6話 海底都市(6)
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カビ博士の顔の下半分は黒い毛でうずもれている。その毛むくじゃらの草原のまん中が、ぽっかりあくと、赤いものが髭越しに見える。それは博士の口の中の色である。この赤いきんちゃくのような口は、ひろがったりすぼまったりして、よく動く。そして髭の中から博士のがらがら声がとび出して来るのである。
博士は、僕との対談のうちに、安全剃刀の柄をくわえた――と見えたが、それから煙が出てくるところを見ると、それは安全剃刀ではなくて、どうやら煙草のパイプの類らしいことが分った。
普通のパイプは、煙草をつめる火皿、すなわち雁首が一つである。ところがカビ博士が口にくわえるパイプには、五つの雁首が並んでいるのだった。そしてそれに一々火をつけるわけでもないのに、雁首から煙がゆらゆらとあがった。
その煙のあがり方が愉快だ。五本の雁首から五本の煙があがって、煙突だらけの工場そっくりになるかと思うと、次の雁首の一つだけが煙がゆらゆら立ちのぼる。そうかと思うと、こんどは三本から立ちのぼる。それを見ていると、まるで煙の音楽会というか、煙の舞踊会というか、たしかに或るリズムに乗って煙がふきだしてくるのであった。
もちろん、その合間合間には、博士の髭だらけの中から、別にもうもうたる煙がふき出てくる。
「先生は、煙草がお好きと見えますね」
僕は、素直に感想をのべた。
「うん。わしは連日、脳細胞を使い過ぎるので、どうしてもこれをやらないと、早く疲労がとれないのじゃ」
「ずいぶん変わった形のパイプですね。そんなパイプが海底都市では、はやるのですか」
「はやるというわけではない。これはわしの考案したものでな、ほかにはない特殊のものじゃ」
「煙の出るところが五つもありますね」
「そうだ。五種類の薬品をつめこんであるのだ。それを適当に蒸発せしめて、或る特殊のリズムで脳神経に刺戟をあたえる。このリズムを決定することがむずかしい」
「なるほど。僕もそのリズムの利用には気がついていましたよ。面白い療法ですね。どんな味がするか、僕にもちょっと吸わせてください」
「いや、いけない!」
博士は目をくるくるさせてパイプをポケットに隠した。
「君なんかが吸うと、とんでもないことになる。絶対にいけない」
博士の狼狽ぶりを、僕は意外に感じた。
「君に警告しておくが、君は実在の人間ではなく、イマジナリーの人間なんだ。それを忘れないようにしなければならんね。つまり何でもわれわれと同じには、やれないってことを、よく頭にいれておいてもらいたい」
イマジナリーの人間! それはそうだ。僕は二十年後の世界へ先走りをして生活をしているのだから。
「君は何も知らないが、君の実在する世の中からその後二十年経つ間に、文明はあらゆる方面において驚異的な発展進歩をとげた。人でも人体改良には、非常な努力が払われ、そして改造進化が行われ、今日の高等人間を生むに至ったものである」
「高等人間ですって。人体改造ですって」
「人体の進化を自然にのみまかせていたのは昔のことさ。なんという知恵のない話じゃないか。さればこそ昔の人間はやたらに病気にかかって悩み、そして衰弱し生命を縮めた。そればかりか人智のレベルは、さっぱり向上しなかった。なぜ昔の人間は、そこに気がつかなかったんだろう。人為的に人体改造進化を行う事によって病気と絶縁する。それから人智を高度にあげる。こんな思いつきは赤ん坊にでも出来ることじゃないか。もちろん今の赤ん坊のことだがね。とにかく昔の人間は実に哀れなものだった。眼前の実在のみに注意力や情熱を集中して、遙かなる未来世界について夢を持つことをしらず、従ってその夢から素晴らしい現実の発展が起こることにも想到しなかった。ああ哀れなりし人類よ……」
カビ博士は、日頃のとつ弁とはうってかわって雄弁に論旨をすすめていた。しかし僕は白状するが、博士の熱弁を聞くのは、もうそのくらいで沢山だと思った。
「先生。すると、そういう意味において、自然進化にまかせて来た僕の身体は、この海底都市の研究家たちにとって絶好の標本だというわけですね」
「そうだ。全く貴重なる標本だといわんければならん」
「じゃあ、僕は大いばりで、ここに滞在することが許されるのですね。いや、国賓待遇を受けてもいいじゃないですか」
