30話 三十
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老婆を投げ倒した素戔嗚は、涙に濡れた顔をしかめたまま、虎のように身を起した。彼の心はその瞬間、嫉妬と憤怒と屈辱との煮え返っている坩堝であった。彼は眼前に犬と戯れている、十六人の女たちを見るが早いか、頭椎の太刀を引き抜きながら、この女たちの群った中へ、我を忘れて突進した。
犬は咄嗟に身を飜して、危く彼の太刀を避けた。と同時に女たちは、哮り立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕を振り離して、切先下りにもう一度狂いまわる犬を刺そうとした。
しかし大刀は犬の代りに、彼の武器を奪おうとした、大気都姫の胸を刺した。彼女は苦痛の声を洩らして、のけざまに床の上へ倒れた。それを見た女たちは、皆悲鳴を挙げながら、糅然と四方へ逃げのいた。燈台の倒れる音、けたたましく犬の吠える声、それから盤だの瓶だのが粉微塵に砕ける音、――今まで笑い声に満ちていた洞穴の中も、一しきりはまるで嵐のような、混乱の底に投げこまれてしまった。
彼は彼自身の眼を疑うように、一刹那は茫然と佇んでいた。が、たちまち大刀を捨てて、両手に頭を抑えたと思うと、息苦しそうな呻き声を発して、弦を離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走り出した。
空には暈のかかった月が、無気味なくらいぼんやり蒼ざめていた。森の木々もその空に、暗枝をさし交せて、ひっそり谷を封じたまま、何か凶事が起るのを待ち構えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走り続けた。熊笹は露を振いながら、あたかも彼を埋めようとするごとく、どこまで行っても浪を立てていた。時々夜鳥がその中から、翼に薄い燐光を帯びて、風もない梢へ昇って行った。……
明け方彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうど鉛の板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲に聳えた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久に癒やす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰を下して、寂しい水面へ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。
すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高天原の国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵のすべてであった。――彼は両手に顔を埋めて、長い間大声に泣いていた。
その間に空模様が変った。対岸を塞いだ山の空には、二三度鍵の手の稲妻が飛んだ。続いて殷々と雷が鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨を孕んだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、俄に湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。
雷が猶鳴り続けた。その内に対岸の山が煙り出すと、どこともなくざっと木々が鳴って、一旦暗くなった湖が、見る見る向うからまた白くなった。彼は始めて顔を挙げた。その途端に天を傾けて、瀑のような大雨が、沛然と彼を襲って来た。