素戔嗚尊

26話 二十六

1,219字 約2分 1999年8月27日 公開

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 素戔嗚(すさのお)は膝を抱えたまま、洞外をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾けていた。すると女は炉の中へ、新に焚き木を加えながら、

「あの――御名前は何とおっしゃいますか。私は大気都姫(おおけつひめ)と申しますが。」と云った。

「おれは素戔嗚だ。」

 彼がこう名乗った時、大気都姫は驚いた眼を挙げて、今更のようにこの無様(ぶざま)な若者を眺めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明かに熟しているようであった。

「では今まではあの山の向うの、高天原(たかまがはら)の国にいらしったのでございますか。」

 彼は黙って(うなず)いた。

「高天原の国は、()い所だと申すではございませんか。」

 この言葉を聞くと共に、一時静まっていた心頭(しんとう)怒火(どか)が、また彼の眼の中に燃えあがった。

「高天原の国か。高天原の国は、鼠が(いのしし)よりも強い所だ。」

 大気都姫は微笑した。その拍子(ひょうし)に美しい歯が、(あざやか)に火の光に映って見えた。

「ここは何と云う所だ?」

 彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼の(たくま)しい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は苛立(いらだ)たしい(まゆ)を動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、(したた)るような(こび)を眼に浮べて、

「ここでございますか。ここは――ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。

 その時(にわか)に人のけはいがして、あの老婆を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた気色(けしき)もなく、ぞろぞろ洞穴(ほらあな)の中へはいって来た。彼等は皆頬に(くれない)をさして、高々と黒髪を(つか)ねていた。それが順々に大気都姫(おおけつひめ)と、親しそうな挨拶(あいさつ)を交換すると、呆気(あっけ)にとられた彼のまわりへ、()れ馴れしく()()に席を占めた。頸珠(くびだま)の色、耳環(みみわ)の光、それから着物の絹ずれの音、――洞穴の内はそう云う物が、榾明(ほたあか)りの中に充ち満ちたせいか、急に狭くなったような心もちがした。

 十六人の女たちは、すぐに彼を取りまいて、こう云う山の中にも似合わない、陽気な酒盛(さかもり)を開き始めた。彼は始は(おし)のように、ただ(すす)められる盃を一息にぐいぐい飲み干していた。が、(よい)がまわって来ると、追いおい大きな声を挙げて、笑ったり話したりする様になった。女たちのある者は、玉を飾って琴を()いた。またある者は、盃を控えて、(なまめ)かしい恋の歌を唱った。洞穴は彼等のえらぐ声に、鳴りどよむばかりであった。

 その内に夜になった。老婆は()に焚き木を加えると共に、幾つも油火(あぶらび)の燈台をともした。その昼のような光の中に、彼は泥のように()()れながら、前後左右に周旋する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪い合って、互に嬌嗔(きょうしん)を帯びた声を立てた。が、大抵は大気都姫が、妹たちの怒には頓着なく、酒に(ひた)った彼を壟断(ろうだん)していた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた高天原(たかまがはら)の国も忘れて、洞穴を()めた脂粉(しふん)の気の(なか)に、全く沈湎(ちんめん)しているようであった。ただその大騒ぎの最中(もなか)にも、あの猿のような老婆だけは、静に片隅に(うずくま)って、十六人の女たちの、人目を(はばか)らない酔態に皮肉な流し目を送っていた。

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