僕は朗らかな気持ちになって叫んだ。
暗い問題とは
「君を国賓待遇にするなんて、とんでもないことだ。政府に見つかれば、もちろん君は海底冷蔵庫の壁になるしかないんだ」
カビ博士は僕のことばをひっくりかえして、いつか僕が聞かされたと同じ警告をあびせかける。
「だって僕は、貴重な標本なんでしょう」
「そうさ。君は網の目をのがれている所謂ヤミ物品だから値が高いんだ。しかしどう釈明しても君は合法的存在じゃない」
ああ、ヤミというやつにはずいぶん悩まされた僕であるが、この海底都市へ来てまでヤミ扱いされるとは、なんという情けないことだろう。
「学問のための貴重な標本なりということを、政府の役人どもは了解しないのですか」
「そこじゃ、実に困った対立、いや暗い問題があるんだ、この海底都市にはね」
「へえッ、こんな理想境にも暗い問題なんかがあるんですかね。それは一体どんな問題なんですか」
僕は非常に意外に感じたので、強く問いただした。
博士はすぐには返事をせず、例の五頭のパイプを髭の野原の中に押しこんで、やけに煙をふかしていたが、やがてやっとパイプを口から取ってつぶやくように低いことばをはき出した。
「それは言えない。わしの口から言えない。君のようなエトランジェ(異境人)には言えない」
博士は、そのことばが終るとともに立上って、両の肩をぶるぶるとふるわせた。
僕の好奇心は火柱のようにもえあがったけれど、博士の沈痛な姿を見ると、重ねて問うは気の毒になり、まあまあと自分の心をおさえつけた。
しかし一体なんであろうか。この完全文明理想境を脅かすところの、暗い問題とは。暗い問題があるということすら、僕には不審でならないのだが……。
僕はそれから間もなく、博士に別れた。
別れる前にカビ博士は、僕の合法的滞留を政府に対してあらゆる手段によって請願することを誓ってくれた。
タクマ少年が待っていてくれたので、僕は少年と連れだって考古学教室を出た。
「どうです。疲れましたか」
少年は僕にきいてくれた。
「疲れはしないけれど、標本になって閉じこめられていたので、気が詰まったよ。なんか気持ちがからりとすることはないだろうかね」
「ありますよ、いくらでも、本当はお客さんは、これから食事をしてそれから睡眠をとるといいんですが、その前に、喜歌劇見物でもしましょうか」
「喜歌劇だって、それはいい。ぜひそこへ案内してくれたまえ」
僕とタクマ少年は、動く道路を利用し、第十八歓楽街のクラゲ座へ行った。
入場してみて、僕はやっぱりおどろかされた。すばらしい劇場だといって、僕がこれまで知っている、座席のきちんと並んだ大劇場を拡大したすばらしさとは違う。
場内は、森かげの草原のようであった。そこに掛け心地のいい椅子が、勝手に放りだしてあるんだ。客はそれを好きなところへ移して座をきめればいい。卓子を持って来れば、軽い飲物や喫煙に都合がいい。
舞台は明るく、近くなく、遠くない距離にある。いい音楽。すてきな俳優たち。出しものは三つ。第一が「タンポポはどこへ飛んで行きたいか」第二は「火星人の引越しさわぎ」そして第三は「クレオパトラの蒸留」と、番組に出ていた。今、舞台は「火星人の引越しさわぎ」が演ぜられていて、陽気な笑いが続いていた。
客席は、朧月夜の森かげほどの弱い照明がしのびこんで来る程度であるから、隣の席の客がどんな顔をしているのか分りかねた。
その客たちは、熱心に舞台を見ているわけではなく、盛んにコップの音をさせたり、ぺちゃくちゃしゃべったり屁をひったりするのであった。僕には勝手のちがうこと、いや呆れることばかりであった。
それでも僕は、タクマ少年と並んでおとなしく見物を続けた。そのうちに睡くなって、とろとろんとしていると、かん高い女の声が耳にとびこんだので、はっと目ざめた。隣の席で、なにか言い合っているのだった。
「――いいえ違うわ、わたくしは、改造以前の人間といえども、海に棲息し得る特質を具備していると思うの。それは、あの人類は、海から陸へあがってから八千万年を経ているでしょうが、それでも尚且つ人類は、その発生の故郷である海中生活に耐える器官や本能を残して持っていると断定しますわ」
「それは一種の感傷主義だ。もはや人類は、そういう能力を全然失っている。海中生活に耐える器官は痕跡程度残っているかもしらんが、海中棲息の本能なんど有るもんですか」
