素戔嗚尊

27話 二十七

1,261字 約3分 1999年8月27日 公開

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 ()は次第に()けて行った。(から)になった(さら)(ほたり)は、時々けたたましい音を立てて、(ゆか)の上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机から(したた)る酒に、いつかぐっしょり()らされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体(しょうたい)もないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐息(といき)の音ばかりであった。

 やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後には()に消えかかった、煤臭(すすくさ)(ほた)の火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女に(さいな)まれている、小山のような彼の姿を朦朧(もうろう)といつまでも照していた。……

 翌日彼は眼をさますと、洞穴(ほらあな)の奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅畳(すがだたみ)を延べる代りに、(うずたか)(もも)の花が敷いてあった。昨日(きのう)から洞中に(あふ)れていた、あのうす甘い、不思議な《におい》は、この桃の花のに違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた昨夜(ゆうべ)の記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。

畜生(ちくしょう)。」

 素戔嗚(すさのお)はこう(うめ)きながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、(あお)ったように空へ舞い上った。

 洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。大気都姫(おおけつひめ)はどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く(くつ)穿()いて、頭椎(かぶつち)の太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。

 微風は彼の頭から、すぐさま宿酔(しゅくすい)を吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うに(そよ)いでいる、さわやかな森林の(こずえ)を眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸った(もや)の上に、《さんがん》たる(はだ)(さら)していた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく昨夜(ゆうべ)の狂態を嘲笑(あざわら)っているように見えるのであった。

 この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞穴(ほらあな)の空気が、嘔吐(おうと)を催すほど不快になった。今は()の火も、(ほたり)の酒も、乃至(ないし)寝床の桃の花も、ことごとく(いま)わしい腐敗の《におい》に充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも死穢(しえ)を隠すために、巧な紅粉(こうふん)を装っている、屍骨(しこつ)のような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄然(しょうぜん)と頭を()れながら、洞穴の前に懸っている藤蔓(ふじづる)の橋を渡ろうとした。

 が、その時賑かな笑い声が、静な谷間に(こだま)しながら、()()きと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前に(かよ)っている、細い岨路(そばみち)の向うから、十五人の妹をつれた、昨日(きのう)よりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、(まばゆ)い絹の(もすそ)(ひるがえ)しながら、こちらへ急いで来る所であった。

「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」

 彼等は小鳥の(さえず)るように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、折角(せっかく)橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩漾(とうよう)させた。彼は彼自身の腑甲斐(ふがい)なさに驚きながら、いつか顔中に(えみ)を浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。

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