18話 覆面令嬢
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江川蘭子の田舎娘は、奉公先の高梨家の一丁ほど手前で車を捨てると、用意の小さな風呂敷包みを小脇に、チョコチョコ同家の門前に近づいて行った。
熊井青年が言った通り、その家はまるで城郭みたいな厳重きわまる構えであった。屋敷を取りかこんだ高いコンクリート塀には、ドキドキと鋭いガラスの破片が、ビッシリと植えつけてあるし、見上げるばかりの御影石の門柱には、定紋を浮彫りにした鉄板の門扉が、閉めきったままになっている。
いったいどこからはいればいいのかしらと、見まわすと、門のかたわらのコンクリート塀に、小さな出入口がついているのに気づいたが、そこにも銅板を張りつけた引き戸が、さも厳重に閉まっていて、手をかけてみてもいっかなあきはしない。
やっとのことで、小さな呼鈴のボタンを探し当て、思い切ってそれを押すと、しばらくして、庭に人の足音が聞こえ、扉にカタンと妙な音がした。
あけてくれるのかと思うと、そうではない。扉の上部に、小さな覗き穴が切ってあって、その蓋があいたのだ。三寸四方ほどの穴から、一つの眼が現われて、ジロジロとこちらを見ている。
「あの、わたし、吉崎はなというものですが、熊井さんから、この手紙を持って行けといわれましたので」
蘭子がせいぜい、田舎風なアクセントで実直らしくいうと、今度は覗き穴から、ニューッと老人らしい手が出て、その手紙を掴みとって行ったが、しばらくすると、中から案外やさしい声が聞こえてきた。
「よくわかりましたよ。お前、奉公しなさるのか。吉崎さんだね。よろしい、よろしい、さあこちらへおはいりなさい」
そして、引戸がガラガラとあいて、その向こう側に白髪白髯の老人が、ニコニコ笑いながら立っていた。話に聞いた高梨家の執事なのであろう。
老人のあとから、玉砂利を敷きつめた門内の道を歩いて、玄関にはいると、薄暗い廊下を幾曲がりして、奥まった洋室へ案内された。広い家の中は、老人のほかには誰もいないのかと思われるほど、ヒッソリと静まり返っていた。
「手紙で大体のことはわかったが、うちはお百姓なんだね。そして、お前さんは女学校を三年までやって中途退学した、というのだね。よろしい、よろしい。申し分なしじゃ。だがね、ここのご主人は、お前さんも聞いているだろうが、若いお嬢さんでね、少し気むずかしいご病人なのじゃ。今、お目見得をさせるからね、そのお嬢さんのお気にさえ入れば、お前さんはきょうからでも、高い給金で奉公ができるのだよ」
老人は長い廊下の道々、蘭子の吉崎はなに、丁寧に言い聞かせた。彼は無地の紬の着物に、同じ品の黒い羽織を着て、腰に両手をまわし、背中を丸くして歩いている。
「さあ、ここじゃ。お嬢さんは寝台の上に横になっておいでなさるのだが、そのお顔を見ようとしてはいけないよ。もっとも黒い頭巾をかぶっていらっしゃるから、見ようとしても見えやしないが、なるべく眼をそらすようにしているがいい」
老人は注意を与えておいて、静かにドアをひらいた。
「お嬢さま、熊井に頼んでおきました、田舎出の小間使いがお目見得に参りましたが、通しましてもさしつかえございませんか」
老人がうやうやしく御意をうかがうと、部屋の中から、異様に甲高い、まるで笛のような声が、
「おはいりなさい」
と答えた。
まあ、なんて気の毒な声をしているのだろう。きっと喉か口がどうかしているんだわ。蘭子は好奇心にかられながら、老人のあとに従って部屋にはいった。
そこは十五畳ほどの洋間であったが、中央に丸いテーブルと、婦人用の飾り椅子が二脚置いてあった。その奥の壁ぎわに、古めかしい天蓋つきのベッドが、物々しくすえられていた。ベッドは薄絹の帷に覆い隠されていたが、その絹をとおして、純白のシーツと、ぼんやりした人の姿とが眺められた。
「あたし、寝ていて失礼だけれど、勘弁してくださいね。爺や、その人に椅子を上げなさいな」
笛のようなお嬢さんの声が、薄絹の向こうからやさしく聞こえてきた。
蘭子は勧められるままに、老人と相対して、つつましく椅子にかけた。
「爺や、その人にあのことをよく話して」
お嬢さんは老人にこの娘を試験させて、自分はそばからそれを観察するつもりであろう。