反対するのは男の声だ。この男女二人の声に、僕はいささか聞きおぼえがあった。
平衡器官
クラゲ座の中の、僕の座席のうしろで、喜歌劇見物はそっちのけにして、しきりに人類学について論じ合っている若い男女の声。それは、昼間、考古学教室で見かけた熱心な学生のダリア嬢とトビ君の声にちがいなかった。
両人は、僕がすぐ前に腰を下ろしていることも気がつかないほど、夢中になって論争を発展させていた。
「いや、そういう君の論は、甚だしく定量性を欠いている。退化が或る限度に及ぶと、もう器官は全然用をなさないのだ。だからそういう器官が始めから存在しなかったと考えていいのだ。例えば、われわれに尾骨があるからといって未だ一度も尻尾を振ってみたい欲望を催したことはないですぞ、ダリア君」
「それは暴論というものですわ。尾骨のことと内耳迷路の平衡器官のこととは一しょに論じられませんわ。尾骨の方は、今は全然動かないのですよ。尻尾なんか人間にはぶら下っていませんし、ね。動かなきゃ尻尾なんか意味ないです。そこへいくと、平衡器官の方は現在もちろん働いている。人類が大むかし海中に棲んでいたときと同様に、彼の平衡器官は、今もちゃんと機能をもって役立っているんですからね」
「ちがうよ、ダリア君。それは平衡器官といえば平衡器官にちがいないけれど、今は海の中で棲んでいるわけじゃない。空気の中に於ける陸上生活ばかりなんだ。人類の祖先が海から陸上へあがってからこっち何十万年はたっているが、その長い間の陸上生活に、かの平衡器官は退化してしまって、海中生活用の平衡器としてはもう役に立たなくなっているんだ。そこを考えなくちゃね。美しいお嬢さん」
「まあ。まあまあまあ。ディスカッションに勝った、と思って、あたくしをからかうんですね」
「からかいやしません。美しいから美しいといった、までです。急にあなたを美しいと感じたもんですから素直にいっただけです。それにもうあの方は論じつくした感がありますから、ここらでよしましょう」
「ごま化していらっしゃるのね。トビ君、あなたこそもう論ずべき種がつきてしまったんでしょう。きっと、そうよ。ところがあたくしの方は、これから本格的な実証に移るのですわ。実験証明ほど、たしかなものはありませんわ。そしてあたくしは、何人をも納得させます。あたくしの論文は、そのときになって、だんぜん光を放つでしょう。ああ、そのときのことを今から予想しただけで胸が高鳴りますわ」
「うわッ、とんでもない。考古人類学は、詩ではないです。あなたみたいに、夢に感激ばかりしていたんでは、自然科学の正しい解決はつきませんよ」
「ああ、なんとでもおっしゃい。あたくしには、ちゃんと自信満々たる研究企画があるんですわ。まことにお気の毒さま、タングステン鋼あたまのトビ、トビタロ君」
両人の仲が険悪になって来たので、僕は見るに見かねて座席を立つと両学生の間へ顔をつき出した。
「たいへん御両所とも討論にご熱心のようですが、ひとつ僕も中に入れていただいて、乾杯といきましょう」
僕は給仕を呼んで酒を注文した。
ダリア嬢とトビ君とは、僕が顔を出すと、顔を見合わせて、すっかり黙りこんでしまった。そして給仕が酒を持って来ると、両人は席からはじかれるように立った。僕が声をかけるのも聞かずに、両人はどんどん帰ってしまった。
僕は、あとにいやな気持ちでとりのこされた。
なにかが両人の気持ちを悪くしたにちがいない。しかしそれがなんであるかについては、僕にはさっぱり心あたりがなかった。
同伴していたタクマ少年は、分かりませんと答えた。
なんだか気持ちが悪い。
劇場がはねると、僕はタクマ少年に送られてホテルに帰った。
僕は部屋にひとりとなった。やがて僕はベッドの上に横になった。
すぐには寝つかれなかった。昼間からの、あまりにも多いいろいろの刺戟的な出来ごとを、それからそれへと思い続けていくと、ますます眼がさえて来た。
それにしても、辻ヶ谷君が僕を時間器械でよびもどしてくれないことが不審でもあり、またありがたかった。たしかに二十年後の世界を約一時間散歩してくるという申し合わせで、僕はこっちへ来たわけだ。彼は何をしているのだろう。辻ヶ谷君も一しょに来ればよかったと思う。……
急に睡くなった。
