人間豹

19話 明智小五郎

2,715字 約5分 2019年10月21日 公開

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 蘭子はからだを(くく)(ざる)のように丸く縮めて、脱衣室の隅っこに小さくなったまま、じりじりと迫ってくる怪物の恐ろしい形相(ぎょうそう)を、まるで眼に見えぬ糸で視線をつながれでもしたように、まじろぎもせず見つめていた。

「ワハハハハ」

 怪物は長い(きば)をむき出し、ヌメヌメした赤い唇を(ふる)わせて、身もだえするように哄笑(こうしょう)した。

「蘭子、今おれがどんな気持でいるか、君にわかるかね。おれは恐ろしく愉快なんだぜ。とうとうとっつかまえたねえ。もうどんなことがあったって、放すもんじゃない。だが、ずいぶん苦労をさせたぜ、君は」

 振袖姿(ふりそですがた)の恩田は、そんなことを言いながら、両手の指で空気を(つか)恰好(かっこう)をして、隅っこの蘭子の上へ、巨大なけだもののように、のしかかって行った。

「キャア……助けてえ……」

 蘭子は顔じゅうを口にして、死にもの狂いの悲鳴をあげた。

「ワハハハハハ」

 怪獣は相手が(こわ)がれば怖がるほど、一そう歓喜に燃えて、なまぐさい哄笑(こうしょう)をつづけるのだ。

 長い(つめ)()せた指が、今一寸(いっすん)で蘭子の肩に触れようとした。だが彼女はまだ気力を失ってはいなかった。

「ワア……」と、今にも殺されそうな悲鳴を発しながら、相手の手の下をスルリと抜けて、白いタイルの浴室へ、(まり)のようにころがり込んで行った。

「ワハハハハハ、いよいよ袋の(ねずみ)だぜ。知っているかね。この風呂場には、窓というものがないんだよ。君はつまりおれの注文にはまってくれたというもんだ」

 そして、野獣らしい黒い裸身が、四つん()いになって、ノソリノソリ、タイルの階段を降りていった。

 蘭子はいつの間にか、浴槽(よくそう)の中に首までつかっていた。

 人間(ひょう)は、鼠をもてあそぶ(ねこ)のように、急に襲撃するでもなく、タイルの洗い場にうずくまったまま、ずうっと首を低くして、ギラギラ光る青い眼で、いつまでもいつまでも、さも楽しげに、湯の中の餌食(えじき)(にら)んでいた。

 同じ屋敷のそとでは、蘭子の恋人神谷芳雄が、ガラスのかけらを植えつけたコンクリート(べい)のまわりをグルグルと(まわ)り歩いていた。

 彼は蘭子の女中奉公を、別の自動車で見送って、彼女が邸内にはいるのを見届けてからも、なんとなく気掛りなものだから、三十分あまりも、屋敷の前にたたずんだり、裏手に廻ったり、どこか隙見(すきみ)でもする箇所(かしょ)はないかとさがしたり、そこを立ち去りかねていたが、いつまでそんなことをしていても仕方がないと(あきら)めて、通りすがりの自動車を呼びとめた。

 ちょうど彼が自動車に乗りこんだ時分、邸内では、あの浴場の悲劇がはじまっていたのだが、広い邸内の密閉された湯殿の中とて、蘭子がいかに叫ぼうとも、その声は塀のそとまで届こうはずはなかった。それとも知らぬ神谷が、人間豹の眼から恋人を完全に隠しおおせたつもりで、安堵(あんど)して帰途についたのは是非もないことであった。

 だが、虫が知らせたのであろうか、走る自動車の中で、神谷の心は妙に落ちつかなかった。これでいいのかしら、何をいうにも相手は魔性(ましょう)の人間豹だ。嗅覚(きゅうかく)のするどい野獣のことだから、長いあいだには、蘭子の隠れがを突きとめまいものでもない。蘭子の安全のためには、彼女を隠すことなどより、人間豹そのものを、一日も早く捕まえてしまうのが最善の策である。そうして、牢獄(ろうごく)にぶち込むなり、死刑に処するなりにしてしまえば、蘭子ばかりではない、世間全体の安堵である。動物園の(おり)を抜け出した野獣みたいなやつが、ノソノソ町を歩いていたのでは、東京じゅうの人が(まくら)を高くして寝ることができないわけだ。

