素戔嗚尊

29話 二十九

1,286字 約3分 1999年8月27日 公開

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 素戔嗚(すさのお)は一日の(のち)、またあの洞中に帰って来た。十六人の女たちは、皆彼の逃げた事も知らないような顔をしていた。それはどう考えても、無関心を(よそお)っているとは思われなかった。むしろ彼等は始めから、ある不思議な無感受性を持っているような気がするのであった。

 この彼等の無感受性は、当座の間彼を苦しませた。が、さらに一月ばかり経って見ると、(かえ)って彼はそのために、前よりも(なお)安々(やすやす)と、いつまでも()めない(よい)のような、怪しい幸福に(ひた)る事が出来た。

 一年ばかりの月日は、再び夢のように通り過ぎた。

 するとある日女たちは、どこから洞穴(ほらあな)へつれて来たか、一頭の犬を飼うようになった。犬は全身まっ黒な、(こうし)ほどもある(おす)であった。彼等は、殊に大気都姫(おおけつひめ)は、人間のようにこの犬を可愛がった。彼も始は彼等と一しょに、(さら)の魚や(けもの)の肉を投げてやる事を嫌わなかった。あるいはまた酒後の(たわむ)れに、相撲(すもう)をとる事も度々あった。犬は時々前足を飛ばせて、()()れた彼を投げ倒した。彼等はその度に手を叩いて、賑かに笑い興じながら、意気地(いくじ)のない彼を嘲り合った。

 ところが犬は一日毎に、益々彼等に愛されて行った。大気都姫はとうとう食事の度に、彼と同じ(さら)(ほたり)を、犬の前にも並べるようになった。彼は(にが)い顔をして、一度は犬を()い払おうとした。が、彼女はいつになく、美しい眼の色を変えて、彼の我儘を(とが)め立てた。その怒を犯してまでも、犬を成敗(せいばい)しようと云う勇気は、すでに彼には失われていた。彼はそこで犬と共に、肉を食ったり酒を飲んだりした。犬は彼の不快を知っているように、いつも(さら)()め廻しながら、彼の方へ(きば)()いて見せた。

 しかしその間は、まだ好かった。ある朝彼は女たちに遅れて、例の通り(たき)を浴びに行った。季節は夏に近かったが、そのあたりの桃は相不変(あいかわらず)、谷間の霧の中に開いていた。彼は熊笹(くまざさ)を押し分けながら、桃の落花を(たた)えている、すぐ下の瀑壺(たきつぼ)へ下りようとした。その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××黒い(けもの)が動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰の(つるぎ)を抜いて、一刺しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣を(ふる)わせなかった。その暇に犬は水を垂らしながら、瀑壺(たきつぼ)の外へ躍り上って、洞穴の方へ逃げて行ってしまった。

 それ以来夜毎の酒盛りにも、十六人の女たちが、一生懸命に奪い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒に(ひた)りながら、洞穴の奥に(うずくま)って、一夜中(ひとよじゅう)(よい)泣きの涙を落していた。彼の心は犬に対する、燃えるような嫉妬(しっと)で一ぱいであった。が、その嫉妬の浅間(あさま)しさなどは、寸毫(すんごう)も念頭には(のぼ)らなかった。

 ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へ(うず)めていると、突然誰かが忍びよって、両手に彼を(いだ)きながら(なま)めかしい言葉を(ささや)いた。彼は意外な眼を挙げて、油火(あぶらび)には遠い薄暗がりに、じっと相手の顔を()かして見た。と同時に怒声を発して、いきなり相手を突き放した。相手は一たまりもなく(ゆか)に倒れて、苦しそうな呻吟(しんぎん)の声を洩らした。――それはあの腰も(ろく)に立たない、猿のような老婆の声であった。

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