歯車

3話 歯車(3)

7,944字 約16分 2009年4月9日 公開

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 僕はこのホテルの部屋にやっと前の短篇を書き上げ、或雑誌に送ることにした。(もっと)も僕の原稿料は一週間の滞在費にも足りないものだった。が、僕は僕の仕事を片づけたことに満足し、何か精神的強壮剤を求める為に銀座の或本屋へ出かけることにした。

 冬の日の当ったアスファルトの上には紙屑(かみくず)が幾つもころがっていた。それらの紙屑は光の加減か、いずれも薔薇(ばら)の花にそっくりだった。僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはいって行った。そこもまたふだんよりも小綺麗(こぎれい)だった。唯目金(めがね)をかけた小娘が一人何か店員と話していたのは僕には気がかりにならないこともなかった。けれども僕は往来に落ちた紙屑の薔薇の花を思い出し、「アナトオル・フランスの対話集」や「メリメエの書簡集」を買うことにした。

 僕は二冊の本を抱え、或カッフェへはいって行った。それから一番奥のテエブルの前に珈琲(コーヒー)の来るのを待つことにした。僕の向うには親子らしい男女(なんにょ)が二人坐っていた。その息子は僕よりも若かったものの、殆ど僕にそっくりだった。のみならず彼等は恋人同志のように顔を近づけて話し合っていた。僕は彼等を見ているうちに少くとも息子は性的にも母親に慰めを与えていることを意識しているのに気づき出した。それは僕にも覚えのある親和力の一例に違いなかった。同時に又現世(げんぜ)を地獄にする或意志の一例にも違いなかった。しかし、――僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸い、「メリメエの書簡集」を読みはじめた、彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のように鋭いアフォリズムを(ひらめ)かせていた。それ等のアフォリズムは僕の気もちをいつか鉄のように巌畳(がんじょう)にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱点の一つだった)僕は一杯の珈琲を飲み(おわ)った(のち)、「何でも来い」と云う気になり、さっさとこのカッフェを後ろにして行った。

 僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓を(のぞ)いて行った。或額縁屋の飾り窓はベエトオヴェンの肖像画を掲げていた。それは髪を逆立てた天才そのものらしい肖像画だった。僕はこのベエトオヴェンを滑稽に感ぜずにはいられなかった。……

 そのうちにふと出合ったのは高等学校以来の旧友だった。この応用化学の大学教授は大きい中折れ(かばん)を抱え、片目だけまっ赤に血を流していた。

「どうした、君の目は?」

「これか? これは唯の結膜炎さ」

 僕はふと十四五年以来、いつも親和力を感じる度に僕の目も彼の目のように結膜炎を起すのを思い出した。が、何とも言わなかった。彼は僕の肩を叩き、僕等の友だちのことを話し出した。それから話をつづけたまま、或カッフェへ僕をつれて行った。

「久しぶりだなあ。朱舜水(しゅしゅんすい)の建碑式以来だろう」

 彼は葉巻に火をつけた後、大理石のテエブル越しにこう僕に話しかけた。

「そうだ。あのシュシュン……」

 僕はなぜか朱舜水と云う言葉を正確に発音出来なかった。それは日本語だっただけにちょっと僕を不安にした。しかし彼は無頓着にいろいろのことを話して行った。Kと云う小説家のことを、彼の買ったブル・ドッグのことを、リウイサイトと云う毒瓦斯(ガス)のことを。……

「君はちっとも書かないようだね。『点鬼簿』と云うのは読んだけれども。……あれは君の自叙伝かい?」

「うん、僕の自叙伝だ」

「あれはちょっと病的だったぜ。この頃体は()いのかい?」

「不相変薬ばかり嚥んでいる始末だ」

「僕もこの頃は不眠症だがね」

「僕も?――どうして君は『僕も』と言うのだ?」

「だって君も不眠症だって言うじゃないか? 不眠症は危険だぜ。……」

 彼は左だけ充血した目に微笑に近いものを浮かべていた。僕は返事をする前に「不眠症」のショウの発音を正確に出来ないのを感じ出した。

「気違いの息子には当り前だ」

 僕は十分とたたないうちにひとり又往来を歩いて行った。アスファルトの上に落ちた紙屑は時々僕等人間の顔のようにも見えないことはなかった。すると向うから断髪にした女が一人通りかかった。彼女は遠目には美しかった。けれども目の前へ来たのを見ると、小皺(こじわ)のある上に醜い顔をしていた。のみならず妊娠しているらしかった。僕は思わず顔をそむけ、広い横町を曲って行った。が、暫らく歩いているうちに()の痛みを感じ出した。それは僕には坐浴より外に(なお)すことの出来ない痛みだった。

