7話 七
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が、妹分のために、苦にせまい。肉の薄いのは身代の痩せたのではない。大人は評判の蓄財家で、勤倹の徳は、範を近代に垂るるといっても可いのですから。
その証拠には、水騒ぎの最中へ、某雑誌記者、気忙しそうで口早な痩せた男の訪問があり、玄関で押問答の上、二階へ連れて上ったのは……挿画何枚かの居催促、大人に取っては、地位転換、面目一新という、某省の辞令をうけて、区々たる挿画ごときは顧みなかったために債が迫った。顧みないにした処で、受合った義理は義理で、退引ならず二階で、膝詰の揮毫となる処へ、かさねて、某新聞の記者、こちらは月曜附録とかいう歌の選の督促で一足後れたが、おくれただけ、なお怒ったように、階子段を、洋袴の割股で押上った。この肥ったので、二階へ蓋をしたように見えました。
「流行るんだなあ。」
編輯、受附、出版屋、相ともに持込むばかりで、催促どころか、めったに訪問などされた事のない、兄弟子は、夜風を横外頬へ、げっそりと腹を空かして、
「結構ですな。」
枯野へ霜がおりたような、豆府の土手の冷たいのに、押取って、箸を向けると、
「およしなさい。」
と酔とともに、ふらふらとかぶりを振って、
「牛鍋の湯豆府なんか、私の御馳走ではないのですから。……あなたのお頼みなさいました、そのお弟子さんですがね、内へおいでなさるんなら、この覚悟、ね、より以上かも知れませんから。お葱や、豆府はまだしも、糸菎蒻だと思って下さいましね。お腹が冷たくなるんですから……お酒はあります。あ、私にも飲まして頂載。もう一杯もっとさ。」
「いや驚いた、いけますなあ。」
「一生に一度ですもの。」
「え。」
「いいえ、二度です。婚礼の晩、飲みましたの。酔いましたわ。」
「乱暴だなあ。しかし、痛快だ。お酌をするのも頂くのも、ともに光栄です。」
「お兄上。」
「…………」
「おほ、ほ。ああ酔った。私……お兄上にあたる方にお酌をさして罰が当る。……前に、あなたが、まだ、先生のお玄関にいらっしゃる時分、私が時々うかがう毎に、駒下駄を直さして、ああ、勿体ない、そう思う、思う心は、口へは出ず、手も足も固くなるから、突張って、ツンツンして、さぞ高慢に見えたでしょう。髪の毛一筋抜けたって、女は生命にかかわります。置きどころもない身体を、あなたの目に曝すんですもの、形も態もありはしません。文学少女とかいうものだって、鬼神に横道なしですよ。自分で卑下する心から、気がひがんで、あなたの顔が憎らしかった。あなたも私が憎いのね。――ああ、信や(女中)二階で手が鳴る。――虫が煩い。この燈を消して、隣室のを点けておくれな。」
その間、頸脚が白かった。振仰向くと、吻と息して、肩が揺れた、片手づきに膝をくねって、
「ああ、酔って来た、境さん、……おいらんとは。お睦じい?……」
と、バタリと畳へ手をつくと、浴衣の蔦は野分する。
「何をいってるんです。」
「おいらんは何て方?……十六夜さん、三千歳さん?」
「薄雲、高尾でございます。これでもそこらで、鮨を撮んで、笹巻の笹だけ袂へ入れて振込めば、立ちどころに仙台様。――庭の薄に風が当る。……
――寂しいな、お洲美さん、急に何だか寂しい気がする、仙台へ行ってしまわれては。」
「ですけどね、あの、ほかの世話はかまいませんけど、媒妁だけは、もう止してね。」
と、眉が迫って見据えるのです。
「媒妁?」
「――名はいいますまい、売ッ子ですよ。私たちのお弟子なかまではありません。別派、学校側の花形で、あなたのお友だちの方に――わかりまして……私を、私をよ、嫁に、妻に世話しようとなすったのは誰方でした。」
「そ、それは、しかし、勿論、何だ。別派、学校側の……可。……その男が、私を通じて、先生まで申出てくれと頼まれたものだから……」
「お料理屋へ私をお呼び下すって……先生が、そのお話を遊ばしたんです。――境が橋わたしの口を、口を利いた、と一言……一言おっしゃるのを聞いた時、私、私……」
