白花の朝顔

8話

1,310字 約3分 2011年12月28日 公開

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「――お絹さん、宿へ行って話しましょう。――この笠に、深いわけがあるんですから。」

「そしたら、泊っておくれやすえ、可恐(こわ)いよって。」

「大きに。」

 お洲美さんの思出のために、目の前の誘惑に対する余裕が出来て、と、軽く受けて、……我ながらちょっと男振を上げながら、夜露も身に()む、袖で笠を抱きました。

「旦那、帰ってもいいんでござんしょう。」

 藍川館の玄関へ引込んだ時、酔った車夫(くるまや)がニヤニヤと声を掛けた。

「ほんに。」

「いや、一台は、そのまま。(ほろ)は掛けたまま頼むよ。」

 笠を預けて出たんです。が、今おもっても、冷汗が流れます。この(くるま)をかえしていたら、何の面目があって、世にお目に掛かられよう。

 見て下さい。――曲りくねった長い廊下を、そうでしょう、すぐ外は線路だという、奥の奥座敷へ通って、ほとんど秘密室とも思われる。中は広いのに、ただ狭い一枚襖(いちまいぶすま)を開けると、どうです。歓喜天の廚子(ずし)かと思う、綾錦(あやにしき)を積んだ(うずたか)い夜具に、ふっくりと(うず)まって、暖かさに乗出して、仰向(あおむ)けに寝ていたのが、

「やあ。」

 という、

 枕が二つ。……

「これはおいでなさい。」

 眉の青い路之助が、八(たん)広袖(どてら)に、桃色の伊達巻(だてまき)で、むくりと起きて出たんですから。

「遅いので、何のおもてなしも。……さ、さ、蜜柑でも。」

 片寄せた長火鉢の横で、蜜柑の皮。筋を()る、懐紙(ふところがみ)の薄いのが、しかし、蜘蛛の巣のように見えた。

「――そうですか、いずれ明日。――お供を……」

「いや、待たせてあります。」

 路之助は、式台に、色白くその伊達巻で立った。

 お絹が(ひさし)を出て、(くるま)の輪に()り寄った処を、

「握手をしますよ。」

 半身を(ほろ)から(のぞ)くと、

「は、は、は、どうぞしっかり。」

「さようなら。」

「お静かに。」

「ああ、お洲美さん。」

 万一、前刻(さき)に御堂の縁で、唇を寄せたらば、恥辱に()きてはいられまい。――

「お洲美さん、全く、お(かげ)だ。お洲美さん。」

「旦那、どうか、なさいましたか、旦那。」

「うむ。」

 踏切の坂を(ひき)あげて、寛永寺横手の暗夜(やみ)に、石燈籠に囲まれつつ、(わだち)が落葉に(きし)んだ時、車夫(くるまや)が振向いた。

(おんな)の友だちだよ。」

「旦那。」

 車夫は、藍川館まで附絡(つきまと)った、美しいのに()げられた、色情狂(いろきちがい)だと思ったろう。……

「うつくしい、(はかな)い人だよ。私の(そば)に居るようだ。」

「ぎゃあ。」

「ついでにおろしておくれ、山の中を巡礼がしたくなった。」

「降り出しましたぜ、旦那。」

「野宿をするのに、雨なんぞ。……あなたは濡らさない、お洲美さん。」

「わあ、大きな燈籠の中に青い顔が、ぎゃあ。」

 俥を棄てた。

 術をもって対すれば、俳優何するものぞ。ただしその頃は、私に台本、戯曲を(つづ)る気があった。ふと、演出にあたって、劇中の立女形(たておやま)(ふん)するものを、路之助として、()の意見、相背き、相衝(あいつ)いて反する時、「ふん、おれの情婦(いろ)ともしらないで。……何、人情がわかるものか。」と侮蔑されたら何とする?!……

「ああ、お洲美さん、ありがとう。」

 と朝顔の笠を両袖で――外套は宿へ忘れて来た――袖でひしと抱いて、桜を誘う雨ながら、ざっと一しきり降り来る中に、怪しき巨人に襲わるる、森の恐怖にふるえつつも、さめざめと涙を流した、石燈籠が泣くように。……

昭和七(一九三二)年四月

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