25話 裏の裏
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一方明智探偵事務所では、明智が人間豹に変装して、自動車に文代さんの身代り人形を乗せて出発すると、事件依頼者の神谷青年も一と先ず自宅に引き上げて行ったので、あとには明智夫人の文代さんと助手の小林少年と女中の三人きりであった。
文代さんは小林少年に表と裏の戸締まりを厳重にするように命じておいて、自分は二階の寝室へとじこもり、内側から鍵をかけて万一の用心をしていた。ベッドの枕元の小卓には、たまをこめた拳銃さえ用意してあった。
異様に緊張した長い長い夜であった。主人の思い切った計略はうまく図に当たるであろうか。もしや失敗するようなことはないだろうか。恩田ばかりでなく、その父親までも一と晩のうちに捉えようなんて、あんまり慾ばってはいないかしら。明智の手腕を信じきっている文代さんではあったが、さすがに案じないではいられなかった。
夜の十時頃、出先の明智から電話があって、小林少年が電話口に出ると、「恩田は首尾よく捕えたから安心せよ。これから父親の方を捜索に出かける。少し遅くなるかもしれない」ということであった。電話が非常に遠くて、よく聞き取れないほど低い声であったが、小林少年は別に疑うこともなく、それを二階の文代さんのところへ取り次いだ。
ところが、ちょうどその電話のベルが鳴った時には、読者も知るように、当の明智小五郎は、人間豹になりすまして、すぐ事務所の前の暗い道を往ったり来たりしていたのだ。それはいうまでもなくにせ電話であった。だが、何者がなんのために、そんないたずらをしたのであろう。このいたずらの奥には、どのような恐ろしい意味が隠されていたのであろう。
それはともかく、また一時間ほどたったころ、玄関のベルがけたたましく鳴り響いた。この夜ふけにお客様があるわけはない。先生がお帰りに違いないと思うと、小林少年は飛ぶように玄関に駈けつけてドアをひらいた。
そこに立っていたのは、果たして明智探偵であった。だが、これはまあなんという変てこな風体であろう。出かけて行った時そのままの、醜悪な人獣のメーク・アップ、薄黒く塗って隈をつけた骨ばった顔、まっ赤な唇、牙のような入歯を含んだ恐ろしい口。その異様な風体の上に、小脇には一人の洋装の女がグッタリと抱えられている。
小林少年はそれを見ると、ハッとして思わず逃げ腰になったが、よく考えてみれば、実はなんでもないことであった。明智が抱えているのは、生きた人間ではない。恩田を捕えるために囮に使ったマネキン人形にすぎないのだ。
「お帰りなさい」
小林少年は丁寧に主人を迎えた。
「この人形をね、さいぜんの木箱の中へ入れておいてくれたまえ。あとから人形屋が取りにくるんだからね」
明智は小林に人形を渡すと、靴を脱いで上にあがった。
人形の木箱は、暗い廊下の突き当たりに置いてある。小林がエッチラオッチラ、マネキンを運んで、その木箱のところへ行くうしろ姿を、明智はなぜかじっと眺めていたが、やがてツカツカとそのあとを追って行って、うしろから少年に抱きつくような恰好をしたかと思うと、そこのドアをひらいて、女中部屋へはいっていった。
探偵は一体なんのために、そんなまねをしたのか。実に奇妙なことであったが、しばらくすると、彼は一人で女中部屋を出て、二人の寝室へあがって行った。
「あら、お帰りなさい」
階段の上で、パッタリと文代さんに出会った。彼女は主人の帰宅らしい様子なので、とじこもっていた寝室をあけて、お迎えのために今下へ降りようとしていたところであった。
明智は「ああ」と答えたまま、先に立って寝室にはいって行った。
「小林も誰もいませんでして?」
文代さんはけげん顔に尋ねる。
「いや、小林には少し用事を言いつけたんだよ。いいからここへ来たまえ」
変装用の入歯のために、明智の声はまるで別人のように聞こえた。
