素戔嗚尊

31話 三十一

1,199字 約2分 1999年8月27日 公開

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 対岸の山はすでに見えなくなった。湖も立ち()めた雲煙(うんえん)の中に、ややともすると(まぎ)れそうであった。ただ、稲妻の(ひらめ)く度に、波の逆立(さかだ)った水面が、一瞬間遠くまで見渡された。と思うと(いかずち)の音が、必ず空を()きむしるように、続けさまに轟々(ごうごう)と爆発した。

 素戔嗚(すさのお)はずぶ濡れになりながら、(いまだ)(なぎさ)の砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛(かいもう)の底へ沈んでいた。そこには(けが)れ果てた自己に対する、憤懣(ふんまん)よりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣を(ほしいまま)()らす力さえ、――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえ()れ尽きていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒ぎ立つ波に臨んだまま、まっ白に落す豪雨を浴びて、黙然(もくねん)と坐っているよりほかはなかった。

 天はいよいよ暗くなった。風雨も一層力を加えた。そうして――突然彼の眼の前が、ぎらぎらと凄まじい薄紫(うすむらさき)になった。山が、雲が、湖が皆半空(はんくう)に浮んで見えた。同時に地軸(ちじく)も砕けたような、落雷の音が耳を()いた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒れた。雨は俯伏(うつぶ)せになった彼の上へ未練未釈(みれんみしゃく)なく降り(そそ)いだ。しかし彼は砂の中に半ば顔を(うず)めたまま、身動きをする気色(けしき)も見えなかった。……

 何時間か過ぎた(のち)、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上った。彼の前には静な湖が、油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一幅の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかより(あざや)かな黄ばんだ緑に(ほの)めいていた。

 彼は茫然と眼を挙げて、この平和な自然を眺めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂莫(せきばく)(あふ)れていた。

「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――彼はそう思いながら、(むさぼ)るように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿(たど)って見ても、容易に彼には思い出せなかった。

 その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を(うず)める森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄(せんりつ)が伝わるのを感じた。彼は息を呑みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない(いかずち)のように(とどろ)いて来た。

 彼は喜びに(おのの)いた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を(ふさ)ごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより(みち)はなかった。

 湖は日に輝きながら、溌溂(はつらつ)とその言葉に応じた。彼は――その(なぎさ)にひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ(みなぎ)って来た。

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