20話 名探偵の憂慮
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邸内の応接室では、アームチェアにもたれた明智小五郎の前で、神谷青年が、人間豹恩田との異様な出会いからのすべての出来事を、くわしく説明していた。
明智は例の、青年時代からの癖で、モジャモジャに伸ばした髪の毛の中へ、右手の五本の指を櫛のように突っ込みながら、時々合槌を打って、非常に熱心に聞き入っていた。なかなかの長話なので、そのあいだには、美しい明智夫人文代さんが、手ずから飲物を運んで、三度もその部屋へはいってきたほどであった。
「そういうわけで、蘭子は一時安全であるようなものの、決して油断はできません。それに、やつは僕に対して深い恨みを持っているのですから、僕自身も身辺の不安を感じるのです。そこで、先生に警察とは別に、恩田の隠れがを探偵していただきたいと思って、お訪ねしたわけですが……」
神谷がそう言葉を結ぶと、明智は何かしら心配らしい顔をして、
「その熊井という柔道家ですね、高梨家へ蘭子さんを世話したという、その人の住所はご存知ですか」
と妙なことを尋ねた。
「知っております。浅草の千束町に母親と二人で家を借りているんです」
「電話は利きませんか」
「確か近所から呼出しが利くと思いました。大都劇場の事務所へ聞き合わせたらわかるかもしれません……ですが、何か熊井にご用がおありなんですか」
神谷青年は、名探偵に奇癖のあることは聞いていたが、これは少し突飛すぎると思った。
「いや、詳しいことは、あとで話します。非常に急ぐのです。あなた恐縮ですが、その電話で大都劇場へ尋ねてくれませんか」
明智は卓上電話を指さして、せき立てるのだ。
「熊井君の呼出し電話をですか」
「ええ、そうですよ……僕はもしかしたら、熊井君親子は、もうどっかへ引越しをしてしまったんじゃないかというような気がするのですよ。もしいてくれれば幸いだが……」
この探偵は一体全体なにを考えているのだろう、熊井とはきょうのお昼前に別れたばかりではないか。そのとき引越しの話など一度も出はしなかった。それに、熊井には一面識もないはずの明智探偵が、彼の引越しを予想するなんて、まるで狐につままれたような話ではないか。
神谷は不審に耐えなかったけれど、明智のするどい眼が、しきりに催促しているものだから、聞き返すわけにもいかず、いわれるままに受話器を取って、大都劇場にそのことを問い合わせた。
「わかりましたか。では、そこへあなたから電話をかけて、熊井君なり熊井君の母親なりを呼出してみてください」
「ご用がおありなのですか」
「ええ、用事があるのです」
明智はすましこんでいる。
神谷は仕方なく、今聞いた柳屋という酒屋へ電話をつないで、熊井のうちへ走ってもらうように頼んだ。
「モシモシ、熊井さんでございますか。あの柔道をなさる熊井さんですね。あのかたは、きょうお昼すぎ、急にお引越しなさいましたよ」
「えっ、引越したって? それ、ほんとうですか」
「ええ、うそなんか言いませんよ。なんだかひどく急なお話でしてね。箪笥だとか台所のものなんか、大抵古道具屋にお払いになった様子ですよ」
「で、国へ帰ったというのだね。あの人の国はどちらだったかしら」
「さあ、それはよく存じませんでしたが」
というようなことで電話が切れた。
神谷青年は、まったく度胆を抜かれてしまった。明智が稀代の名探偵であることは聞いていた。だが、八卦見ではあるまいし、見ず知らずの人間が、きょう引越しすることを、いったいまあ、どうして言い当てることができたのであろう。
「国へ帰ったと言うのですか」
「ええ、そうです。しかし、先生はどうしてそれがおわかりになったのでしょう」
「詳しいことはあとでお話しします。僕はあなたのお話を伺って、あることを心配していたのです。それがいま一部だけ的中しました。この上は現場をしらべてみるほかありません。さあ、ご一緒に参りましょう。お話は自動車の中でもできますから」
明智は何かひどくイライラしている様子で、物問いたげな神谷の表情に答えようともせず、小林少年を呼んで、自動車を呼ぶように命じた。
「実はさっき、お話し中に手洗いへ立ちましたね。あの時玄関の所を通りかかってこんなものを見つけたのですよ、むろんあなたがいらしってからあとで、誰かが投げ込んで行ったものに違いありません」
明智はそう言って、手帳の切れ端らしい一枚の紙を見せた。それには鉛筆の走り書きで、左のような恐ろしい文句がしたためてあった。
明智君、君は神谷芳雄が依頼する事件に、断じて手を染めてはならぬ。君はいま美しい妻君と新家庭を楽しんでいる身の上ではないか。冒険はよしたまえ。もしこの忠告を用いずして、事件の渦中に飛び込むようなことがあれば、君は悔いても及ばぬ一大不幸に見舞われるであろう。
「恩田の仕業でしょうか」
神谷が驚いて明智の顔を見た。
「むろんです。君は恩田の一味の者に尾行されたのですよ。その尾行したやつが、僕の家へおはいりなすったのを見て、とっさにこんな脅し文句を書いたのです」
