24話 鉄管の迷路
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それから又一時間ほどの後、明智探偵事務所門前の、まっ暗な道路を、影のようにさまよう人物があった。
彼はさも人眼をはばかるように、軒燈を避けて、暗い塀の蔭を、足音を忍ばせながら一定の距離を行ったりきたりしている。黒い背広を着た、痩せた男だ。うっかり軒燈に近づいた折に、よく見ると、そいつはあの醜悪な人間豹の顔とそっくりであった。むろん明智の変装姿に違いない。だが彼は自分のうちの前を、どうしてこんなうさんくさい様子でさまよっているのであろう。
「はてな、おれの誤算だったかしら。もうやってきてもいい時分だがな。あのおやじさん、倅がいつまでも帰らなければ、心配でたまらなくなって、きっとこの辺を探しにくるに違いないのだが、この見込みははずれないつもりなんだが……」
明智はそんなことを考えながら、しきりと闇の中をすかしてみるのであった。
彼は恩田に化けて、恩田の父親が探しにくるのを待ち構えていたのだ。彼が出発の時から、酔狂な変装をしていたのも、実はこの目的のためであった。たとえ親子であっても、この暗闇の中で、変装に気づくはずはない。それに、彼は変装術にかけては、充分自信を持っていた。
「おや、うちへ電話がかかってきたようだな」
明智はふと聞き耳を立てた。確かにわが家の電話のベルの音だ。
「誰からだろう。文代は二階の居間に鍵をかけてとじこもっているはずだから、小林が電話口へ出ているに違いない。何か急な用事かしらん」
彼はうちの中へ飛び込んで行くわけにはいかなかった。そのうちにも、恩田の父親がやってくるかもしれない。もしうちへはいるところを見つけられでもしたら、ぶちこわしだ。
そのとき、彼が遠い邸内の電話のベルに注意したというのは、何か虫の知らせのようなものであったかもしれない。なぜといって、その電話こそ彼に取って致命的なものであったからだ。それを聞き得なかったばっかりに、思いもよらぬ失策を演じなければならなかったからだ。だが、それはのちのお話である。
じっと辛抱して、暗闇をさまよいつづけているうちに、とうとう手ごたえがあった。ボロボロの着物を着た、はだしの乞食みたいな男が、闇の中から浮き出してきて、しばらくのあいだ、じっと彼の方をすかして見ていたかと思うと、いきなりツカツカと近づいてきて、彼に、何か紙切れみたいなものを手渡すのであった。
このものといっしょに帰れ、急に相談したいことが起こった。
紙切れを軒燈に近づけてみると、鉛筆の大きな文字で、そんなことが書きつけてあった。見覚えのある筆蹟だ。恩田の父親に違いない。
「間違いねえだろうね。お前、恩田っていう人だろう」
乞食みたいな男が、念を押すように言った。して見ると、こいつは恩田の顔を知らないのだな。知らなくても間違う気遣いないほど、恩田の顔には特徴がある。その特徴を教えられてきたのに違いない。明智はもうビクビクすることはなかった。
「ウン、間違いないよ。だが、おれのおやじは今どこにいるんだい、うちにいるのかい」
「うちだか、どこだか知らねえ。おれは芝浦で頼まれたんだよ」
ハハア、すると、あいつらの巣窟は芝浦付近にあるんだな。
「芝浦っていや、ずいぶん遠いじゃないか。歩いて来たのかい」
「そうよ。モチよ。だがおれの足は電車よか早いんだからな」
「だが、おれはそうはいかんよ。どうだ円タクを奮発しようか」
「おれあ円タクなんぞ嫌いだ。だが、お前が困るなら乗ってやってもいいよ」
それにしても、恩田老人はなんというひどい使いをよこしたものであろう。これで見ると、今あいつらのそばには、気の利いた手下もいないとみえるわい。
明智はソフト帽を眼深くして顔を隠しながら、円タクを拾った。そして、乞食と並んで車内に腰をおろした。車は乞食の言葉に従って、芝浦の方角に疾走する。
「お前に手紙を頼んだ人は、確かにおれのおやじだろうね。お前その人の風体を言ってみな」
明智は念のためにそれを確かめようとした。
