人間豹

17話 蘭子の女中奉公

2,849字 約6分 2019年10月21日 公開

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 蘭子の家を出て、細い通りを半丁ほど行くと、(にぎ)やかな電車通りがある。神谷と、熊井と、蘭子の三人は、その大通りの人道を肩を並べて歩いていた。

「蘭子さん、あんた田舎娘(いなかむすめ)になりませんか。いや、お手のもののメーク・アップでもって、ぽっと出の田舎娘に変装するんですよ。できるでしょう」

 熊井青年は実に突飛(とっぴ)なことを言い出した。

「そりゃできないこともないけれど、そうして、どうしようというの?」

 蘭子は毎日の送り迎えで、この豪傑(ごうけつ)青年とは仲よしになっていた。

「まったくお(あつら)え向きの話があるんです。実は僕の母がその本人から頼まれて、そういう田舎娘を探しているんですがね。なかなか思ったようなのがないのです。ちょっと風変りな奉公口なんですよ」

「まあ、あたしご奉公するの?」

「ええ、そうですよ。うまい考えでしょう。あんたがいま知り合いのところへ逃げたんじゃあ、結局、恩田に見つかってしまうにきまっていますよ。そこを裏をかいてですね、敵の思いも及ばない大飛躍をやるんです。田舎娘に化けて、まったく関係のない他人の家へ奉公しちゃうんです。ねえ、神谷さん、どうでしょうね、この考えは」

 神谷はハタと(ひざ)を打ちたいほどに感心した。いかにもレビュー劇場の事務員らしい、奇想天外、突飛(とっぴ)千万の考案であったが、それだけに、敵の眼をあざむくのには申し分がない。

「そいつは面白いね。なんぼなんでも、蘭子ちゃんが、女中奉公をしようとは気がつくまいからね……しかし、女中さんとなると、使い歩きをさせられるだろうが、そいつがちっと心配だね」

「いや、ところが、(へい)のそとへは一歩も出なくていいんです。その先方の家というのが、またひどく変っていましてね、ちょうどお(あつら)え向きなんですよ。家のまわりには高いコンクリート塀をめぐらし、その上にビール(びん)のかけらが針の山のように植えつけてあろうという実に厳重な構えで、主人は年がら年中()と間にとじこもったまま、一歩もそとへ出ないのです。その主人づきのまあ話し相手、小間使いといった役目なんですよ」

「まあ、妙なご主人ね。年寄りのかたなの?」

 蘭子も、この奇妙な話につり込まれて、だんだん乗り気になっていた。

「ところが若いのです。蘭子さんと同い年ぐらいでしょう。いや、ご心配には及びません。その主人というのは娘さんですよ。しかも片輪者なんです。顔に何か不具な箇所(かしょ)があるとかで、いつも黒い覆面(ふくめん)をかぶっていて、誰にも素顔を見せたことがないという、極端に内気なお嬢さんです。そんな生活をしているものだから、話し相手がほしいのですね。もっとも老人の執事(しつじ)かなんかが一緒にいるんだそうですが、老人ではお話し相手になりませんからね」

「お金持ちなんだね」

「そうですよ。ご存じかもしれませんが、高梨という高利貸の一人娘ですが、二、三年前に両親に死なれてしまって、今では一人ぼっちの可哀(かわい)そうな片輪者なんです。お嫁入りはおろか、人に顔を見られるのもいやだといって、そういう孤独な生活をしているんだそうです。今もいうように、お父さんの商売柄、泥棒の用心にかけては、実に厳重にできている家ですから、蘭子さんの隠れがには持ってこいですよ。いくら人間(ひょう)でも、あの大きな鉄の門を破ったり、針の山みたいな(へい)を乗り越すことはできないでしょうからね」