それがあたり前の睡さでないことに僕はすぐ気がついた。どうしたんだろうと、いぶかしく思っているうちに、僕は知覚がなくなった。
ふしぎな場所
猛烈に睡い。
しかし僕はそのとき自分の知覚をすこしずつ取戻しつつあったのだ。
(誰か僕に麻薬を嗅がしたんだな。そして眼がさめてみりゃ僕は意外な場所に横たわっているという寸法だろう)
それは果して麻薬であったか、それとも脳麻痺力のある電波であったか、そのところは、はっきりしないが、何者かのたくらみによって僕がホテルの一室から他の場所へ誘拐されたことはたしかだった。
僕は徐々に眼ざめつつあった。
かたいコンクリートの床の間に自分が横たわっていることに気がついた。果して誘拐されたんだ。それにしても、冷たいコンクリートの上に寝かされているとは、なんという相手の無礼だろう。いや、強盗のたぐいに、無礼もへちまもないだろう。なんだって、その強盗は僕をこんなところへ……。
「おや、僕はすっ裸になっているぞ」
いつの間にか僕の寝巻ははぎとられていた。まっ裸だ。これにはおどろき、かつあきれてしまい、その場に座り直した。そしてあたりをぐるぐると見まわした。
へんな場所であった。
お伽噺の中では、王城の奥のすばらしい美室へ誘拐されることもあるが、それは特別の場合で、誘拐されるとなると、多くの場合はあやしき場所へ連れこまれるのが普通であった。正に僕はあやしき場所へ連れこまれている。床はつめたいコンクリート。四方の壁はどんな材料で作ってあるのか、墨のようにまっ黒である。天井は――天井はすこぶる高い。五十メートル位はある。そして上に向いたときに発見したのであるが、四方の壁は十メートル位しかない。十メートルの壁が、立ちっ放しである。天井がそこにあっていいはずと思うが、そこは天井がなくてそれより四十メートルも高いところに天井がある。要するに、蓋のない箱みたいなものの中に、僕が入っているんだ。
上には、放電灯が明るく輝いていて、僕を照明している。寒くはないが、はずかしかった。
と、そのとき床の上を、どこからともなく水が流れて来た。僕は身体をぬらすまいとして、ふらふらする足取りで、その場に立ち上がった。
が、水はいつの間にか嵩を増し僕の足の甲を水が浸した。
それから先は、そんななまぬるいことではなかった。水嵩はみるみるうちに増大して、水位は刻々あがって来た。床の四隅から水は噴出すものと見え、その四隅のところは水柱が立って、白い泡の交った波がごぼんごぼんと鳴っていた。
ひざ頭を水は越えた。間もなくお臍も水中にかくれた。しかも増水のいきおいはおとろえを見せず水位はぐんぐんあがってくる。
(水槽らしいが、僕をどうしようというんだろう。水浴をさせるつもりでもあるまいに……)
水は僕の乳の線を越え、やがて肩を越した。僕は今にも溺れそうになった。爪先立ちをして僕は背のびをした。
(水責めにして、僕を溺死させるつもりか。一体何奴だ。こんなに僕を苦しめる奴は?)
もういけない。爪先で立っていても、水が鼻孔に入って来る。仕方がないから僕はもう立っていることを諦めて平泳ぎをはじめた。
水は塩っからかった。
(なるほど、海水だな)
平泳ぎから立泳ぎになったり、また平泳ぎにかえったり、僕は二十分間ぐらい泳いだ。相手は僕を泳ぎ疲れさせて殺すつもりかもしれない。しかし僕は、水に浮いていることなら十八時間がんばった記録をもっている。だからちっとも恐れなかった。
ただ一刻も早く、この憎むべき陰謀の主を見つけだして、きめつけてやりたい。
相手は、どこからか僕の様子を監視しているのに違いない。そう思ったから、僕はますます落着きはらっているところを見せるために、泳ぎながら佐渡おけさを歌ったり、草津節を呻ったりした。
「だめね、これでは。水の中へ潜らなくちゃ実験になりゃしないわ」
壁の向うと思うが、かすかではあるが、そんな風にしゃべる女の声を聞いた。
あれッと、僕が緊張する折ふし、水槽の横手の方から、ぎりぎりと硝子の板が出て来て、僕の頭の上を通りすぎていった。
「やっ、硝子天井だ」
とつぜん出現した硝子天井は、僕を完全に水中におし下げた。
こうなると、鉢の中に入れられた金魚か亀の子同然だ。金魚や亀の子なら、水中ですまして生きていられる。しかし僕は人間だ。空気を吸わねば生きていられない。これはいよいよ溺死の巻か。
僕はなぜ溺死させられるのか。
迫る硝子天井