「なんだか知らねえが、おれにちょいちょい小遣いをくれる親切な爺さんだよ。顔じゅう白いひげを生やして、眼のギョロッとした、痩せっぽちの小さな爺さんだよ」
「ウン、それなら間違いない。で、その人は芝浦でおれの行くのを待っているのかい」
「そうよ。鉄管長屋で待っているんだ」
「鉄管長屋って?」
「お前、知らねえのかい。爺さんはちょくちょく鉄管長屋へ遊びにくるんだぜ。ほら、あすこにウントコサころがっている水道の鉄管のことさ。おれなんかも、その鉄管長屋に古く住んでいるんだよ」
ルンペンどもが、水道用の大鉄管をねぐらにしていることは周知の事実だ。すると恩田父子はその鉄管の中を、一時の隠れがにしているというわけであろうか。
そんな話を取りかわすうちに、車は芝浦の闇にさしかかっていた。
「どこへ行くんですよ。もうこの先には町がないんですが」
運転手がけげん顔に尋ねるので、そこで車を降りることにした。
車を降りて、果てしもない暗闇のなかへさまよい出した。さすがにルンペンは慣れたもので、見えぬ道をグングンと先に立って歩いて行く。眼が慣れるに従って、曇った空がだんだんほの白く見えてくる。そのおぼろな反射光が、地上のものを、うっすらと墨絵のように浮き上がらせている。
「ここだよ、今爺さんを探すからね」
ルンペンの言葉に瞳をこらすと、これはまあなんというおびただしい鉄管の行列であろう。黒い地上に、とり別けてまっ黒に見える巨大な円筒が、眼路の限り、遥かの彼方までギッシリと並んでいるのだ。
「オーイ、爺さんいねえか。今帰ったよう」
ルンペンが大声にどなると、たちまち地上の各所から「やかましい」「静かにしろ」などという叱り声が湧くように起こった。まったく人気もないように見えた鉄管の中に、おびただしい住民が、一日の休息を取っているのだ。なるほど安眠妨害に違いない。
だが、無神経なルンペンは、又しても大きな声を立てる。
「オーイ、爺さん、いねえかよう」
すると、どこか地の底の方から、かすかに、かすかに、
「オーイ」
という返事が聞こえてきた。
「どうもだいぶ奥の方らしいぜ。お前頭をぶっつけねえように用心しなよ。おれの後からついてお出でよ」
案内のルンペンはそういって、一つの鉄管の中へもぐり込んで行く。明智も仕方なく、四つん這いになって、そのあとからゴソゴソとついて行った。冷たい鉄の匂いがする。
長い鉄管を一つ出抜けると、すぐに又別の鉄管の口があいている。それをいくつもいくつも這い進むうちに、実に困ったことが起こってしまった。明智はいつの間にか案内者を見失ったのだ。何も見えないまっ暗ななかだから、見失ったのではなくて、けはいを感じなくなってしまったのだ。
「おい、どこにいるんだ」
小さな声で呼んでみても、自分の声が鉄管にこだまするばかりで、返事がない。難儀なことには、ルンペンの名前を聞いておくのを忘れた。呼ぼうにも呼びようがないのだ。さすがの名探偵も、鉄管長屋というものが、これほど奇妙な場所だとは知らなかった。
耳をすますと、どっか遠くの方から鼾の声が聞こえてくる。無人の境ではない。人間がいることはいるのだ。しかしもう方角がわからなくなってしまった。鉄管は必ずしも並行に列んでいるわけではないので、幾つも幾つもくぐり抜けているあいだには、迷路の中に迷い込んだのも同然になる。
そのうち、鉄管の口と口とのあいだに、少し広い隙間のある場所へ出たので、明智はそこの地面に立って、ニュッと鉄管の上に頭を出してみた。すると、驚いたことには、四方八方鉄管の海である。暗さは暗し、どの方角へ進んだら一ばん早くそとの地面へ出られるかも、ほとんど見当がつかない有様だ。
ともかくも、でたらめに見当をつけて、又ゴソゴソと這い出したが、しばらく行くと、なんとなく周囲がざわめき出したような感じがした。方々でボソボソと話し合う声が聞こえる。何事が起こったのか、聞き耳を立てると、ややはっきりした声が聞こえてきた。
「オイ、こん中に人間豹が逃げ込んでいるんだってよ」
「人間豹てなんだい」
「おめえ知らねえのか。この頃、世間で騒いでいる大悪党だよ。江川蘭子を殺した恐ろしいけだものだよ」
そんなことがかすれかすれに聞こえてきた。
