27話 二十七
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夜は次第に更けて行った。空になった盤や瓶は、時々けたたましい音を立てて、床の上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机から滴る酒に、いつかぐっしょり濡らされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体もないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐息の音ばかりであった。
やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後には炉に消えかかった、煤臭い榾の火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女に虐まれている、小山のような彼の姿を朦朧といつまでも照していた。……
翌日彼は眼をさますと、洞穴の奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅畳を延べる代りに、堆く桃の花が敷いてあった。昨日から洞中に溢れていた、あのうす甘い、不思議な《におい》は、この桃の花のに違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた昨夜の記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。
「畜生。」
素戔嗚はこう呻きながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、煽ったように空へ舞い上った。
洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。大気都姫はどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く靴を穿いて、頭椎の太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。
微風は彼の頭から、すぐさま宿酔を吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うに戦いでいる、さわやかな森林の梢を眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸った靄の上に、《さんがん》たる肌を曝していた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく昨夜の狂態を嘲笑っているように見えるのであった。
この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞穴の空気が、嘔吐を催すほど不快になった。今は炉の火も、瓶の酒も、乃至寝床の桃の花も、ことごとく忌わしい腐敗の《におい》に充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも死穢を隠すために、巧な紅粉を装っている、屍骨のような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄然と頭を低れながら、洞穴の前に懸っている藤蔓の橋を渡ろうとした。
が、その時賑かな笑い声が、静な谷間に谺しながら、活き活きと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前に通っている、細い岨路の向うから、十五人の妹をつれた、昨日よりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、眩い絹の裳を飜しながら、こちらへ急いで来る所であった。
「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」
彼等は小鳥の囀るように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、折角橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩漾させた。彼は彼自身の腑甲斐なさに驚きながら、いつか顔中に笑を浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。