8話 八
読み方を変える
「――お絹さん、宿へ行って話しましょう。――この笠に、深いわけがあるんですから。」
「そしたら、泊っておくれやすえ、可恐いよって。」
「大きに。」
お洲美さんの思出のために、目の前の誘惑に対する余裕が出来て、と、軽く受けて、……我ながらちょっと男振を上げながら、夜露も身に沁む、袖で笠を抱きました。
「旦那、帰ってもいいんでござんしょう。」
藍川館の玄関へ引込んだ時、酔った車夫がニヤニヤと声を掛けた。
「ほんに。」
「いや、一台は、そのまま。幌は掛けたまま頼むよ。」
笠を預けて出たんです。が、今おもっても、冷汗が流れます。この俥をかえしていたら、何の面目があって、世にお目に掛かられよう。
見て下さい。――曲りくねった長い廊下を、そうでしょう、すぐ外は線路だという、奥の奥座敷へ通って、ほとんど秘密室とも思われる。中は広いのに、ただ狭い一枚襖を開けると、どうです。歓喜天の廚子かと思う、綾錦を積んだ堆い夜具に、ふっくりと埋まって、暖かさに乗出して、仰向けに寝ていたのが、
「やあ。」
という、
枕が二つ。……
「これはおいでなさい。」
眉の青い路之助が、八反の広袖に、桃色の伊達巻で、むくりと起きて出たんですから。
「遅いので、何のおもてなしも。……さ、さ、蜜柑でも。」
片寄せた長火鉢の横で、蜜柑の皮。筋を除る、懐紙の薄いのが、しかし、蜘蛛の巣のように見えた。
「――そうですか、いずれ明日。――お供を……」
「いや、待たせてあります。」
路之助は、式台に、色白くその伊達巻で立った。
お絹が廂を出て、俥の輪に摺り寄った処を、
「握手をしますよ。」
半身を幌から覗くと、
「は、は、は、どうぞしっかり。」
「さようなら。」
「お静かに。」
「ああ、お洲美さん。」
万一、前刻に御堂の縁で、唇を寄せたらば、恥辱に活きてはいられまい。――
「お洲美さん、全く、お庇だ。お洲美さん。」
「旦那、どうか、なさいましたか、旦那。」
「うむ。」
踏切の坂を引あげて、寛永寺横手の暗夜に、石燈籠に囲まれつつ、轍が落葉に軋んだ時、車夫が振向いた。
「婦の友だちだよ。」
「旦那。」
車夫は、藍川館まで附絡った、美しいのに遁げられた、色情狂だと思ったろう。……
「うつくしい、儚い人だよ。私の傍に居るようだ。」
「ぎゃあ。」
「ついでにおろしておくれ、山の中を巡礼がしたくなった。」
「降り出しましたぜ、旦那。」
「野宿をするのに、雨なんぞ。……あなたは濡らさない、お洲美さん。」
「わあ、大きな燈籠の中に青い顔が、ぎゃあ。」
俥を棄てた。
術をもって対すれば、俳優何するものぞ。ただしその頃は、私に台本、戯曲を綴る気があった。ふと、演出にあたって、劇中の立女形に扮するものを、路之助として、技の意見、相背き、相衝いて反する時、「ふん、おれの情婦ともしらないで。……何、人情がわかるものか。」と侮蔑されたら何とする?!……
「ああ、お洲美さん、ありがとう。」
と朝顔の笠を両袖で――外套は宿へ忘れて来た――袖でひしと抱いて、桜を誘う雨ながら、ざっと一しきり降り来る中に、怪しき巨人に襲わるる、森の恐怖にふるえつつも、さめざめと涙を流した、石燈籠が泣くように。……
昭和七(一九三二)年四月