まだ明智はその恐ろしい意味をはっきりと悟らなかった。
「人間豹がいるなんてばかなことがあるもんか。あいつはちゃんと捕縛されているのじゃないか」
迂闊にもそんなことを考えていた。
そのうちに、鉄管人種の騒ぎはだんだん大きくなって行くように見えた。あっちでもこっちでもどなり声が響きはじめた。
「オーイ、みんな起きろよう。こん中へ人間豹が逃げ込んだってよう」
「人殺しがいるんだってよう」
それらの声々が、鉄管にこだまして、物凄くとどろきわたった。
明智はやっと、彼の恐ろしい立場を了解した。
「人間豹はほかにいるんじゃない。このおれが人間豹だった。もしこの中に恩田の人相風体を知っているやつがいたら、たちまちおれが人間豹にされてしまうに違いない」
実になんとも形容のできない困惑であった。急に顔のメーク・アップを落とそうとしたって、油か、せめて水がなければどうなるものでもない。
「こいつは大変なことになってしまったわい」
もうこの上は、捕物など断念して逃げ出すほかに思案はない。彼は、人声から遠ざかるように、遠ざかるようにと注意しながら、鉄管から鉄管へと、無茶苦茶に這い出した。
すると、たちまち恐ろしい障害物にぶっつかってしまった。
「アッ、痛え、誰だ、誰だ」
明智と鉢合わせした男が、相手の胡散くさい態度に気づいて、大声にわめき出した。
「オーイ、みんな、ここにいたぞお。人間豹の野郎がここにいたぞお」
明智は物も言わず大急ぎで反対の方へ逃げ出した。だがそれが一そう事態を悪化させる結果となった。逃げるからにはテッキリ人間豹に違いないという確信を与えてしまった。
「逃げた、逃げた。吉公、お前の方へ逃げたぞ。とっつかまえろっ」
かようにして、鉄管迷路のめくら滅法な鬼ごっこがはじまった。逃げた、逃げた、汗びっしょりになって逃げまどった。
明智はこんな変てこな立場は、生れてはじめてであった。追われるものの心持がつくづくわかったような気がした。
逃げて逃げて、ヒョイと気がつくと、ああ助かった。とうとう鉄管の迷路を抜け出すことができたのだ。もう眼の前にはなんの障害物もない。一面の黒い広っぱだ。
ホッとして、ノコノコそこを這い出した途端、彼の耳元で、
「ワーッ」
という喊声が上がった。ハッとして首をすくめながら、そとの様子をうかがうと、助かったと思ったのは、束の間の空頼みであったことがわかった。ルンペンどもは前もって明智の逃げ道を察し、そこの出口に一とかたまりになって、手に手に得物を持って待ち構えていたのである。
明智はとっさにそのけはいを察して、すばやく首を引っ込めると、元来た方角へ逃げはじめた。だが、行く手にも無数の敵が待ち構えている。一つの鉄管を駈け抜けるたびに、次に這い込む鉄管を、用心深く選択しなければならなかった。
「はてな、こいつはどうも変だぞ。このルンペンどもの執拗さはどうだ。何かあるんだな。ああ、もしかしたら……」
明智は暗い鉄管の中を急ぎながら、ヒョイとそこへ気がついた。
どうかして、恩田老人が明智の正体を看破したのかもしれない。そこで、老人自身は身を隠しながら、ルンペンどもを使嗾して、反対に探偵を苦しめようとしているのかもしれない。それには、明智が獣人恩田に変装しているのが、もっけの幸いではないか。
「面白い。そういうことなら、何をノメノメこんなやつらに捕まるものか」
明智はかえって勇気百倍した。「魔術には魔術をもって」一つ鼻をあかしてやろうと考えた。
彼は逃げるのをやめて、鉄管のまん中にうずくまった。そして、背後から近寄る足音に聞き耳を立てた。
来る、来る。荒い呼吸が聞こえる。コンコンと鉄管の壁に当たる物音。敵は二、三人の様子だ。
「おい、確かにこっちへ逃げたぜ」
「構わねえ、まっすぐに行ってみろ」
シュウシュウというささやき声だ。
先頭の黒い影が、ムクムク動いてくる。そして、三尺ほどの距離になったとき、ハッと明智の影に気づいて身構えした様子だ。
「誰だっ、そこにいるのは?」
少々おびえたような掛け声である。
明智はだまっていた。だまったまま、右手の握り拳をかためて、相手の胸板とおぼしきあたりに狙いを定めていた。