「坐浴、――ベエトオヴェンもやはり坐浴をしていた。……」

 坐浴に使う硫黄(いおう)(にお)いは忽ち僕の鼻を襲い出した。しかし勿論往来にはどこにも硫黄は見えなかった。僕はもう一度紙屑の薔薇の花を思い出しながら、努めてしっかりと歩いて行った。

 一時間ばかりたった後、僕は僕の部屋にとじこもったまま、窓の前の机に向かい、新らしい小説にとりかかっていた。ペンは僕にも不思議だったくらい、ずんずん原稿用紙の上を走って行った。しかしそれも二三時間の後には誰か僕の目に見えないものに抑えられたようにとまってしまった。僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまわった。僕の誇大妄想(もうぞう)はこう云う時に最も著しかった。僕は野蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕のペンから流れ出した命だけあると云う気になっていた。

 けれども僕は四五分の後、電話に向わなければならなかった。電話は何度返事をしても、唯何か曖昧(あいまい)な言葉を繰り返して伝えるばかりだった。が、それはともかくもモオルと聞えたのに違いなかった。僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩き出した。しかしモオルと云う言葉だけは妙に気になってならなかった。

「モオル――Mole……」

 モオルは(もぐらもち)と云う英語だった。この聯想(れんそう)も僕には愉快ではなかった。が、僕は二三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。ラ・モオルは、――死と云う仏蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姉の夫に迫っていたように僕にも迫っているらしかった。けれども僕は不安の中にも何か可笑(おか)しさを感じていた。のみならずいつか微笑していた。この可笑しさは何の為に起るか?――それは僕自身にもわからなかった。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向い合った。僕の影も勿論(もちろん)微笑していた。僕はこの影を見つめているうちに第二の僕のことを思い出した。第二の僕、――独逸人の所謂(いわゆる) Doppel gaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかった。しかし亜米利加の映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。(僕は突然K君の夫人に「先達(せんだって)はつい御挨拶もしませんで」と言われ、当惑したことを覚えている)それからもう故人になった或隻脚(かたあし)の飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけていた。死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかった。()し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰って行った。

 四角に凝灰岩を組んだ窓は枯芝や池を(のぞ)かせていた。僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノオト・ブックや未完成の戯曲を思い出した。それからペンをとり上げると、もう一度新らしい小説を書きはじめた。

     五 赤光(しゃっこう)

 日の光は僕を苦しめ出した。僕は実際鼠のように窓の前へカアテンをおろし、昼間も電燈をともしたまま、せっせと前の小説をつづけて行った。それから仕事に疲れると、テエヌの英吉利文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。彼等はいずれも不幸だった。エリザベス朝の巨人たちさえ、――一代の学者だったベン・ジョンソンさえ彼の足の親指の上に羅馬(ローマ)とカルセエジとの軍勢の戦いを始めるのを眺めたほど神経的疲労に陥っていた。僕はこう云う彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはいられなかった。

 或東かぜの強い夜、(それは僕には善い(しるし)だった)僕は地下室を抜けて往来へ出、或老人を尋ねることにした。彼は或聖書会社の屋根裏にたった一人小使いをしながら、祈祷や読書に精進していた。僕等は火鉢に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下にいろいろのことを話し合った。なぜ僕の母は発狂したか? なぜ僕の父の事業は失敗したか? なぜ又僕は罰せられたか?――それ等の秘密を知っている彼は妙に(おごそ)かな微笑を浮かべ、いつまでも僕の相手をした。のみならず時々短い言葉に人生のカリカテュアを描いたりした。僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しない(わけ)には行かなかった。しかし彼と話しているうちに彼もまた親和力の為に動かされていることを発見した。――

「その植木屋の娘と云うのは器量も善いし、気立も善いし、――それはわたしに優しくしてくれるのです」

「いくつ?」

「ことしで十八です」

 それは彼には父らしい愛であるかも知れなかった。しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはいられなかった。のみならず彼の勧めた林檎はいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現していた。(僕は木目(もくめ)や珈琲茶碗の亀裂(ひび)に度たび神話的動物を発見していた)一角獣は麒麟(きりん)に違いなかった。僕は或敵意のある批評家の僕を「九百十年代の麒麟児」と呼んだのを思い出し、この十字架のかかった屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。

如何(いかが)ですか、この頃は?」

「不相変神経ばかり苛々(いらいら)してね」

「それは薬でも駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」

「若し僕でもなれるものなら……」

「何もむずかしいことはないのです。唯神を信じ、神の子の基督(キリスト)を信じ、基督の行った奇蹟(きせき)を信じさえすれば……」

「悪魔を信じることは出来ますがね。……」

「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」

「しかし光のない(やみ)もあるでしょう」

「光のない暗とは?」

 僕は黙るより外はなかった。彼もまた僕のように暗の中を歩いていた。が、暗のある以上は光もあると信じていた。僕等の論理の異るのは唯こう云う一点だけだった。しかしそれは少くとも僕には越えられない(みぞ)に違いなかった。……