 なんというお(あつら)え向きな話であろう。この男、豪傑(ごうけつ)青年にも似合わない、うまい智恵を出したものだ。

「可哀そうだわね、なんだかそのお嬢さんとお話ししてみたいような気がするわ。ね、神谷さん、あたし思いきって、その高梨さんへ奉公しちゃいましょうか」

 蘭子は孤独な娘さんへの好奇心も手伝って、ますます乗り気である。

「僕もそいつは名案だと思うね。ちっとばかり突飛(とっぴ)だけれど、そのくらいのことをしなければ、あいつの眼を逃れるのはむずかしいかもしれない。恩田が捕えられるまでのあいだ、君はそこに隠れているか」

 神谷もこの奇妙な計画に一種の魅力を感じていた。

「そうなすっちゃどうです。あいつが捕まり次第、事情をうちあけて暇を取ってしまえばいいんだから。それと、お母さんが少し(さび)しいだろうけれど、親戚(しんせき)のかたにでもきてもらえばいいじゃありませんか。人間(ひょう)は何もお母さんをどうこうしようというわけではないんだから」

 熊井もしきりに勧めるので、結局思いきって、それを実行することに話がきまった。

「僕が送って行くといいんだけれど、それでは相手に悟られるおそれがある。神谷さんも、連れ立って行かない方がいいでしょう。心配だったら、それとなく監視する方法はいくらもあるんだから。僕が手紙を書きますよ。田舎(いなか)の知合いの娘さんだということにして。蘭子さんは変装をして、その手紙を持っていらっしゃればいいんです。先方が雇い入れることは間違いありません。僕の母の方からもその事をいわせておきますから」

 熊井が具体的の方法を授けた。

 そこで三人は一度家に帰って、蘭子のお母さんに、コッソリと相談の次第を耳打ちした。お母さんは最初は気が進まぬ様子であったが、こうでもしなければ怪獣の襲撃を逃れるすべはないと説かれて、不承不承(ふしょうぶしょう)承諾(しょうだく)をあたえた。信頼しきっている神谷青年の勧めをしりぞけかねたのだ。

 たちまち相談が一決すると、熊井は長い紹介状をしたためて蘭子に渡し、蘭子は着のみ着のままで、神谷にともなわれて家を出た。

 途中たびたび自動車を変えて、蘭子の親友のSというレビュー・ガールのアパートに立ち寄り、そのお友だちを古着屋へ走らせたりして、すっかり変装を終った。人気女優江川蘭子は忽然(こつぜん)としてこの世から消えうせ、そこの鏡台の前に立っているのは、安銘仙(やすめいせん)縞物(しまもの)にメリンスの帯をしめ、髪は櫛巻(くしまき)同然の田舎洋髪、薄黒い顔の両頬(りょうほお)がポッと赤らんだ上州あたりからぽっと出の、田舎田舎(いなかいなか)した、しかしなかなか愛くるしい娘さんであった。

「すてき、すてき、それじゃ誰が見たって、わかりゃしない。さすがにメーク・アップはお手のもんだね」

「まあ、可愛(かわい)いわねえ。神谷さん、蘭子さんのこういう姿も捨てたもんじゃないでしょう」

 神谷とSとが、冗談まじりに蘭子の変装を批評し合った。

「さあ、僕はここでお別れだよ。君は一人でこのアパートの裏口を出て、田舎者らしく、タクシーを値切るんだね。そして、幾つも車を替えて、できるだけ大廻(おおまわ)りをして、築地(つきじ)の高梨家へ行くんだ。田舎言葉がばれないようにね」

 神谷は蘭子を部屋の隅に呼んで、ソッとささやくのだ。

「あたし、なんだか心細いわ。大丈夫かしら」

「大丈夫だとも、僕は別の車で、先方の家の前まで、君について行くよ。そして、君が無事に奉公するのを見届けて帰るよ。それから、何か急な用事ができたら、僕のうちへ電話をかけるがいい。僕はすぐに飛んで行ってあげるよ」

 間もなくアパートを出たこの可愛らしい田舎娘は、神谷に言われた通り、自動車に乗ったり降りたりを、幾度もくり返して、築地の高梨邸に到着した。別の車に乗った神谷青年が、不思議な尾行をつづけたことはいうまでもない。

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