「返事をしねえな。さては貴様だな。おい、やっつけろ」
黒い影が風のように飛びかかってきた。
待ち構えていた明智の拳骨が、ハッシとばかり相手の胸を撃った。倒れる相手にのしかかって行った。
「おい、押えたぞ。確かに人間豹だ。手を貸してくれ。おれはみんなを呼び集めるからな」
そうルンペンめかして叫んだのは明智小五郎自身であった。彼が押えているのは、とっさの当て身に眼を廻した先頭のルンペンだ。それとも知らぬあとの二人は、声に応じて、彼らの仲間の上に飛びかかった。二人がかりで押えつけた。
「よし、ここは引き受けた。早くみんなを呼びねえ」
言われるまでもない。明智は鉄管と鉄管との隙間に立ち上がって、大声にわめき立てた。
「オーイ、捕まえたぞお、人間豹を捕まえたぞお……」
そして二つ三つ鉄管を潜り抜けると、別の隙間に立って、同じように叫び、又その次の隙間へと、仲間を呼び集めるふうを装いながら、だんだんと鉄管の列の端へと遠ざかって行った。
ルンペンどもは明智の闇の中の声に指図されて、あとからあとから、捕物のあった鉄管へと急ぐのだ。そして、明智がソッとそとの広っぱへ這い出したときには、もうその辺に敵の影さえなかった。
明智はともかくも闇の中を市街の方に急ぎながら、ルンペンたちの不思議な襲撃について、その奥に潜んでいる意味について、烈しく思考力を働かせた。
ルンペンたちの中に、たとえ恩田を見知っていたものがあったとしても、あの暗闇の中で、それと気のつくはずはない。すると、人間豹の姿をした明智が鉄管の中へ潜り込んだのを知るものは、彼をここに案内した低能児みたいなルンペンと、それから彼に手紙を書いた恩田の父親の二人のほかにはないわけである。
だが、恩田老人にせよ、低能児ルンペンにせよ、味方の秘密を暴露するわけがない。ルンペンどもを使嗾して彼を襲撃させる理由がない。
それにしてもおかしいのは、恩田老人がわが子を呼び寄せておきながら、まったく姿を現わさなかったことだ。いや、そればかりか、わが子が襲撃を受けてあの窮地に立っているのに、まるで救助のけはいさえも見せなかったことだ。明智にしては、なんとなく恩田老人に一杯喰わされたような感じがするではないか。そういう奇妙な感じを与えるところに、何か深い意味があるのではないか。
もし恩田老人が、明智の変装を気づいたとしたら……呼び寄せの手紙に従ってやってきたのが、わが子ではなくて、わが子に変装した探偵だと悟ったとしたら……
そうだ。それに違いない。そう考えれば、すべての謎が解けるのだ。変装と知りながら、それを真実の殺人鬼恩田として、正義心の強いルンペンどもの前に投げ与えるとは、なんという皮肉な報復手段であろう。明智は敵を翻弄している気で、実は敵のために翻弄されたのではないか。いかにも怪老人の考えつきそうな「魔術」ではなかったか。
いや、待てよ。どうもまだ腑に落ちないところがある。いったい、会いもしない老人が、どうして明智の変装を看破することができたのであろう。それでは、あの低能児みたいなルンペンが曲者かしら……そんなはずはない。あれだけのあいだ、自動車に肩を並べていて、それを見破り得ないほど愚かな明智ではない。
暗闇の広っぱを横ぎりながら、あれかこれかと思いめぐらすうちに、やがて、ある恐ろしい考えが、火花のように明智の頭に閃めいた。
「アッ、そうだったのか」
明智は思わず声を出して呟いたほど、激しいショックを受けた。
「すると、すると……ああ、おれはとんでもないことをした。だが、なんという悪魔の智恵だ」
さすがの名探偵も、ある恐ろしい幻影に戦慄しないではいられなかった。
「もう間に合わぬかもしれない。だが、間に合わぬにもせよ、手を尽すだけは尽してみなければ」
彼はやにわに、闇の中を、石ころ道につまずきながら、飛ぶように駈け出した。市街を目ざして鉄砲玉みたいに走り出した。
広いコンクリートの橋を越すと、もうそこに人家があった。やがて、廃墟のような深夜の電車軌道。その四つ辻にポツンと公衆電話が建っている。彼はそのドアを引きちぎるようにして、ボックスにはいると、ポケットの小銭を探りながら、いきなり受話器をはずした。