「先ず第一にじゃね」老人は物々しくはじめた。「ここへご奉公するとなると、ご奉公中は一歩も家からそとへ出られないということを承知してもらわんけりゃなりません。お風呂はうちにあるし、買物などは、別の女中がいるから、それに頼めばよろしい。どうじゃな、あんたはそういう辛抱ができるかな」
「ええ、わたし構いませんです。わたしそとへなぞ出たくありませんから」
「おお、そうですかい。そと出嫌いかね。そいつは好都合じゃ。ところであんたの仕事というのは、ご承知の通りこのお嬢さまの小間使いなのじゃが、さっきも言う通り、お嬢さまはご病気なのだから、どんなことをおっしゃっても、お言葉を返してはいけませんぞ。万事おっしゃる通りにしてさし上げるのじゃ。わかったかね」
「あたし、わがままだから、そりゃ無理ばっかり言ってよ」
笛みたいな声が、からかうようにつけ加えた。
「ええ、なんでもおっしゃる通りにいたします」
蘭子はあくまでもつつましやかだ。
「爺や、あたしこのひと気に入りましたわ。なんて柔順な子でしょう。それに、可愛らしい顔をしているじゃないの」
お嬢さんは、すっかり蘭子がお気に召した様子である。
「それでは取りきめましても」
「ええ、いいわ。早く取りきめてちょうだい。お給金もどっさり上げてね」
「はなさん、お聞きの通りじゃ。親御さんの方へはいずれ詳しく手紙で申し送るとして、お前はきょうからここにいることにするがよろしい。別にさしつかえはないだろうね。ああ、そうか。よろしいよろしい。ところでお給金じゃが、お嬢さまのお言葉もあるので、これまでの例を破って、月百円ということにきめましょう。不服はないだろうね」
蘭子がお給金などで不服があろうはずはなかった。百円と言えば大した高給だ。この金額から想像しても、わがままお嬢さんのお守りはさぞ骨の折れることであろうとは思ったが、ほかの条件はすべて申し分がなかった。第一外出を禁ずるというのが、人眼を忍ぶ彼女に取って、何よりの好都合であった。いくらわがままだと言っても、相手は彼女と同年輩の娘さんである。声は笛みたいだけれど、そんなに邪慳な性質とも見えぬ。むしろ子供らしい無邪気なわがまま者らしく思われる。蘭子は、この様子なら当分ご奉公がつづけられそうに思った。
「では、それでよろしいのだね。とりきめましたよ……お前の部屋は、ここの次の間の小さい洋室じゃ。奉公人にはもったいない部屋だが、いつもお嬢さまの近くにいてもらいたいのでね。さあ、その荷物を次の間へ置いてくるがよかろう」
老人の言葉に従って、蘭子はその小部屋の机の上に風呂敷包みを置くと、そこに置いてある鏡台の前で、ちょっと身づくろいをして、元の寝室へ帰ってきた。
「お嬢さま、ではわたくしはあちらへ下がりますが、手はじめに何かこの子においいつけになることはございませんか」
老人が立ち上がって尋ねると、お嬢さんはムクムクとベッドの上に起き上がって、天蓋の薄絹をかき分け、やっとその寝間着姿を現わした。
見ると彼女の風体は実に異様なものであった。洋風のベッドに寝ながら、その寝間着は、純和風の袂の長い派手な友禅縮緬の長襦袢で、それに、キラキラ光る伊達巻をしめていた。そして頭から、婚礼の綿帽子みたいな形の黒い絹の頭巾を、スッポリと、顎の辺までかぶっているのだ。
「あたし、お風呂にはいりたいと思うのだけれど、その子に先へ行って用意させてくれない?」
「はい、承知しました……はなさん、では私についておいで、湯殿を教えてあげるから。お湯はちゃんと焚きつけてあるから、お前は湯加減を見て、手拭などをきちんとしておけばよろしいのじゃ」
老人はそんなことを言いながら、また廊下をたどって、立派な湯殿へ案内した。
浴槽も洗い場も一面のタイル張りで、採光がわるいのか、昼間だけれど、美しい装飾電燈がキラキラとかがやいていた。
老人が立ち去ると、蘭子は裾をまくって、タイルの上に降り、浴槽の蓋を取って湯加減を見たり、桶に湯を汲み出したり、かいがいしく入浴の用意をととのえた。
しばらくすると、次の間になっている脱衣場のドアが静かにひらいて、黒覆面のままのお嬢さんがはいってきた。
「ちょうどよい加減でございます」
蘭子は手を拭きながら、脱衣室にあがって、お嬢さんの前に小腰をかがめた。