 それについて、神谷は数日以前から考えていたことがある。警察力が頼むに足らぬとすれば、もうほかに手段はない。一縷(いちる)の望みは有力な民間探偵(たんてい)の力を借りることであった。私立探偵といえば、たちまち思い浮かぶのは明智小五郎だ。彼なれば、警察が手古(てこ)ずった難事件をやすやすと解決したという話を幾つも聞いている。(こと)に人間(ひょう)のような怪犯人には、明智こそ似つかわしいのではあるまいか。

「ああ君、ちょっと行先きを変えるよ。麻布(あざぶ)竜土町(りゅうどちょう)だ。竜土町のね、明智小五郎っていう家へ行くんだよ」

「承知しました。私立探偵ですね」

 運転手が威勢(いせい)よく答える。

「おや、君はよく知っているね」

「有名ですからね。あたしゃ、早くあの先生が登場すればいいと、待ちかねているんですよ」

「どこへ登場するっていうんだい?」

「ご存じでしょう。ほら、例の大都劇場の一件でさあ。蘭子を(ねら)っているけだものでさあ。早く明智さんが出て、あの人間と豹の混血児みたいなえてものを、やっつけてくれりゃいいと思っているんですよ。あたしゃ、江川蘭子は大のひいきですからね」

「ああ、そうかい。今にそんなことになるだろうよ」

 他人の運転手でさえそこへ気がついているのだ。なぜおれはもっと早く明智探偵を訪ねなかったろうと、神谷はひとしお頼もしい感じがした。

 明智小五郎は「吸血鬼」の事件の後、開化アパートの独身住いを引き払って、麻布区竜土町に、もと彼の女助手であった文代さんという美しい人と、新婚の家庭を構えていた。その家庭が同時に探偵事務所でもあった。夫妻ともに探偵好き冒険好きなので、家庭と事務所とを別々にする必要はまったくなかったのだ。

 低い御影石(みかげいし)の門柱に「明智探偵事務所」と、ごく小さな真鍮(しんちゅう)の看板がかかっている。そこをはいって、ナツメの植込みに縁どられた敷石道を()と曲がりすると、小ぢんまりした白い西洋館。玄関の呼鈴を押せば、直ぐさまドアがあいて、林檎(りんご)のような()っぺたをした詰襟服(つめえりふく)の愛くるしい少年が顔を出した。これも「吸血鬼」事件でおとなも及ばぬ働きをした少年助手小林である。

 幸い、明智は在宅であった。神谷はこころよく応接間に通され、名探偵と初の対面をすることになったのだが、彼がちょうど応接間へ通ったころ、門前にもう一台の自動車がとまった。そして、その中に眼を光らせていたのは、なんと高梨家の執事(しつじ)と称する、白髪白髯(はくはつはくぜん)の怪老人ではなかったか。

 神谷は少しも気づかなかったけれど、相手の方では門前をうろつく、怪しげな青年を見逃さなかった。いや、老人はそれ以上のことさえ知っていたかもしれない。彼は神谷の跡をつけたのだ。そして、彼が明智探偵事務所へはいったのを見届けたのだ。

 老人は車をとめて、少しのあいだ考えごとをしていたが、やがて懐中から手帳を取り出すと、その紙を破り取って鉛筆で何かしたため、それを運転手に渡しながら、

「この手紙をね、ここの家の玄関の戸の隙間(すきま)から、ソッと投げ込んでくるのじゃ。よいかな。誰にも見られぬよう、充分気をつけてな」

 と命じた。

 この運転手、ただのやつではないとみえて、妙な命令を疑いもせず、無言のまま車を降りると、忍び足で門内に消えて行った。

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