13話 舞台裏の怪異
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「みなさん、仮面を取ってください。曲者は見物席の中へまぎれ込んだかもしれません」
劇場の係り員が、大声でどなった。何千という見物たちの型にはめたような一様の笑い顔が、たちまち消えて行った。そして、取り去られたお面の下から、老幼男女、美醜さまざまの生地の顔が、さらけ出された。
人々はお互いに隣席の人物を、疑い深く眺め合った。あのとりすました顔をしている男が、もしや人間豹なのではあるまいか。こちらにニヤニヤ笑っているやつもなんだか怪しいぞ。誰も彼も、自分のすぐ間近に恐ろしい殺人鬼が潜んでいるように感じた。
劇場全体を、死の静寂が占領した。人々は、今にもワーッと叫んで、逃げ出したい気持で一杯になりながら、しかし逃げ出す気力さえもなく、棒立ちになったまま身動きもしないでいた。そして、幾千という眼が、ただ眼だけが、極度の恐怖に脅えながら、ジロジロと見かわされていた。
だが、客席にも、舞台にも、舞台裏にも、あの特徴のある恩田の顔は、まったく見出すことができなかった。
やがて近くの警視庁から駈けつけた十数名の警官が、劇場係り員の協力を得て、楽屋から舞台裏、天井から奈落の隅々まで捜索したけれど、ついに獣人の姿を発見することはできなかった。恩田ばかりではない。被害者の江川蘭子も、いつの間にどこから運び出されてしまったのか、影さえも見えなかった。
レビューは開演なかばにして中止するほかはなかった。満員の見物たちは、木戸木戸に立ち並んだ警官に、不愉快な首実検をされて不平たらたら帰り去った。
見物が一人もいなくなると、再び入念な捜索が繰り返されたが、やっぱりなんの得るところもなかった。どの出入口から逃げ去ったという見当さえ、まったくつかなかった。
一時間以上のむだな努力の後、警官たちは一と先ず引き上げて行った。レビュー・ガールや劇場係り員たちも許されて帰宅した。あとには、墓場のように淋しくなった建物の中に、たった七人の宿直員が心細く居残っているばかりであった。
こういう事のあったあとだからというので、鳶の者や力自慢の道具方など、選りすぐった七人の者が、寝ずの番を仰せつかったのだ。
彼らは楽屋口に近い、畳敷きの部屋に一とかたまりになって、徳利からじかの冷酒を呷りながら、無駄口を叩いていた。
「おいらあ、どうも、あいつがまだ、この小屋ん中のどっかの隅っこに、隠れているような気がしてしようがねえんだがね」
「よせやい。おどかしっこなしだぜ。あれほど探していなかったんだもの、今頃まで隠れているはずはないよ。ねえ君」
すると三番目の男が首をかしげながら、
「ウン、だが、どうとも言えないね。なにしろ芝居の舞台裏や奈落ときちゃ、ごみ溜めみてえなもんだからね。隠れようと思えば人間一人、どこへだって隠れられるからね」
また別の一人が、
「もし隠れているとすりゃ、奈落だぜ。ほら、あん時、みんなしてやつを抑えつけたと思ったら、もうどっかへいなくなっていたね。変じゃねえか。いくらすばやいったって、あんなに早く逃げ出せるわけがねえ。やつは、あん時、せり出しの穴へ飛び込んだのに違いないぜ。やっこさん、今ごろ、この縁の下あたりでモゾモゾしてるんじゃねえかな」
議論は容易に尽きなかったが、話せば話すほど、七人の者はだんだん、人間豹がまだこの劇場内に潜んでいるという考えに、支配されて行った。
ほかのどんな建物より、空っぽになった劇場ほど、異様に物淋しいものはない。見物席の何千という椅子に、たった一人も人間が坐っていない有様を考えただけでも、何かしらゾッとする感じであった。まして深夜、あんな怪事の起こったあと、死に絶えたような大建築物の中に、生きているものといっては、たった七人……と思うと、さすが力自慢の兄いたちも、決してよい気持はしなかった。
「それはそうと、君、あいつがまだ小屋の中にいるとすると、蘭子はどうしたんだろう」
「むろん、一緒にいるだろうじゃねえか」
「生きてかい?」
誰も答えるものはなかった。人々はギョッとしたようにだまり込んで、不安な眼を見かわすばかりであった。
そうだ、けだものは、あの美しい女優を殺さなかったとは言えないのだ。どこかその辺の暗闇の中に、血みどろになった蘭子の死骸がころがっていないとは限らないのだ。
「アーアー、いやだいやだ。おい、みんな、そんな話は止しにしようじゃねえか」
誰かがやけに大きな声を出した。
