人間豹

30話 豹盗人

3,627字 約7分 2019年10月21日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 その夜ふけのことである。

 千束町に店を出している、俗に豪傑(ごうけつ)床屋といわれる大山理髪店の主人が、愛犬の土佐犬を連れて、人気のない浅草公園へ運動にやってきた。

 おかみさんは物騒(ぶっそう)だからといって、さんざん止めたのだけれど、何しろ豪傑と名を取った床屋の親方だから、承知するものでない。第一、人間豹の(うわさ)などにビクビクしていたら、大切な土佐犬が運動不足で病気になってしまうじゃないか。それに、おれだってこの二、三日腹のぐあいがわるくってしようがない。今夜はなんといったって出掛けるんだ。というので、まるで銅像の西郷さんみたいな恰好(かっこう)で、太い手綱(たづな)のような犬の(ひも)を引っぱって、公園の広場へと踏み込んだのである。

「ホオ、驚いたね。やつら一人もきちゃあいねえ」

 団十郎の銅像のあたりから、(いけ)(はた)まで歩いてみて、親方は感心したように(つぶや)いたものだ。

 ふだんなれば、映画館がハネてしばらくすると、浅草界隈(かいわい)の犬持ちどもが、朱や紫の房のついた紐を、自慢そうに肩にかけ、獰猛(どうもう)な和洋さまざまの犬どもを引きつれて、運動にやってきているのだが、今夜は一匹の犬の影さえも見えぬ。

「いくじのねえ野郎どもじゃねえか。ノウ熊」

 顔なじみの連中の姿が見えぬので、愛犬に話しかけでもするほかはなかった。熊と呼ばれた土佐犬は、いかにもその名にふさわしい恰幅(かっぷく)である。

「だがこいつあ静かでいいや」

 どうも少し静かすぎるのだ。映画街はと見れば、昼間の雑沓(ざっとう)に引きかえて、まるでローマの廃墟(はいきょ)みたいに死に絶えているし、飲食店や茶店なども、すっかり大戸を閉めて、空き家のように静まり返っている。池をとりまく小山の樹木が、思い出したような夜の風にザワザワと鳴るほかには、なんの物音もない。いつもなれば、本堂の前の敷石道には、夜通し駒下駄(こまげた)の音が絶えないのだが、そういう信仰家たちも人間豹には恐れをなしたものとみえる。

 大山理髪店主は、やっぱり西郷さんの恰好で、無人の境をノッシノッシと歩いて行った。通り過ぎるベンチというベンチが空っぽだ。ルンペンどもも命は()しいのである。これがあの浅草公園だろうか。戸惑(とまど)いをして飛んでもないところへ来たんじゃないかしら。それともおれは、今わるい夢を見ているのではなかろうか。ふとそんな疑いが起こるほどであった。

 池を一とまわりして、樹立(こだち)のあいだの狭い道を通り抜けると、眼の前に円形の広っぱがひらけた。たった一つの常夜燈が、その全景を朧月夜(おぼろづきよ)ほどにボンヤリと照らしている。

 向こう側の樹立は、闇に溶け込んでほとんど見分けがたいほどであったが、その樹立のあいだをチロチロと動く人影がある。よく見ると、その人は犬を連れている。しかもどうやら二匹らしいのだ。

「おや、感心なやつじゃねえか。熊公見ろよ。おまえの友だちがやってきたぜ」

 親方はその方へ近づいて行こうとした。この勇敢(ゆうかん)な愛犬家の顔を確かめて、一とこと口がききたかったのである。だが、どうしたことか、熊公は、しりごみをして動こうともしない。

「おい、どうしたっていうんだ」

 振り向いて見ると、彼の愛犬はまるで(おおかみ)のように、背中の毛を逆立て、上唇に恐ろしい(しわ)を寄せ、歯をむき出して、(のど)の奥で遠雷(えんらい)みたいな音を立てている。どうも不思議だ。老犬熊公がこんなそぶりをするなんて、めったにないことであった。

 親方は力の強い犬のために、だんだんうしろへ引きずられながら、樹立のあいだへ身を隠すようにして、前方の人影を見つめた。

 二匹の犬を連れた異様の人物は、樹蔭(こかげ)を出て常夜燈の薄明かりの下を右から左へと横ぎっていた。黒い詰襟(つめえり)の服を着た()せたお(じい)さんだ。まっ白な頭髪、それに房々とした白ひげが胸まで垂れている。親方はこれまで、こんな妙な爺さんをついぞ見かけたことがなかった。

 老人は傍目(わきめ)もふらず、しずしずと歩いて行く。何かしら気違いめいた、この世の人ではないというような感じが、身辺にただよっている。不思議なことには、二匹とも犬は綱がつけてない。動物どもは老人の歩くまにまに、眼に見えぬ糸で引かれるように、彼のあとに従っているのだ。

 だが、なんて大きな犬だろう。それにあの歩きかたのしなやかさはどうだ。犬ではなくて(ねこ)みたいじゃないか。やがて、その妙なけだもののからだ一面に、まっ黒な美しい斑点(はんてん)のあることがわかってきた。犬じゃない。といって、あんなでっかい猫なんているはずはない。すると、すると、あいつは、いったい……