「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云うものは今でも度たび起っているのですよ」

「それは悪魔の行う奇蹟は。……」

「どうして又悪魔などと云うのです?」

 僕はこの一二年の間、僕自身の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。が、彼から妻子に伝わり、僕もまた母のように精神病院にはいることを恐れない訣にも行かなかった。

「あすこにあるのは?」

 この(たくま)しい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神(ぼくようじん)らしい表情を示した。

「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」

 僕は勿論十年(ぜん)にも四五冊のドストエフスキイに親しんでいた。が、偶然(?)彼の言った『罪と罰』と云う言葉に感動し、この本を貸して貰った上、前のホテルへ帰ることにした。電燈の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。殊に知り人に()うことは到底堪えられないのに違いなかった。僕は努めて暗い往来を選び、盗人(ぬすびと)のように歩いて行った。

 しかし僕は暫らくの後、いつか胃の痛みを感じ出した。この痛みを止めるものは一杯のウイスキイのあるだけだった。僕は或バアを見つけ、その戸を押してはいろうとした。けれども狭いバアの中には煙草の煙の立ちこめた中に芸術家らしい青年たちが何人も群がって酒を飲んでいた。のみならず彼等のまん中には耳隠しに結った女が一人熱心にマンドリンを()きつづけていた。僕は忽ち当惑を感じ、戸の中へはいらずに引き返した。するといつか僕の影の左右に揺れているのを発見した。しかも僕を照らしているのは無気味にも赤い光だった。僕は往来に立ちどまった。けれども僕の影は前のように絶えず左右に動いていた。僕は()ず怯ずふり返り、やっとこのバアの軒に()った色硝子(ガラス)のランタアンを発見した。ランタアンは烈しい風の為に(おもむ)ろに空中に動いていた。……

 僕の次にはいったのは或地下室のレストオランだった。僕はそこのバアの前に立ち、ウイスキイを一杯註文した。

「ウイスキイを? Black and White ばかりでございますが、……」

 僕は曹達(ソオダ)水の中にウイスキイを入れ、黙って一口ずつ飲みはじめた。僕の(となり)には新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話していた。のみならず仏蘭西語を使っていた。僕は彼等に背中を向けたまま、全身に彼等の視線を感じた。それは実際電波のように僕の体にこたえるものだった。彼等は確かに僕の名を知り、僕の(うわさ)をしているらしかった。

「〔Bien……tre`s mauvais……pourquoi ?……〕」

「Pourquoi ?……le diable est mort !……」

「Oui, oui……d'enfer……」

 僕は銀貨を一枚投げ出し、(それは僕の持っている最後の一枚の銀貨だった)この地下室の外へのがれることにした。夜風の吹き渡る往来は多少胃の痛みの薄らいだ僕の神経を丈夫にした。僕はラスコルニコフを思い出し、何ごとも懺悔(ざんげ)したい欲望を感じた。が、それは僕自身の外にも、――いや、僕の家族の外にも悲劇を生じるのに違いなかった。のみならずこの欲望さえ真実かどうかは疑わしかった。若し僕の神経さえ常人のように丈夫になれば、――けれども僕はその為にはどこかへ行かなければならなかった。マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、……

 そのうちに或店の軒に吊った、白い小型の看板は突然僕を不安にした。それは自動車のタイアアに翼のある商標を描いたものだった。僕はこの商標に人工の翼を()よりにした古代の希臘人を思い出した。彼は空中に舞い上った揚句、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に溺死(できし)していた。マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はこう云う僕の夢を嘲笑(あざわら)わない訣には行かなかった。同時に又復讐(ふくしゅう)の神に追われたオレステスを考えない訣にも行かなかった。

 僕は運河に沿いながら、暗い往来を歩いて行った。そのうちに或郊外にある養父母の家を思い出した。養父母は勿論(もちろん)僕の帰るのを待ち暮らしているのに違いなかった。恐らくは僕の子供たちも、――しかし僕はそこへ帰ると、おのずから僕を束縛してしまう或力を恐れずにはいられなかった。運河は波立った水の上に達磨船(だるまぶね)一艘(いっそう)横づけにしていた。その又達磨船は船の底から薄い光を洩らしていた。そこにも何人かの男女(なんにょ)の家族は生活しているのに違いなかった。やはり愛し合う為に憎み合いながら。……が、僕はもう一度戦闘的精神を呼び起し、ウイスキイの酔いを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。