水槽の中の水かさはいよいよ増した。
僕は泳ぎ続けていた。
頭が硝子天井につかえるまでに水かさは増した。まっすぐに顔を向けて泳ぐことは、もう出来ない。鼻の孔も口も、共に水中に没してしまうからだ。仕方なく僕は平泳ぎをしながら、顔だけは横に寝かして、辛うじて息をつくことが出来た。
(一体何者か。僕をこんなに苦しめる奴は。まさか僕を殺すつもりじゃないだろうと思うが、ひどい目にあわすじゃないか)
僕は、一生けんめい水をかきながら、姿の見えないこの暴行の主を恨んだ。
ところが、水かさは更にずんずん増して来るではないか。硝子天井は、容赦なく僕の頭をおさえつける。僕はさっきから無理な姿勢をとり首を横にまげて泳いでいるので、頸の筋がひきつって痛くてたまらない。そのうちに鼻の孔も口も、水に洗われるようになった。いよいよ水が天井につきそうなのである。僕は、したたか水を呑んでしまった、水なんか決して呑みたくないのに。
今や僕は溺死の一歩手前にあった。顔を上に向けた。硝子天井に接吻するような恰好である。そして立ち泳ぎだ。頸をうしろに無理に曲げているので、痛いやら苦しいやらで生きている心持もない。「助けてくれ」と叫びたいのだがそんな声も出ない。そんな声を出して叫ぼうものなら、たちまち身は水中に沈んで、溺死をせねばならぬ。
苦しい立泳ぎが、一層苦しくなる。浮力がなくなり、いくたびとなく、ずぶりずぶりと水中にもぐる。これ以上水を呑まないようにと息をつめるものだから、再び水面へ浮かびあがるまでの息苦しさったらない。ああ、何だって僕をこんなに苦しめるのか。
もう欲もなんにもいらないと思った。助けてくれぃだ。もう二十年後の世界に逗留する欲もなんにもなくなった。おお辻ヶ谷君よ。早く僕を時間器械の力でもって、元の焼跡の世界へもどしてくれたまえ。ぐずぐずしていると、僕はここで土佐衛門になってしまうであろう。
またずぶずぶともぐりこんで、そこで手足をだらんとして浮力が勝って身体の浮きあがるのを千秋のおもいで待った。ようやく浮き身がついて、身体がすううっとよっていった。僕は例のとおり頸を曲げ、唇を一番高い位置へつきだして、水面へ唇が一刻も早く出ることを願った。ところが唇は水面へ出るかわりに、冷たい硝子天井に触れた。
いつの間にか、水面と硝子天井とがくっついてしまったのである。水面と硝子天井との間に残っていたわずかの空気層がなくなってしまったのである。水はついに硝子天井についたのである。ああもう吸うべき空気がなくなった。
(本当か。僕をここで溺死させるつもりか。なんという憎むべき悪魔!)
僕はもうやぶれかぶれだった。
拳をかためて、硝子天井をどんどんつきあげた。頭を天井にぶつけてみた。硝子天井は厚い。そんなことでは破れそうもない。僕はついに身体をさかさまにして、両脚に全身の力をこめて、硝子天井を蹴った。
ああ、それも無駄に終った。足の骨が折れそうになり、激痛が全身を稲妻のように突き刺しただけであった。
(もう駄目か。息が出来なければ僕は死んでしまう)
僕はもう気が変になりそうだ。どこかに空気のもれて来る穴がないものかと、僕は水槽の中を魚のようにもぐって、あっちの壁やこっちの底を探りまわった。だが、すべては無駄であった。
無駄と知りつつ、それでも僕は水中を、あざらしのようにはねまわった。
やがて僕は、続けざまに水をがぶかぶ呑んでいた。呼吸は苦しさを通り越して、奇妙に楽になった。胃の腑の方が苦しくなった。僕はもっと泳ぎまわり潜り続けて空気を見つけなければならないと思いながらも、僕の身体はだらんとしていた。水の層を通してあいている両眼に、うす青いあかりが入って来るのが、夢の国にいるような感じだった。
僕の知覚はだんだん麻痺して来たんだ。
わが耳に、遠くで人がいい争っている声が聞こえる。本当に聞こえるんだか、幻想なんだか、どっちとも分らない。それは男と女との口論のようでもある。声高く笑っている。そうかと思うと、くやしそうに泣いているようでもある。
(僕はもう死ぬんだな)
僕はそう悟った。死にたくない。しかしどうにもならない。ああ神さま!
それからどのくらいの時間が経ったか、僕は覚えていない。とにかくぼんやりと気のついたとき、僕はしきりに口から水を吐いていた。いや、正確にいえば水を吐かされていたのだが……。
遠大なる実験案