素戔嗚尊

18話 十八

1,132字 約2分 1999年8月27日 公開

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 素戔嗚(すさのお)はそれから五六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがその頃から部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が流行(はや)り出した。それは(みにく)山鴉(やまがらす)が美しい白鳥(はくちょう)に恋をして、ありとあらゆる空の鳥の(わら)い物になったと云う歌であった。彼はその歌が唱われるのを聞くと、今まで照していた幸福の太陽に、雲が懸ったような心もちがした。

 しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢から覚めずにいた。すでに美しい白鳥は、醜い山鴉の恋を()れてくれた。ありとあらゆる空の鳥は、(おろか)な彼を哂うのではなく、(かえ)って仕合せな彼を(うらや)んだり(そね)んだりしているのであった。――そう彼は信じていた。少くともそう信ぜずにはいられないような気がしていた。

 だから彼はその()また、あの牛飼の若者に()った時も、ただ同じ答を聞きたいばかりに、

「あの勾玉(まがたま)は確かに渡してくれたのだろうな。」と、軽く念を押しただけであった。若者はやはり間の悪るそうな顔をしながら、

「ええ、確かに渡しました。しかし御返事の所は――」とか何とか、曖昧(あいまい)に言葉を濁していた。それでも彼は渡したと云う言葉に満足して、その上立ち入った事情なぞは尋ねようとも思わなかった。

 すると三四日経ったある夜の事、彼が山へ寝鳥(ねどり)でも捕えに行こうと思って、月明りを(さいわい)、部落の往来を独りぶらぶら歩いていると、誰か笛を吹きすさびながら、薄い(もや)()りた中を、これも悠々と来かかるものがあった。野蛮(やばん)な彼は幼い時から、歌とか音楽とか云うものにはさらに興味を感じなかった。が、藪木(やぶき)の花の《におい》のする春の月夜に包まれながら、だんだんこちらへやって来る笛の声に耳を傾けるのは、彼にとっても何となく、心憎い気のするものであった。

 その内に彼とその男とは、顔を合せるばかりに近くなって来た。しかし相手は鼻の先へ来ても、相不変(あいかわらず)笛を吹き止めなかった。彼は路を譲りながら、天心に近い月を負って、相手の顔を()かして見た。美しい顔、(きら)びやかな勾玉、それから口に当てた斑竹(はんちく)の笛――相手はあの(せい)の高い、風流な若者に違いなかった。彼は勿論この若者が、彼の野性を軽蔑する敵の一人だと云うことを承知していた。そこで始は昂然と肩を挙げて、挨拶もせずに通り過ぎようとした。が、いよいよ二人がすれ違おうとした時、何かがもう一度彼の眼を若者の体へ()きつけた。と、相手の胸の上には、彼の母が遺物(かたみ)に残した、あの(ろうかん)勾玉(まがたま)が、曇りない月の光に濡れて、水々しく輝いていたではないか。

「待て。」

 彼は咄嗟(とっさ)に腕を伸ばすと、若者の(えり)をしっかり(つか)んだ。

「何をする。」

 若者は思わずよろめきながら、さすがに懸命の力を(しぼ)って、とられた襟を振り離そうとした。が、彼の手はさながら万力(まんりき)にかけたごとく、いくらもがいても離れなかった。

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