「お待ちなさい、待ちたまえ。――だから断ったから差支えないでしょう。」
「ええ、断りましたわ、誰があんな――あんな男に世話しようなんのって、私、あなたが、私あなたが。」
「そりゃ無理だ、そりゃ無理だ、お洲美さん、あなたが、あの男を好きだか、嫌いだか、私がそれを知るもんですか。」
「だって、だって、ちっとでも、私を、私を思って下すったら、怪我にもあんな、あんな奴に。」
「無理だ、そりゃ乱暴だ。」
「ええ、無理です、乱暴です。だから、私、すぐそのあとで、それまで人をかえ、手をかえ、話があるのを断っていた――よござんすか――私も、あなたが大嫌いな、一番嫌いな、何より好かない、此家へ縁付いてしまったんです。ほ、ほ、ほ。」
太白の糸を噛んだように、白く笑って、
「乱暴でしょう。乱暴、乱暴だけど、あの一番嫌いな人を世話しようとした、その口惜さに、世話しようとした人の、あなたですよ、あなたの一番嫌いな男の許へ縁についた。無理です、乱暴です。乱暴ですけど、あなたは、あなただって、そのくらいな著作をなさるじゃありませんか。」
「何にもいわない。――もう、朝顔の、ま、枕の時から、一言もないのです。私は坊主にでもなりたい。」
お洲美さんは、《みは》っていた目を閉じました。そして、うなずくように俯向いた耳許が石榴の花のように見えた。
「私は巡礼……
もうこの間から、とりあえず仙台まででも、奥州を巡礼してゆきたい気がするんです。まったくですわ。そういったら、内の女中ッたら、ねえ、あの、私のような汚がり屋さんが、はばかりをどうするって笑うんですの。巡礼といえば、いずれ木賃宿でしょう、野宿にしたって、それは困るわね。でも、真面目ですよ、ご覧なさい――昨日も上野の浄明院石占寺の万体地蔵様に、お参りをして、五百体、六百体と、半日、日の暮方まで巡りましたらね、(水木藻蝶。)いい名でしょう、踊のお師匠さんに違いないのです。(行年二十七)として、名を刻んだ地蔵様が一体、菅笠を――ああ、暑い、私何だか目が霞む。――菅笠を。……めしていらっしゃるんなら、雨なり、露なり、取るのは遠慮だったんですけど、背中に掛けておいでなすったもんだから、外して、本堂へ持って行って、お布施をして、坊さんに授けて貰って来たんです。――これだって女です、巡礼しても、ちっとでも、形のいいように、お師匠さんのを――あの、境さん、菅笠を抱きました時に、何となく、今日ね、あなたがいらっしゃる気がしたんですよ――そ、それに二十七だとすると、もう五年生きられますもの。――押入なんかに蔵っておくより、昼間はちょっと秋草に預けて、花野をあるく姿を見ようと思いますとね、萩も薄も寝てしまう、紫苑は弱し。……さっき、あなたのおいでなすった時ですよ、ちょうど鶏頭の上へ乗っけて見ましたの。そうすると、それがいい工合に。」
ああ、そうか、鶏頭か。春日燈籠をつつんで、薄の穂が白く燈に映る。その奥の暗い葉蔭に、何やら笠を被った黒いものが立っていて、ひょろひょろと動くのが、ふと目に着いてから気にかかった。が、決意もなく、断行もない、坊主になりたいを口にするとともに、どうやら、破衣のその袖が、ふらふらと誘いに来そうで不気味だった。
「見せますわ、見せましょうね。巡礼を。」
「大賛成です。」
「水木藻蝶さん、うつくしい人の面影ですよ。」
どこで脱いだか、はッとたちまち、うす鼠地に蔦を染めた、女作家の、庭の朧の立姿は、羽織を捨てて、鶏頭の竹に添っていた。
軽くはずして、今、手提に引返す。帯が、もう弛んでいる。さみしい好みの水浅葱の縮緬に、蘆の葉をあしらって、淡黄の肉色に影を見せ、蛍の首筋を、ちらちらと紅く染めた蹴出しの色が、雨をさそうか、葉裏を冷く、颯と通る処女風に、蘆も蛍も薄に映って、露ながら白い素足。
二階の裏窓から漏れる電燈に、片頬を片袖ぐるみ笠を黒髪に翳して、隠すようにしたが、蓮葉に沓脱をひらりと、縁へ。
「ふらふらする。ちょっと歩行くと、ふらふらしますわ。酔っちまって。」
と、元の座にくずれた。
「ああ私、何だか分らない。」