「いやですわ、そんな恐ろしい姿で。早く顔をお洗いなさるといいわ」
「いや、それどころじゃない。ともかく部屋へはいりたまえ。君に話があるんだ」
そして、二人は寝室へはいった。寝室と言っても、そこは文代さんの居間と兼用になっているので、部屋をカーテンで仕切って、一方にベッド、一方にはデスク、テーブル、化粧鏡、数脚の椅子などが整然と列んでいた。それをデスクの上の卓上燈が、薄ぼんやりと照らし出している。
「いや、そのままでいい。暗い方がいいんだ」
文代さんが、壁のスイッチを押して天井の電燈をつけようとすると、明智はなぜかそれを止めて、大きな肘掛椅子に腰をおろした。文代さんはそれに相対して、小型の椅子につく。
「お疲れなすったでしょう。でも、人間豹の身代りがうまくいきましたのね」
文代さんが、大胆不敵な計略を讃美するように言った。
「ウン、僕が運転台を飛び降りて、やつの前に現われた時は、実に痛快だった。そっくりそのままの人間豹が二匹、顔と顔とを見合わせたんだからね」
明智は、シェードの蔭になった醜怪な人間豹の顔で、ニタニタと笑った。
「驚きましたでしょう」
「ウン、みじめな顔をしたぜ。それに、僕のピストルが狙いを定めているんで、やっこさん手も足も出ないのだ。そのまま合図をして、待ち伏せていた刑事たちに引き渡したんだがね」
「じゃ、今頃は警視庁の地下室でうめいていますわ」
「君はそう思うかい」
明智が変な言い方をした。
「でも、そうとしか――」
「ウフフフフフ……ところが、そうじゃないんだよ。君に話したいというのは、そのことなのよ。実はね、恩田は逃げたのだよ」
「まあ……」
文代さんの美しい顔が、ギョッとしたように話し手を見つめた。
「恩田はね、高手小手に縛られ、五人の刑事に守られて、あの自動車で警視庁へ、連れて行かれるところだったのさ。しかし、警官の捕縄は、少なくとも人間豹には、少し弱すぎたんだね。恩田が両腕に力をこめて、ウンとやると、プッツリ切れちまった。それは自動車が貯水池の横の淋しい場所にさしかかった時だったがね。刑事たち驚くまいことか、アッと言って飛びかかってきたが、自由になった人間豹に、五人だろうが六人だろうが、敵いっこはないからね。それにやっこさんたち、悲しいことに飛び道具を持っていなかった。そこで、刑事たちは散々な目にあって、一人残らず自動車からほうり出されてしまったんだよ」
「じゃ、恩田は、その自動車を操縦して逃げましたのね」
「そうだよ。実にいい心持で逃げ出したのだよ」
「でも、そのとき、あなたは、どこにいらっしゃいましたの?」
「僕? つまり明智小五郎だね。その僕は森の中で恩田を刑事たちに引き渡すと、今度は恩田の父親を探しに出掛けたというわけさ」
文代さんは、妙な顔をして、マジマジと話し手を見つめた。入歯のせいとはいえ、今夜の明智は、なんだか他人のように思えて仕方がなかった。それに、この変てこな話しぶりはどうしたのであろう。
「つまり明智小五郎だね」なんて、いつもはこんな気障な言い方をする人ではないのだが。
「それから、恩田の方はどうしたかというとね」明智はなかなか饒舌であった。「その自動車でもって、芝浦へ走ったのだよ。芝浦の水道鉄管置場に、恩田のお父さんが待ち受けていようという寸法なのさ。そこで、親子が相談の上、一人のルンペンに手紙を持たせて、明智の……つまり僕のだね、僕のいる所へよこしたのだ……」
「まあ、それじゃあなたは……」
「僕はそのとき、このうちの前をぶらついていたんだよ。そうしていれば、きっと恩田の父親が探しにくると思ってね。僕は恩田に変装して、やつの身代りを勤めていたんだからね。ところが、おかしいじゃないか。恩田の方ではこの計略をちゃんと知っていたんだ。恩田を捕えた時、僕がつい口をすべらせたもんだからね」
「…………」
文代さんはもう合槌をうつことができなかった。何かしらえたいの知れぬ恐怖が、背筋に迫ってくるようで、身動きもできなかった。
