12話 花吹雪
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恩田は何事かに手間取っていたために、暗闇のあいだに舞台から客席へと、まぎれ込む計画に失敗し、意外に早く点ぜられた照明の中で、ハッと立ち往生してしまったのだ。彼はその醜い野獣の姿を、はれがましくも、衆人環視の中にさらさなければならなかったのだ。
しかも眼の前には、彼を指さし、彼の正体をあばき立て、彼の旧悪をどなり散らしながら、駈け寄ってくる仮面の人物がある。
人間豹はみじめにも狼狽しながら、罠にかかった野獣のように、舞台の上を右に左に走りまわった。引き返すこともできない。進むこともできない。舞台裏には係りの若い者が通せんぼうをしてがんばっている。前には見物の人の山だ。
横に逃げられないときまれば、縦に逃げるほかはない。彼はついに豹の本性を現わして、舞台の額縁の柱の裏がわを、すさまじい勢いで、掻き登りはじめた。
人間業ではない。別に足場とてもない漆喰いの円柱だ。それを彼は一匹の猫のすばやさで、みるみる天井へと姿を消してしまった。
舞台の上方、一文字幕の蔭には、蜘蛛手になって、あらゆるからくり仕掛けが張りめぐらしてある。浅黄幕の太い竹竿、照明の電球を取りつけた棚、本雨の水道管、紙の雪を降らせる籠。
人間豹はそれらの棚や竹竿を伝わって、舞台中央の天井まで逃げおおせることができた。彼はそこの照明棚にうずくまると、古いお芝居の化け猫そっくりの形相で、爪を磨ぎ、牙をむき、燐光の燃える両眼をらんらんとかがやかせて、遥か眼下に群がる人々の気勢をうかがうのであった。
「誰か、あいつを捕えてください。あいつはきっともう蘭子を殺してしまったのです。殺人鬼です」
神谷が舞台に飛びあがって、悲痛な声で叫ぶ。
場内にいあわせた二人の警官が駈けつけてきたけれど、おまわりさんとて、木登りはおぼつかない。
「おい、誰かあそこへ登る者はないか」
道具方の兄いの中から、腕っぷしの強そうな、敏捷な若者が躍り出した。
「あっしが行きましょう。向こうの梯子から登りゃわけはねえんです。行ってあいつを引きずりおろしちまいましょう」
彼は人々をかき分けて、梯子のところへ飛んでいった。さすがに慣れたものであった。彼は人間豹にも劣らぬすばやさで、垂直の梯子を駈けのぼると、天井の細い棚をヒョイヒョイと伝いながら、みるみる恩田の方へ近づいていった。
客席からは、一文字幕が邪魔をして、この絶好の活劇を見ることはできなかったけれど、その幕が嵐のようにすさまじく揺れはためくのを見ると、そこに起こっている闘争の烈しさが、まざまざと想像された。
天井で雪紙の籠が揺れるたびに、舞台には時ならぬ五色の雪が、ふんぷんとして降りしきった。立ち並ぶ夾竹桃の造花の上に、逃げまどう花売娘たちの上に、舞台に押し上がった見物の仮面の上に、警官の帽子や肩章の上に、美しい五色の雪が降りしきった。
雪ばかりではない。レビューの最終場面に用意してあった金と銀との幅広いテープがキラキラと輝きながら、一本、二本、三本、ほどけて天井から垂れ下がってくるかと見る間に、たちまち、篠つく雨の烈しさで、数十本、数百本の金銀の帯が、へんぽんとして舞台目がけてふりくだった。
背景も、舞台上を右往左往する人々も、覆い尽すかと思われる金銀の雨、五色の雪、その目もあやにきらびやかな舞台の天井には、花を降らせる大格闘が、猛獣の咆哮を伴奏に、いつ果てるともなくつづけられた。
舞台には、降りしきる雪紙が、いつかうず高くつもっていた。ふと気がつくと、その雪の上に、雨滴のようにポトリポトリと、したたっているものがあった。まっ赤な雨であった。したたるたびに、雪紙はみるみる血の色ににじんで行く。
「アッ、やられたっ。血だ、血だ」
人々は愕然として叫び出した。
天井では、豹の爪が、勇敢な道具方の若者を傷つけていた。その傷口から吹き出す血潮が赤い雨となって、雪紙を染めたのだ。
若者はもう死にもの狂いであった。このままじっとしていたら、絞め殺されるばかりだ。どうせ死ぬ命なら、この怪物を道連れに、一か八か、命がけの冒険をやってみようと決心した。
彼は、息も絶え絶えに喉を締めつけられながら、無我夢中に相手のからだにしがみつくと一緒に、今まで棚にかけていた両足を、パッと宙に浮かせた。
さすがの怪物も、この捨て身の不意打ちに抗する力はなかった。なんとも形容のできない悲痛な咆哮が天井にこだましたかと思うと、組み合った二人のからだは、降りしきる雪紙の中を、巴に回転しながら、舞台の上に墜落した。
だが、野獣は生来身軽である。烈しい物音を立てて墜落したかと思うと、アッと驚く人々の前に、彼はたちまち立ち上がっていた。見れば、いつの間につけたのか、彼の醜い顔は、例の笑いの仮面に蔽われている。
一方、殊勲の若者は、不幸にも、けだものの身軽さには敵しがたく、相手の下敷きとなって、グッタリと横たわったまま、身動きさえしなかった。その死骸のようなからだの、毒々しく血潮に染まった胸のあたりを、みるみる雪紙が埋めて行く。
「それっ、逃がすなっ」
舞台の人々は、立ちあがった恩田を目がけて、一とかたまりになって突き進んだ。
名状しがたき混乱、倒れた一人の上に、十重はたえに折りかさなった人の山、その過半数は例のセルロイド面をつけたままだ。笑いの面の蹴球戦だ。
「さあ、抑えたぞ。こいつだ。こいつだ。警官、こいつを縛ってください」
叫び声に、人の山がくずれた。
見ると、そこに、五色の雪紙にまみれて、一人の仮面の男が、もう一人の仮面の男を組み敷いていた。
組み敷いたのは神谷芳雄だ。組み敷かれているのは人間豹に違いない。だが、人間豹にしてはなんと弱々しい姿であろう。さすがの彼も、さいぜんからの格闘に疲れ果てて、非力の神谷青年に名を成さしめたのであろうか。
「仮面を! 早く仮面を取ってください」
両手のふさがった神谷が、かたわらの人に呼びかける。
「よし、おれが取ってやろう」
一人の若者が、下敷きになってもがいている男の顔に飛びついて、笑いの仮面をはぎ取った。
「アッ……」
たちまち起こる驚愕の叫び。
「人違いだ。これは恩田じゃない」
神谷青年は、飛び起きて、キョロキョロとあたりを見まわした。
道具方やコーラス・ガールを除いては、どれもこれも、仮面の人々だ。それらの仮面が、本人たちの意志に反して、さも神谷の失敗を嘲けるかのように、ニヤニヤと笑っている。
「皆さん、仮面を取ってください。犯人はあなたがたの中に混っているのだ。早く、仮面を取ってください」
神谷の叫び声に、人々は急いで顔に手をやった。仮面さえはずしてしまえば、もうしめたものだ。人間豹は、この舞台の群集の中に混っているのは間違いのないことなのだから。
だが、ああ、その時、今一瞬にして怪人を発見捕縛するばかりとなったそのとき、たちまちにして、場内は、またしてもまっ暗闇となってしまった。配電室に潜んでいた恩田の味方が、危機一髪の瀬戸ぎわに、彼を救ったのである。