 見つめていると、そのものの正体は一と息ごとに明らかになって行った。あざやかな斑紋(はんもん)、がっしりと太い四肢(しし)、生きているような長い尻尾(しっぽ)、まっ青に光る両眼、もう見違いはない。(ひょう)だ。豹が野放しで歩いているのだ。

 だが大山親方は、このあまりに非常識な光景を(にわ)かに信ずることができなかった。公園の中を猛獣を連れた老人がノコノコ歩いて行くなんて、おれの眼がどうかしているのじゃあるまいか。それとも夢でも見ているのかしら。

 ところが、ふと気がつくと、その豹のうしろからついて行くもう一匹のけだものは、さらに一そう驚くべき怪物であった。実に不思議千万なことには、そいつは洋服を着ていた。まっ黒な洋服を着ていたのだ。そして、前脚よりも後脚が二倍も長くて、それが普通の動物とは反対に曲がっている。しかもその脚の先には(くつ)をはいていたではないか。大きさといい、恰好(かっこう)といい、どうやら人間らしいのだが、人間が豹と一緒に四つん()いになって歩いているなんて、これはまあどうしたことだ。

 親方がほとんど虚脱の状態におちいって、身動きする力さえなく、汗を流してそこにたたずんでいるあいだに、恐ろしい一行は空き地を横ぎり終って、左手の茂みの中へ姿を隠して行ったが、そのとき最後の洋服を着た怪物がヒョイとこちらの方を振り向いた顔、ああ、その顔の恐ろしさを、親方は一生涯(いっしょうがい)忘れることができなかった。

 そいつはまぎれもない人間豹であった。例のポスターの似顔絵とそっくりのやつであった。まん丸い両眼は、本物の豹よりも一そう(はげ)しく燐光(りんこう)に燃えていた。そして、その恐ろしい眼の下で、まっ赤な口をキューッと三日月型にして、白い(きば)をむき出して、何がおかしいのか、ニヤリと笑ったのである。

 そのあいだ、熊公は恐ろしい形相(ぎょうそう)(のど)を鳴らしつづけていたが、洋服を着た四足獣が茂みに隠れるか隠れないに、もう我慢ができなくなって、(はげ)しく咆哮(ほうこう)しながら、いきなり親方の手を振り切って、怪物のあとを追って飛び出して行った。(まり)のように()けて、一瞬間に空き地を横ぎり、向こうの茂みに見えなくなってしまった。

 だが、床屋の親方は愛犬のことなど構っていられなかった。彼自身の命の問題であった。無我夢中で反対の方角に駈け出した。走りに走って、本堂の前の交番へころがり込んだ。

「豹が、豹が……」

 彼は交番のドアにすがりついて、(はる)か池の方を指さしながら、気違いのように叫びつづけた。

「豹」という言葉が警官を異様に刺戟(しげき)した。急いで聞きただしてみると、果たして「人間豹」の出現であった。いや「人間豹」以上の大奇怪事であった。

 たちまちこの事が本署に電話された。間もあらせず一隊の警官が、ピストルをたずさえて現場に急行した。だが、いかに手早く運ばれたといっても、そのあいだに相当の時間が経過している。ものものしい警官隊が駈けつけたころには、広い公園内を隅から隅まで探しまわっても、もうそれらしいものの影さえ見えなかった。

 しかし床屋さんの申し立てが、決して夢や幻でなかった証拠(しょうこ)には、彼が猛獣の姿を見た現場からほど遠からぬ木立の中に、愛犬熊公の無残に食い裂かれた死骸(しがい)が、まっ赤な布屑(ぬのくず)みたいになって横たわっているのが発見された。

 それにしても、いくら都会のジャングルだといって、東京の浅草公園を、熱帯動物の豹がノコノコ歩いていたなんて、あまりに突拍子(とっぴょうし)もない話ではないか。人間豹の方はともかくとして、本物の豹だけは、見かけによらず臆病(おくびょう)な床屋さんの幻覚であったに違いない。警官たちをはじめ、この(うわさ)を聞き知った人々は、そんなふうに考えていた。

 ところが、その翌日になると、その幻の豹が、なんと正真正銘の猛獣に違いなかったことが判明した。その朝浅草名物「花やしき」の支配人が青くなって警察署に出頭した。そして、同園秘蔵の牝豹(めすひょう)がゆうべのうちに(おり)の中から姿を消してしまったと申し出でた。それも決して動物自身が檻を破ったわけではなくて、何物かが合鍵(あいかぎ)を手に入れて、檻の(とびら)をひらいた形跡があるというのだ。

 檻をひらいた曲者(くせもの)というのは、例の白髪白髯(はくはつはくぜん)の老人、つまり「人間豹」恩田の父親に違いない。だが、一体全体なんの目的で、そんなむちゃなことをしたのであろう。ただわけもなく猛獣を(ちまた)に放して、市民を恐怖せしめて快哉(かいさい)を叫ぶためであろうか。それとも、もっと別の深いわけがあったのではなかろうか。まさか「人間豹」がお友だちを欲しがったというような、ばかばかしい動機からではないであろう。

目次に戻る

目次