 僕は又机に向い、「メリメエの書簡集」を読みつづけた。それは又いつの間にか僕に生活力を与えていた。しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になっていたことを知ると、(にわ)かに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。彼もまたやはり僕等のように暗の中を歩いている一人だった。暗の中を?――「暗夜行路」はこう云う僕には恐しい本に変りはじめた。僕は憂鬱を忘れる為に「アナトオル・フランスの対話集」を読みはじめた。が、この近代の牧羊神もやはり十字架を(にな)っていた。……

 一時間ばかりたった後、給仕は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。それ等の一つはライプツィッヒの本屋から僕に「近代の日本の女」と云う小論文を書けと云うものだった。なぜ彼等は特に僕にこう云う小論文を書かせるのであろう? のみならずこの英語の手紙は「我々は丁度日本画のように黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足である」と云う肉筆のP・Sを加えていた。僕はこう云う一行に Black and White と云うウイスキイの名を思い出し、ずたずたにこの手紙を破ってしまった。それから今度は手当り次第に一つの手紙の封を切り、黄いろい書簡(せん)に目を通した。この手紙を書いたのは僕の知らない青年だった。しかし二三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」と云う言葉は僕を苛立たせずには()かなかった。三番目に封を切った手紙は僕の(おい)から来たものだった。僕はやっと一息つき、家事上の問題などを読んで行った。けれどもそれさえ最後へ来ると、いきなり僕を打ちのめした。

「歌集『赤光』の再版を送りますから……」

 赤光! 僕は何ものかの冷笑を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。廊下には誰も人かげはなかった。僕は片手に壁を抑え、やっとロッビイへ歩いて行った。それから椅子に腰をおろし、とにかく巻煙草に火を移すことにした。巻煙草はなぜかエエア・シップだった。(僕はこのホテルへ落ち着いてから、いつもスタアばかり吸うことにしていた)人工の翼はもう一度僕の目の前へ浮かび出した。僕は向うにいる給仕を呼び、スタアを二箱貰うことにした。しかし給仕を信用すれば、スタアだけは生憎(あいにく)品切れだった。

「エエア・シップならばございますが、……」

 僕は頭を振ったまま、広いロッビイを眺めまわした。僕の向うには外国人が四五人テエブルを囲んで話していた。しかも彼等の中の一人、――赤いワン・ピイスを着た女は小声に彼等と話しながら、時々僕を見ているらしかった。

「Mrs. Townshead……」

 何か僕の目に見えないものはこう僕に(ささや)いて行った。ミセス・タウンズヘッドなどと云う名は勿論僕の知らないものだった。たとい向うにいる女の名にしても、――僕は又椅子から立ち上り、発狂することを恐れながら、僕の部屋へ帰ることにした。

 僕は僕の部屋へ帰ると、すぐに或精神病院へ電話をかけるつもりだった。が、そこへはいることは僕には死ぬことに変らなかった。僕はさんざんためらった後、この恐怖を紛らす為に「罪と罰」を読みはじめた。しかし偶然開いた頁は「カラマゾフ兄弟」の一節だった。僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙へ目を落した。「罪と罰」――本は「罪と罰」に違いなかった。僕はこの製本屋の()じ違えに、――その又綴じ違えた頁を開いたことに運命の指の動いているのを感じ、やむを得ずそこを読んで行った。けれども一頁も読まないうちに全身が震えるのを感じ出した。そこは悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。イヴァンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、或はこの部屋にいる僕自身を。……

 こう云う僕を救うものは唯眠りのあるだけだった。しかし催眠剤はいつの間にか一包みも残らずになくなっていた。僕は到底眠らずに苦しみつづけるのに堪えなかった。が、絶望的な勇気を生じ、珈琲(コーヒー)を持って来て貰った上、死にもの狂いにペンを動かすことにした。二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出来上って行った。僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしていた。のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描いていた。けれども疲労は(おもむ)ろに僕の頭を曇らせはじめた。僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上へ仰向けになった。それから四五十分間は眠ったらしかった。しかし又誰か僕の耳にこう云う言葉を囁いたのを感じ、忽ち目を醒まして立ち上った。

「Le diable est mort」

 凝灰岩の窓の外はいつか冷えびえと明けかかっていた。僕は丁度戸の前に佇み、誰もいない部屋の中を眺めまわした。すると向うの窓硝子は(まだ)らに外気に曇った上に小さい風景を現していた。それは黄ばんだ松林の向うに海のある風景に違いなかった。僕は怯ず怯ず窓の前へ近づき、この風景を造っているものは実は庭の枯芝や池だったことを発見した。けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起していた。

 僕は九時にでもなり次第、或雑誌社へ電話をかけ、とにかく金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。机の上に置いた(かばん)の中へ本や原稿を押しこみながら。

     六 飛行機

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