「そう。ではね、お前も着物を脱いでね、あたしと一緒にお風呂にはいるのよ。そして、あたしのからだを洗ってくれるのよ」
なるほど風変りなお嬢さんであった。小間使いと一緒にお風呂にはいるなんて、妙な趣味もあるものだ。それにしても、あの覆面頭巾をどうするつもりなのだろう。あのまま湯の中へはいるのかしら。蘭子はいささか面くらって、だまって突っ立っていると、たちまちわがままお嬢さんの癇癪声が響きわたった。
「着物をぬぐのよ。何をぼんやりしているの。早くなさいな」
ああ、これが、月給百円の意味なんだな。どんな無理を言われても、さからってはいけないというのは、ここのことなんだな。蘭子は仕方なく帯を解きはじめた。田舎娘にしてはからだが少し白すぎやしないかしらと心配しながら、次々と細紐を解いて行った。
「お嬢さま、あなたも着物をお脱ぎなさいませんか」
相手が突っ立ったまま、いつまでも、じっとしているので、そう勧めてみると、令嬢は、やっぱり怒ったような声で、
「いいから、お前おぬぎ。そして先へお風呂にはいりなさい」
と命令した。
ああ、このお嬢さんは、不具のからだを恥かしがっているんだな。だが、それなれば、何も小間使いなどと一緒に入浴しなくてもよさそうなものじゃないか。
蘭子は言われるままに、とうとう丸はだかになってしまった。そして、大急ぎで湯殿へはいろうとすると、またしてもお嬢さんの声だ。
「まあ、美しいからだをしているのね。お前田舎から出てきたばかりなの? うそでしょう。ほんとうは大都劇場のレビューに出ていたんじゃない?」
蘭子は雷にでも撃たれたように、ハッと立ちすくんでしまった。世間知らずのお嬢さんと見くびっていたら、この人はまあ、なんて鋭い眼を持っているのだろう。
「江川蘭子。ね、そうでしょう。あたし、ちゃあんと知っているのよ」
不思議なことに、お嬢さんの声の調子がひどく変っていた。笛のように甲高い声が、いつの間にか、しわがれた太い声になっていた。
「すみません……これには少し事情があるのです。決して悪意があってしたことではありません」
蘭子ははだかのまま、脱衣室のコルク張りの床に坐って、素直にお詫びをした。もうそうするよりほかに仕方がなかったのだ。
「なにもあやまることはないよ。その事情って、なんだね? もしや、恩田という恐ろしい男の眼をのがれるためではなかったの?」
蘭子はあまりの不意打ちに、もう口もきけなかった。
「ハハハハハ、蘭子さん、驚いたかい、可哀そうに、まっ青になっているじゃないか。ちっとも不思議なことはないんだよ。僕はお前を知り過ぎるほどよく知っているんだもの」
それは確かに男の声であった。お嬢さんが太い男の声で物をいっているのだ。
蘭子は息がつまったようになって、もう身動きさえできなかった。
夢を見ているのかしら、気でも違ったのかしら。こんな変てこなことがあり得るのだろうか。それとも、もしや、もしや……蘭子はヒョイとそれに気がつくと、泣きそうになって、死にもの狂いの声をふりしぼった。
「誰です。あなたは誰です」
「誰でもない。君が会いたがっている男だよ」
頭巾がかなぐり捨てられた。そして、その下から現われたのは、ドス黒い皮膚、骨ばった輪郭、爛々と青くかがやく両眼、赤い唇、牙のような白歯、恩田だ! 人間豹だ!
蘭子はそれを一と眼見ると、何かえたいの知れぬ叫び声を立てながら、ドアの方へ逃げ出そうとした。
「ハハハハハ、蘭子さん、だめ、だめ、そこには、もうちゃんと鍵をかけておいたよ。ほら、鍵はここにある。欲しいかい。欲しければあげないものでもないぜ。ただちょっとした条件があるけれどね」
正体を現わした人獣は、赤い唇を、ペロペロと舐めながら、さも小気味よげに、ニヤニヤと笑い出した。
蘭子は身の置き所もないように、手足をちぢめて、部屋の隅にすくんでしまった。そして、子供みたいにべそをかきながら、おびえきった眼で、恩田の様子をうかがっている。
人獣はじっと蘭子を見つめていた。長いあいだ身じろぎもせず見つめていた。だが、やがて、彼の上半身が、蘭子の方へ前かがみになり、その両手が、徐々に曲げられていった。そして、ついには、一匹の豹が、今にも餌食に飛びかかろうとする、あの無気味な姿勢に変っていた。