「シッ……ちょっとだまって」
すると隅っこにいた一人が、突然恐怖に脅えた眼を光らせて、一同を制した。
「あれはなんだろう……ほら……君たちには聞こえないのかい……あの声」
思わず澄ます一同の耳に、どこか遠くの方から、かすかに、かすかに、女の悲鳴らしいものが聞こえてきた。
「おい、あの声、蘭子じゃねえか」
「ウン、そうらしい。どこだろう」
気早やの若者たちはもう立ち上がっていた。
「奈落のようだぜ」
「いや、舞台裏かもしれない」
「おい、みんな、行ってみよう」
人々はドカドカと廊下へ出て、草履をつっかけるのももどかしく、先を争うように走り出した。大部分は奈落へ降りていったが、二人だけ舞台裏に廻った者がある。若い道具方とその友だちの鳶の者だ。彼らは決して奈落の闇を恐れたのではなかった。さいぜんの悲鳴を舞台裏からきたものと信じていたのだ。
道具建てを取りかたづけた舞台の上は、原っぱのように広々としていた。高い天井から裸電燈が幾つか下がっている。開演中の照明とは違って、公園の常夜燈みたいに、薄暗くたよりない感じだ。
廻り舞台の大きな二重円形が、まる出しに見えている。その両側の道具置場には、幾筋かの細い通路を残して、書き割、さまざまの張り物、藪畳などが、ゴチャゴチャと詰め込んである。
両人は廻り舞台のまん中に立って、どこを探したものかと、しばらく躊躇していたが、すると、またしても異様な叫び声が聞こえてきた。
「アワワワワ」というようなかん高い声が、何かに蓋されているように、陰にこもって舞台の広い空洞にこだまするのだ。
「おい、やっぱりここだぜ」
「ウン、あっちの方から聞こえてきたようだね」
二人は足音を盗んで、それとおぼしき道具置場の細い通路へはいって行った。
藪畳をかきさがしたり、書き割を動かしてみたりして、抜け目なく眼をくばりながら、グルッと一巡したけれど、どこの隅にも人影らしいものもない。
「こいつあ、どうもキテレツだわい。確かに、この辺から聞こえてきたんだがなあ」
「だまって。相手に聞かれちゃいけねえ。しばらくここで待ってみようじゃねえか」
二人はささやきかわしながら、その細くて薄暗い通路にしゃがんだ。
彼らのうずくまったすぐ前には、藪畳が三枚ほど立てかけてあって、その奥に、或る日本舞踊の道具に使われる、張り物の大きなお釈迦さまの坐像が、大入道のようにボンヤリと見えていた。
「おや、今なんだかガサガサって音がしたじゃねえか」
「鼠だろう」
「鼠なもんか。どうやら、この辺が臭いぜ」
突然、彼らはハッと息を呑んで、眼と眼を見合わせた。ごく間近くから、「ウーン」という妙な唸り声がして、パタパタと何かを蹴りつける音が聞こえたからだ。
「オイ、見ろ、あの中が怪しいぜ」
「ウン、そうだ、用意はいいか」
「やっつけろ!」
二人の眼が、そういう意味を伝え合った。そして、呼吸が揃うと、彼らは立ち上がるや否や恐ろしい勢いで、そこにある張子の仏像へ飛びついていった。
軽い張子のお釈迦さまは、一と突きで横ざまに倒れてしまった。同時に、仏像の体内に隠れていたものが、眼の前に暴露された。
まっ黒な人影が、スックと立ち上がって、こちらを睨みつけたまま、逃げだそうともしない。その男の顔のあたりに、燐のように底光りのする二つの丸いものが、じっと動かなかった。豹の眼だ。果たして、そこには恩田が隠れていたのだ。
恩田の足元に、肌も露わになって花売娘が倒れていた。いうまでもなく、江川蘭子である。猛獣はその可憐な餌食とたった二人で、さいぜんからずっと、この仏像の体内に潜んでいたのに違いない。
道具方と鳶の者は、相手があまりに落ちつきはらっているので、無気味さに、手出しもできず立ちすくんでいた。
長いあいだ無言の睨み合いがつづいた。
「お前たち、二人っきりか」
異様に陰気な声が響いてきた。人間豹が物を言ったのだ。
「何をっ!」
鳶の者が、虚勢を張って、これも低い声で応じた。
「お前たち、おれの力を知らないのか」
薄闇の中に、牙のようなまっ白な歯が、浮き出して見えた。二つの燐光が油を注いだように、爛々と燃え立った。
怪人は、両手で空を掴むようにして、ジリジリと前へ進んできた。
「畜生っ、やっちまえ」
鳶の者は、やけくそにわめきながら、黒い影に組みついて行った。道具方もおくれてはいない、隙を見て怪物の足にからみついた。
「オーイ、早く来てくれえ、曲者をつかまえたぞお」
組みつきながら、二人は声々に、奈落の人たちの応援を求めた。