「ですが、この一大不幸というのは、一体なにを意味するのでしょうか」
神谷はこの事件を依頼したことを後悔している口調であった。
「ハハハハハ、ご心配には及びません。僕にはその意味も大方はわかっているのです。しかし、そんなことを恐れていては、探偵の仕事はできやしませんよ。僕は脅迫状にはもう慣れっこになって、ほとんど無感覚ですよ」
明智は事もなげに言い放った。
そうしているところへ、自動車がきたという知らせがあったので、二人は急いで部屋を出た。
「小林、君も一緒に行くんだ。ひょっとしたら、ちっとばかり手強い敵にぶっつかるかもしれんぞ」
明智が玄関へ送って出た美少年の肩をたたいて言った。
「はあ、お供します」
小林少年は、ハッキリした口調で答えて、さも嬉しそうに、駈け出して行って自動車のドアをひらいた。
「築地へ行ってくれ」
三人が並んでクッションに腰かけると、明智が行先を命じた。車はたちまち走り出す。
「築地と言いますと……」
神谷はせき立てられるままに、まだ行く先も知らなかったのだ。
「むろん高梨の家ですよ。おわかりですか。君は今、どこから僕の家へいらしったのです。築地の高梨家の前からではありませんか。その君に尾行してきた男があったとすれば……途中ですれ違いに見つけて跡をつけるというのは少しおかしいですからね……その男は高梨家から君をつけてきたと思わなければなりません。君は気づかれないつもりでいても、先方ではちゃんと君の挙動を監視していたかもしれませんよ」
「高梨家の人が、僕をですか」
神谷は、明智の考えがあまりに飛躍的だものだから、妙な混迷におちいって、あとで考えると恥じ入るような愚問を発した。
「そうですよ。ああ、君はあの熊井という男をすっかり信じきっているのですね。無理もありません。あの男は蘭子さんの護衛を勤めていたほどですからね。しかし、悪魔の誘惑は、どんな所へでも伸びて行くのです。現に大都劇場の配電盤係りが恩田のために買収されていたという例もあるくらいです。熊井がやっぱり同じ手でやられなかったとはきめられませんよ。何よりおかしいのは、彼の突然の引越しです。それも、蘭子さんに奉公口を世話したその午後ですからね。第一、柔道家の青年が女中の世話をするなんていうことが、変てこじゃありませんか。あなたはそれを疑ってみなかったのですか」
飛ぶように走る自動車の中で、明智は丁寧に説明した。
そこまで聞けば、いくら混迷におちいっているといっても、明智の心配の意味を悟らないわけにはいかぬ。神谷青年はギョッとして、思わず明智の横顔を睨みつけた。
「すると、あの高梨家に、恩田の手が廻っているとでも……」
「そうですよ。行ってみなければほんとうのことはわかりませんが、脅迫状といい、熊井君の引越しといい、僕にはなんとなくそんなふうに感じられるのです。熊井君は、その高梨のお嬢さんが、不具者で、いつも顔に覆面をしていると言ったのですね。あれを聞いたとき、僕はハッとしましたよ。僕の思いすごしかもしれません。どうかそうであってくれればいいと思います。しかしそういう手は、わる賢い犯罪者などがよく用いるものですからね。僕はかつてそれと同じ手口を見たことがあるのです」
「ああ、あなたはもしや、その覆面のお嬢さんが……」
「ええ、恩田の変装でなければいいがと思うのです」
「畜生め! そうだ。そうにきまっている。ああ、僕はなんという間抜けだったろう。苦心に苦心をして、蘭子ちゃんを、あのけだものの罠の中へ落としこむなんて……」
神谷はもうまっ青になって、自動車の床に、地だんだを踏むのであった。
「おい、運転手君、料金はいくらでも増してやるから、もっと急いでくれないか。人の命にかかわることなんだ。早く、もっと早く」
彼は気違いのようにわめき立てた。
「しかし、いくら急いでみても、僕らはもう後手を引いているのかもしれませんよ」
明智は深い憂慮の色を浮かべて言う。
「どうしてですか。蘭子が高梨家へ行ってから、まだ二時間あまりしかたっていないのですよ……」
「いや、普通なれば心配することはないのですが、あなたを尾行したやつがありますからね。そいつは僕を恐れているのです。恐れているからこそ、あんな脅迫状を残して行ったのです。何を恐れるのか。僕の想像力をです。僕が高梨家というものを疑うかもしれない。それが怖いのです。すると、そいつは、僕らの先廻りして、高梨家に帰り、いつ襲撃されてもさしつかえないように用意をするかもしれません」
「用意っていいますと?」
「さあ、その用意を、僕は極度に恐れているのです。むろん先方へ行ってみなければ、わからないことです。杞憂であってくれればいいと思うのですが、わるくすると……」
「蘭子が……」
「ええ、そうですよ。相手は人間じゃないのですからね。前の例でもわかるように、肉食獣にもひとしいやつですからね」
明智はそう呟いたまま、言いがたき不安の色を浮かべて、だまりこんでしまった。