ふう、と仰向けに胸の息づかい、乳の蔦がくれの膨みを、ひしと菅笠で圧えながら、
「巡礼に御報謝……ね。」
と、切なそうに微笑んだ。
電燈を背後にして、襟のうすぐらい、胸のその菅笠が、ほんのりと、朧に白い。
「や、お洲美さん、失礼ですが、隠して下さい、笠を透して胸が白い、乳が映る。」
「見えますか。」
「申すも憚りだが、袖で隠して。」
「いいえ、いいえ。」
おくれ毛が邪慳に揺れると、頬が痩せるように見えながら、
「嬉しい、胸が見えるんです。さ、遮るものなしに通った、心の記念に、見える胸を、笠を通して捺塗って見て下さい。その幻の消えないうちに。色が白いか何ぞのように、胡粉とはいいませんから、墨ででも、渋ででも。」
「雪が一掴みあればいいと思う。」
「信や……絵の具皿を引攫っておいで。」
「穏かでない、穏かでない、攫うは乱暴だ、私が借りる。」
胡粉に筆洗を注いだのですが。
「画工でないのが口惜いな。」
「……何ですか蘭竹なんぞ。あなたの目は徹りました、女の乳というものだけでも、これから、きっと立派な文章にかけるんです。」
――以来、乳とかく時は一字だけも胡粉がいい――
と咄嗟に思って、手首に重く、脈にこたえて、筆で染めると、解けた胡粉は、ほんのりと、笠よりも掌に響き、雪を円く、暖かく、肌理滑らかに装上る。色の白さが夜の陽炎。
「ああ、ああ、刺青ッて、こんなでしょうか。」
居ずまいの乱るる膚に、紅の点滴は、血でない、蛍の首でした。が、筆は我ながら刀より鋭く、双の乳房を、驚破切落したように、立てていた片膝なり、思わず、《どう》と尻もちを支いた。
お洲美さんは、うっとり目を開き、膝を辷って、蹴出しを隠した菅笠に、両の白いものを視て、擽ったそうに、そッと撫でて、
「……熱いわ――この乳も酔っている……」
と、いって寂しく微笑んだ。
「人目があります。これでは巡礼して、肌を曝しては、あるかれませんね。ぽっちり薄紅を引きましょうか、……まあ、それだと、乳首に見えようも知れません。」
浅葱の絵の具を取って、線を入れた。白雪の乳房に青い静脈は畝らないで、うすく輪取って、双の大輪の朝顔が、面影を、ぱっと咲いた。
蔓を引いて、葉を添えた。
「うまいなあ、大野木夫人。」
「知らない。――このくらいな絵は学校で習います。同行二人――あとは、あなた書いて下さいな。」
「御意のままです、畏まった。」
「薄墨だし……字は余りうまくないのね。」
「弘法様じゃあるまいし、巡礼の笠に、名筆が要りますか。」
「頂くわ、頂きますわ。」
と、被ろうとする。
「お、お待ち下さい。――二階が余り静です。気障をいうようだが……その上になお、お髪が乱れる。」
「可厭な、そんな事は、おいらんに。」
「ああ、坊主になります。」
首を縮めた。
「ちょうどいい、坊主が被って見せましょう。」
と、魔がさしたように、いや、仏が導くように、笠を被ると、笠の下で、笠を被った、笠の男が、笠を被って、ひとりでに、ぶらぶらと歩行き出したのです。
中の室から、玄関へ、式台へ、土間へ、格子へ。
ハッと思わず気が着いたが、
「お洲美さん、貰って行きます。」
我知らず声が出ました。
「あれ、奥様。」
女中が飛出す。
お洲美さんは、式台に一段躓きながら、褄を投げて、障子の桟に縋ったのでした。
ぶつぶつと、我とも分かず、口の裡で、何とも知らず、覚えただけの経文を呟き呟き、鶯谷から、上野の山中を《さまよ》って歩行いた果が、夜ふけに、清水の舞台に上った。そうして、朱の扉の端に片よせて、紅緒をわがね、なし得る布施を包んだ手帖の引きほぐしに、
大慈のお ん心にまかせ三界迷離の笠一蓋
よしなにおん計 いのほど奉願上候
……夜 巡礼者
当御堂 お執事中 礼拝
舞台を下りると、いつか緒の解けたのが、血のように絡わって、生首を切って来たように見えます。秋雨がざっと降って来る。……震え、震え、段を戻って、もう一度巻込んで、それから、ひた走りに、駆出しましたが。
お洲美さんは――水木藻蝶の年も待たず、三年めに、産後で儚くなりました。
「その紅緒なんです。その朝顔の笠、その面影なんです。――」