に見えるまで、あたりは静に、人の往来はまるでない。
月の夜はこの納屋の屋根から霜になるであろう。その石臼に縋って、嫁菜の咲いたも可哀である。
ああ、桶の箍に尾花が乱るる。この麗かさにも秋の寂しさ……
樹島は歌も句も思わずに、畑の土を、外套の背にずり辷って、半ば寝つつも、金剛神の草鞋に乗った心持に恍惚した。
ふと鳥影が……影が翳した。そこに、つい目の前に、しなやかな婦が立った。何、……紡績らしい絣の一枚着に、めりんす友染と、繻子の幅狭な帯をお太鼓に、上から紐でしめて、褪せた桃色の襷掛け……などと言うより、腕露呈に、肱を一杯に張って、片脇に盥を抱えた……と言う方が早い。洗濯をしに来たのである。道端の細流で洗濯をするのに、なよやかなどと言う姿はない。――ないのだが、見ただけでなよやかで、盥に力を入れた手が、霞を溶いたように見えた。白やかな膚を徹して、骨まで美しいのであろう。しかも、素足に冷めし草履を穿いていた。近づくのに、音のしなかったのも頷かれる。
婦は、水ぎわに立停まると、洗濯盥――盥には道草に手打ったらしい、嫁菜が一束挿してあった――それを石の上へこごみ腰におろすと、すっと柳に立直った。日あたりを除けて来て、且つ汗ばんだらしい、姉さん被りの手拭を取って、額よりは頸脚を軽く拭いた。やや俯向けになった頸は雪を欺く。……手拭を口に銜えた時、それとはなしに、面を人に打蔽う風情が見えつつ、眉を優しく、斜だちの横顔、瞳の濡々と黒目がちなのが、ちらりと樹島に移ったようである。颯と睫毛を濃く俯目になって、頸のおくれ毛を肱白く掻上げた。――漆にちらめく雪の蒔絵の指さきの沈むまで、黒く房りした髪を、耳許清く引詰めて櫛巻に結っていた。年紀は二十五六である。すぐに、手拭を帯に挟んで――岸からすぐに俯向くには、手を差伸しても、流は低い。石段が出来ている。苔も草も露を引いて皆青い。それを下りさまに、ふと猶予ったように見えた。ああ、これは心ないと、見ているものの心着く時、褄を取って高く端折った。婦は誰も長襦袢を着ているとは限らない。ただ一重の布も、膝の下までは蔽わないで、小股をしめて、色薄く縊りつつ、太脛が白く滑かにすらりと長く流に立った。
ひたひたと絡る水とともに、ちらちらと紅に目を遮ったのは、倒に映るという釣鐘の竜の炎でない。脱棄てた草履に早く戯るる一羽の赤蜻蛉の影でない。崖のくずれを雑樹また藪の中に、月夜の骸骨のように朽乱れた古卒堵婆のあちこちに、燃えつつ曼珠沙華が咲残ったのであった。
婦は人間離れをして麗しい。
この時、久米の仙人を思出して、苦笑をしないものは、われらの中に多くはあるまい。
仁王の草鞋の船を落ちて、樹島は腰の土を払って立った。面はいつの間にか伸びている。
「失礼ですが、ちょっと伺います――旅のものですが。」
「は、」
「蓮行寺と申しますのは?」
「摩耶夫人様のお寺でございますね。」
その声にきけば、一層奥ゆかしくなおとうとい利天の貴女の、さながらの御かしずきに対して、渠は思わず一礼した。
婦はちょうど筧の水に、嫁菜の茎を手すさびに浸していた。浅葱に雫する花を楯に、破納屋の上路を指して、
「その坂をなぞえにお上りなさいますと、――戸がしまっておりますが、二階家が見えましょう。――ね、その奥に、あの黒く茂りましたのが、虚空蔵様のお寺でございます。ちょうどその前の処が、青く明くなって、ちらちらもみじが見えますわね……あすこが摩耶夫人様でございます。」
「どうもありがとう――尋ねたいにも人通りがないので困っていました。――お庇様で……」
「いいえ……まあ。」
「御免なさい。」
「お静におまいりをなさいまし……御利益がございますわ。」
と、嫁菜の花を口許に、瞼をほんのり莞爾した。
――この婦人の写真なのである。