歯車

4話 歯車(4)

3,598字 約7分 2009年4月9日 公開

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 僕は東海道線の或停車場からその奥の或避暑地へ自動車を飛ばした。運転手はなぜかこの寒さに古いレエン・コオトをひっかけていた。僕はこの暗合を無気味に思い、努めて彼を見ないように窓の外へ目をやることにした。すると低い松の生えた向うに、――恐らくは古い街道に葬式が一列通るのをみつけた。白張(しらは)りの提灯(ちょうちん)竜燈(りゅうとう)はその中に加わってはいないらしかった。が、金銀の造花の蓮は静かに輿(こし)の前後に(ゆら)いで行った。……

 やっと僕の家へ帰った(のち)、僕は妻子や催眠薬の力により、二三日は可也(かなり)平和に暮らした。僕の二階は松林の上にかすかに海を覗かせていた。僕はこの二階の机に向かい、鳩の声を聞きながら、午前だけ仕事をすることにした。鳥は鳩や(からす)の外に雀も縁側へ舞いこんだりした。それもまた僕には愉快だった。「喜雀(きじゃく)堂に入る」――僕はペンを持ったまま、その度にこんな言葉を思い出した。

 或生暖かい曇天の午後、僕は或雑貨店へインクを買いに出かけて行った。するとその店に並んでいるのはセピア色のインクばかりだった。セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としていた。僕はやむを得ずこの店を出、人通りの少ない往来をぶらぶらひとり歩いて行った。そこへ向うから近眼らしい四十前後の外国人が一人肩を(そびや)かせて通りかかった。彼はここに住んでいる被害妄想狂の瑞典(スウエデン)人だった。しかも彼の名はストリントベルグだった。僕は彼とすれ違う時、肉体的に何かこたえるのを感じた。

 この往来は僅かに二三町だった。が、その二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通って行った。僕は横町を曲りながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキイを思い出した。のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だったのを思い出した。それは僕にはどうしても偶然であるとは考えられなかった。若し偶然でないとすれば、――僕は頭だけ歩いているように感じ、ちょっと往来に立ち止まった。道ばたには針金の(さく)の中にかすかに(にじ)の色を帯びた硝子の鉢が一つ捨ててあった。この鉢は又底のまわりに翼らしい模様を浮き上らせていた。そこへ松の(こずえ)から雀が何羽も舞い(さが)って来た。が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も皆言い合わせたように一度に空中へ逃げのぼって行った。……

 僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子(とういす)に腰をおろした。庭の隅の金網の中には白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた。僕は誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけは冷やかに妻の母や弟と世間話をした。

「静かですね、ここへ来ると」

「それはまだ東京よりもね」

「ここでもうるさいことはあるのですか?」

「だってここも世の中ですもの」

 妻の母はこう言って笑っていた。実際この避暑地もまた「世の中」であるのに違いなかった。僕は僅かに一年ばかりの間にどのくらいここにも罪悪や悲劇の行われているかを知り(つく)していた。徐ろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪おうとした弁護士、――それ等の人々の家を見ることは僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異らなかった。

「この町には気違いが一人いますね」

「Hちゃんでしょう。あれは気違いじゃないのですよ。莫迦(ばか)になってしまったのですよ」

「早発性痴呆(ちほう)と云うやつですね。僕はあいつを見る度に気味が悪くってたまりません。あいつはこの間もどう云う量見か、馬頭観世音(ばとうかんぜおん)の前にお時宜(じぎ)をしていました」

「気味が悪くなるなんて、……もっと強くならなければ駄目ですよ」

「兄さんは僕などよりも強いのだけれども、――」

 無精髭を伸ばした妻の弟も寝床の上に起き直ったまま、いつもの通り遠慮勝ちに僕等の話に加わり出した。

「強い中に弱いところもあるから。……」

「おやおや、それは困りましたね」

 僕はこう言った妻の母を見、苦笑しない訣には行かなかった。すると弟も微笑しながら、遠い垣の外の松林を眺め、何かうっとりと話しつづけた。(この若い病後の弟は時々僕には肉体を脱した精神そのもののように見えるのだった)