「で、僕はルンペンの案内で、芝浦埋立地へ出かけて行った。明智のやつ、今頃はおそらく、あの鉄管の中でルンペンどもの虜になっていることだろうよ。なぜって、あすこには、鉄管を塒にして二、三十人も、ルンペンがいるんだからね。そいつが人間豹を見つけたら、ただではおくまいからね」
話し手は、そこでまた醜怪な顔をニュッと突き出して、薄気味わるくウフフフフと笑った。
「誰です。あなたは誰です?」
文代さんは、まっさおになって、この奇怪な人物を凝視した。誰ですと聞くまでもない。これが明智自身でないとすれば、もう一人のやつにきまっているのだ。人間豹恩田にきまっているのだ。
「フフフフ、誰でもない、君の亭主だよ。君の可愛い亭主だよ」
彼はふてぶてしく言いながら、ノッソリ立ち上がって、文代さんに近づいてきた。ああどうして今までそれに気づかなかったのであろう。明智の変装なれば、こんなに眼が光るはずはない。怪物の両眼はまるで青い焔のように燃えているではないか。彼の情慾につれて、その火焔が刻一刻燃え熾って行くではないか。
文代さんは、痺れたようになったからだから、最後の力をふりしぼって、サッと立ち上がると、悪魔の手の下を潜り抜け、廊下へ飛び出して行った。
「小林さあん、誰か、早く来て……」
だが、不思議なことに、うちの中はシーンと静まり返って、誰も答えるものはなかった。
「小林? ああ、あの小僧かね。女中部屋にいるんだよ。僕が連れて行って上げよう」
怪物は、すばやく文代さんのあとを追って、恐ろしい力で彼女を抱きしめたまま、無理やり階段を降りて行った。
「さあ、見るがいい。小林も女中も、あの態だ。よくお寝みになっているんだよ」
彼は女中部屋のドアをあけて、文代さんに中を覗かせた。見れば、彼のいう通り、二人のものは、床の上に長々と、気を失って倒れている。むろん悪魔の麻酔剤の効果である。
文代さんは叫ぼうとした。叫んで近隣の救いを求めようとした。だが、いつの間にか、彼女は、唖になっていたのだ。怪物の手の平が、ギュッと鼻口を覆って、呼吸さえ思うようにはできなかった。
「コレコレ、そんなにジタバタするんじゃない。いい子だからね。今に楽にしてあげるからね」
恩田は文代さんをしめつけたまま、まるで人形でもあつかうように自由自在にした。
「君はお人形さんになるんだよ。ほら、ここにちょうど人形箱が置いてある。この中へ、今度は君がお人形さんの身代りになってはいるのだよ。すると、僕が二階の窓から合図をする。その合図に従って運送屋がこの箱を受取りにくるんだよ。運送屋というのは、つまり、僕の手下なんだがね。それからトラックでもって、運ぶ先は、さあ、どこだろうね、当ててみるがいい」
恩田はもう有頂天になって、しゃべりちらした。目的物を獲得した嬉しさと、獲得の手段のすばらしさに夢中になっていた。仇敵明智探偵が智恵をしぼって用意したカラクリを、すっかりそのまま逆に利用してやるのだ。明智の変装も、マネキン人形も、その木箱さえも。なんとまあ素敵な報復手段であろう。
文代さんは気絶するほど弱い女ではなかった。それだけに、この侮辱が一倍はげしく心を打った。なんともいえぬ嫌悪の情にガクガクと身内の震えるのをどうすることもできなかった。
けだものの体臭、けだものの呼吸、けだものの筋力。彼女は真実の豹を感じた。彼女の顔の上に猛獣の顔があった。らんらんと青光りする眼が、ヌメヌメした赤い唇が、そのあいだから覗いているするどい牙が、びっくりするほど大写しになって、一、二寸の距離に迫っていた。
彼女はその赤い唇が、トンネルみたいにパックリとひらくのを見た。すると、暗いトンネルの中から巨大な舌がペロリと現われた。ああ、その舌! 彼女はまざまざと見た。そのドス黒い舌の表面に、まるで針の山のようなするどい突起物が、一面に生え茂って、それが舌の運動につれて、風にざわめく葦に似て、サーッサーッとなびくのを。