19話 明智小五郎
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蘭子はからだを括り猿のように丸く縮めて、脱衣室の隅っこに小さくなったまま、じりじりと迫ってくる怪物の恐ろしい形相を、まるで眼に見えぬ糸で視線をつながれでもしたように、まじろぎもせず見つめていた。
「ワハハハハ」
怪物は長い牙をむき出し、ヌメヌメした赤い唇を震わせて、身もだえするように哄笑した。
「蘭子、今おれがどんな気持でいるか、君にわかるかね。おれは恐ろしく愉快なんだぜ。とうとうとっつかまえたねえ。もうどんなことがあったって、放すもんじゃない。だが、ずいぶん苦労をさせたぜ、君は」
振袖姿の恩田は、そんなことを言いながら、両手の指で空気を掴む恰好をして、隅っこの蘭子の上へ、巨大なけだもののように、のしかかって行った。
「キャア……助けてえ……」
蘭子は顔じゅうを口にして、死にもの狂いの悲鳴をあげた。
「ワハハハハハ」
怪獣は相手が怖がれば怖がるほど、一そう歓喜に燃えて、なまぐさい哄笑をつづけるのだ。
長い爪の痩せた指が、今一寸で蘭子の肩に触れようとした。だが彼女はまだ気力を失ってはいなかった。
「ワア……」と、今にも殺されそうな悲鳴を発しながら、相手の手の下をスルリと抜けて、白いタイルの浴室へ、鞠のようにころがり込んで行った。
「ワハハハハハ、いよいよ袋の鼠だぜ。知っているかね。この風呂場には、窓というものがないんだよ。君はつまりおれの注文にはまってくれたというもんだ」
そして、野獣らしい黒い裸身が、四つん這いになって、ノソリノソリ、タイルの階段を降りていった。
蘭子はいつの間にか、浴槽の中に首までつかっていた。
人間豹は、鼠をもてあそぶ猫のように、急に襲撃するでもなく、タイルの洗い場にうずくまったまま、ずうっと首を低くして、ギラギラ光る青い眼で、いつまでもいつまでも、さも楽しげに、湯の中の餌食を睨んでいた。
同じ屋敷のそとでは、蘭子の恋人神谷芳雄が、ガラスのかけらを植えつけたコンクリート塀のまわりをグルグルと廻り歩いていた。
彼は蘭子の女中奉公を、別の自動車で見送って、彼女が邸内にはいるのを見届けてからも、なんとなく気掛りなものだから、三十分あまりも、屋敷の前にたたずんだり、裏手に廻ったり、どこか隙見でもする箇所はないかとさがしたり、そこを立ち去りかねていたが、いつまでそんなことをしていても仕方がないと諦めて、通りすがりの自動車を呼びとめた。
ちょうど彼が自動車に乗りこんだ時分、邸内では、あの浴場の悲劇がはじまっていたのだが、広い邸内の密閉された湯殿の中とて、蘭子がいかに叫ぼうとも、その声は塀のそとまで届こうはずはなかった。それとも知らぬ神谷が、人間豹の眼から恋人を完全に隠しおおせたつもりで、安堵して帰途についたのは是非もないことであった。
だが、虫が知らせたのであろうか、走る自動車の中で、神谷の心は妙に落ちつかなかった。これでいいのかしら、何をいうにも相手は魔性の人間豹だ。嗅覚のするどい野獣のことだから、長いあいだには、蘭子の隠れがを突きとめまいものでもない。蘭子の安全のためには、彼女を隠すことなどより、人間豹そのものを、一日も早く捕まえてしまうのが最善の策である。そうして、牢獄にぶち込むなり、死刑に処するなりにしてしまえば、蘭子ばかりではない、世間全体の安堵である。動物園の檻を抜け出した野獣みたいなやつが、ノソノソ町を歩いていたのでは、東京じゅうの人が枕を高くして寝ることができないわけだ。
それについて、神谷は数日以前から考えていたことがある。警察力が頼むに足らぬとすれば、もうほかに手段はない。一縷の望みは有力な民間探偵の力を借りることであった。私立探偵といえば、たちまち思い浮かぶのは明智小五郎だ。彼なれば、警察が手古ずった難事件をやすやすと解決したという話を幾つも聞いている。殊に人間豹のような怪犯人には、明智こそ似つかわしいのではあるまいか。
「ああ君、ちょっと行先きを変えるよ。麻布の竜土町だ。竜土町のね、明智小五郎っていう家へ行くんだよ」
「承知しました。私立探偵ですね」
運転手が威勢よく答える。
「おや、君はよく知っているね」
「有名ですからね。あたしゃ、早くあの先生が登場すればいいと、待ちかねているんですよ」
「どこへ登場するっていうんだい?」
「ご存じでしょう。ほら、例の大都劇場の一件でさあ。蘭子を狙っているけだものでさあ。早く明智さんが出て、あの人間と豹の混血児みたいなえてものを、やっつけてくれりゃいいと思っているんですよ。あたしゃ、江川蘭子は大のひいきですからね」
「ああ、そうかい。今にそんなことになるだろうよ」
他人の運転手でさえそこへ気がついているのだ。なぜおれはもっと早く明智探偵を訪ねなかったろうと、神谷はひとしお頼もしい感じがした。
明智小五郎は「吸血鬼」の事件の後、開化アパートの独身住いを引き払って、麻布区竜土町に、もと彼の女助手であった文代さんという美しい人と、新婚の家庭を構えていた。その家庭が同時に探偵事務所でもあった。夫妻ともに探偵好き冒険好きなので、家庭と事務所とを別々にする必要はまったくなかったのだ。
低い御影石の門柱に「明智探偵事務所」と、ごく小さな真鍮の看板がかかっている。そこをはいって、ナツメの植込みに縁どられた敷石道を一と曲がりすると、小ぢんまりした白い西洋館。玄関の呼鈴を押せば、直ぐさまドアがあいて、林檎のような頬っぺたをした詰襟服の愛くるしい少年が顔を出した。これも「吸血鬼」事件でおとなも及ばぬ働きをした少年助手小林である。
幸い、明智は在宅であった。神谷はこころよく応接間に通され、名探偵と初の対面をすることになったのだが、彼がちょうど応接間へ通ったころ、門前にもう一台の自動車がとまった。そして、その中に眼を光らせていたのは、なんと高梨家の執事と称する、白髪白髯の怪老人ではなかったか。
神谷は少しも気づかなかったけれど、相手の方では門前をうろつく、怪しげな青年を見逃さなかった。いや、老人はそれ以上のことさえ知っていたかもしれない。彼は神谷の跡をつけたのだ。そして、彼が明智探偵事務所へはいったのを見届けたのだ。
老人は車をとめて、少しのあいだ考えごとをしていたが、やがて懐中から手帳を取り出すと、その紙を破り取って鉛筆で何かしたため、それを運転手に渡しながら、
「この手紙をね、ここの家の玄関の戸の隙間から、ソッと投げ込んでくるのじゃ。よいかな。誰にも見られぬよう、充分気をつけてな」
と命じた。
この運転手、ただのやつではないとみえて、妙な命令を疑いもせず、無言のまま車を降りると、忍び足で門内に消えて行った。