「妙に人間離れをしているかと思えば、人間的欲望もずいぶん烈しいし、……」

「善人かと思えば、悪人でもあるしさ」

「いや、善悪と云うよりも何かもっと反対なものが、……」

「じゃ大人の中に子供もあるのだろう」

「そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、……電気の両極に似ているのかな。何しろ反対なものを一しょに持っている」

 そこへ僕等を驚かしたのは烈しい飛行機の響きだった。僕は思わず空を見上げ、松の(こずえ)に触れないばかりに舞い上った飛行機を発見した。それは翼を黄いろに塗った。珍らしい単葉の飛行機だった。鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまわった。殊に犬は吠え立てながら、尾を捲いて縁の下へはいってしまった。

「あの飛行機は落ちはしないか?」

「大丈夫。……兄さんは飛行機病と云う病気を知っている?」

 僕は巻煙草に火をつけながら、「いや」と云う代りに頭を振った。

「ああ云う飛行機に乗っている人は高空の空気ばかり吸っているものだから、だんだんこの地面の上の空気に堪えられないようになってしまうのだって。……」

 妻の母の家を後ろにした後、僕は枝一つ動かさない松林の中を歩きながら、じりじり憂鬱になって行った。なぜあの飛行機はほかへ行かずに僕の頭の上を通ったのであろう? なぜ又あのホテルは巻煙草のエエア・シップばかり売っていたのであろう? 僕はいろいろの疑問に苦しみ、人気(ひとげ)のない道を()って歩いて行った。

 海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇っていた。その又砂山にはブランコのないブランコ台が一つ突っ立っていた。僕はこのブランコ台を眺め、忽ち絞首台を思い出した。実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまっていた、鴉は皆僕を見ても、飛び立つ気色(けしき)さえ示さなかった。のみならずまん中にとまっていた鴉は大きい(くちばし)を空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。

 僕は芝の枯れた砂土手に沿い、別荘の多い小みちを曲ることにした。この小みちの右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒白じらと立っている筈だった。(僕の親友はこの家のことを「春のいる家」と称していた)が、この家の前へ通りかかると、そこにはコンクリイトの土台の上にバス・タッブが一つあるだけだった。火事――僕はすぐにこう考え、そちらを見ないように歩いて行った。すると自転車に乗った男が一人まっすぐに向うから近づき出した。彼は焦茶いろの鳥打ち帽をかぶり、妙にじっと目を据えたまま、ハンドルの上へ身をかがめていた。僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小みちへはいることにした。しかしこの小みちのまん中にも腐った(もぐらもち)の死骸が一つ腹を上にして転がっていた。

 何ものかの僕を狙っていることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を(さえぎ)り出した。僕は(いよいよ)最後の時の近づいたことを恐れながら、(くび)すじをまっ直にして歩いて行った。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまわりはじめた。同時に又右の松林はひっそりと枝をかわしたまま、丁度細かい切子硝子(きりこガラス)を透かして見るようになりはじめた。僕は動悸(どうき)の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。……

 三十分ばかりたった後、僕は僕の二階に仰向けになり、じっと目をつぶったまま、烈しい頭痛をこらえていた。すると僕の《まぶた》の裏に銀色の羽根を(うろこ)のように畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはっきりと映っているものだった。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちゃんと暗い中に映っていた。僕はふとこの間乗った自動車のラディエエタア・キャップにも翼のついていたことを思い出した。……

 そこへ誰か梯子段(はしごだん)(あわただ)しく昇って来たかと思うと、すぐに又ばたばた駈け下りて行った。僕はその誰かの妻だったことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突っ伏したまま、息切れをこらえていると見え、絶えず肩を震わしていた。

「どうした?」

「いえ、どうもしないのです。……」

 妻はやっと顔を(もた)げ、無理に微笑して話しつづけた。

「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」

 それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だった。――僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?

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