素戔嗚尊

30話 三十

1,226字 約2分 1999年8月27日 公開

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 老婆を投げ倒した素戔嗚(すさのお)は、涙に濡れた顔をしかめたまま、(とら)のように身を起した。彼の心はその瞬間、嫉妬と憤怒(ふんぬ)屈辱(くつじょく)との煮え返っている坩堝(るつぼ)であった。彼は眼前に犬と(たわむ)れている、十六人の女たちを見るが早いか、頭椎(かぶつち)の太刀を引き抜きながら、この女たちの(むらが)った中へ、我を忘れて突進した。

 犬は咄嗟(とっさ)に身を飜して、危く彼の太刀を避けた。と同時に女たちは、(たけ)り立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕を振り離して、切先下(きっさきさが)りにもう一度狂いまわる犬を()そうとした。

 しかし大刀は犬の代りに、彼の武器を奪おうとした、大気都姫(おおけつひめ)の胸を刺した。彼女は苦痛の声を()らして、のけざまに床の上へ倒れた。それを見た女たちは、皆悲鳴を挙げながら、糅然(じゅうぜん)と四方へ逃げのいた。燈台の倒れる音、けたたましく犬の吠える声、それから(さら)だの(ほたり)だのが粉微塵(こなみじん)に砕ける音、――今まで笑い声に満ちていた洞穴(ほらあな)の中も、一しきりはまるで嵐のような、混乱の底に投げこまれてしまった。

 彼は彼自身の眼を疑うように、一刹那(いっせつな)は茫然と(たたず)んでいた。が、たちまち大刀を捨てて、両手に頭を抑えたと思うと、息苦しそうな(うめ)き声を発して、(いと)を離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走り出した。

 空には(かさ)のかかった月が、無気味(ぶきみ)なくらいぼんやり(あお)ざめていた。森の木々もその空に、暗枝(あんし)をさし(かわ)せて、ひっそり谷を封じたまま、何か凶事(きょうじ)が起るのを待ち構えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走り続けた。熊笹は露を振いながら、あたかも彼を(うず)めようとするごとく、どこまで行っても(なみ)を立てていた。時々夜鳥(よどり)がその中から、翼に薄い燐光(りんこう)を帯びて、風もない(こずえ)へ昇って行った。……

 ()(がた)彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうど(なまり)の板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲に(そび)えた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久に()やす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰を(おろ)して、寂しい水面(みのも)へ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。

 すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高天原(たかまがはら)の国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵(してき)のすべてであった。――彼は両手に顔を(うず)めて、長い間大声に泣いていた。

 その間に空模様が変った。対岸を(ふさ)いだ山の空には、二三度(かぎ)の手の稲妻(いなずま)が飛んだ。続いて殷々(いんいん)(いかずち)が鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨を(はら)んだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、(にわか)に湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。

 (いかずち)が猶鳴り続けた。その内に対岸の山が煙り出すと、どこともなくざっと木々が鳴って、一旦暗くなった湖が、見る見る向うからまた白くなった。彼は始めて顔を挙げた。その途端(とたん)に天を傾けて、(たき)のような大雨(おおあめ)が、沛然(はいぜん)と彼を襲って来た。

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