29話 公園の怪異
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人間の姿をした猛獣は、彼に最もふさわしい隠れが、都会のジャングルに逃げ込んだのである。山あり池あり林あり、それに大小さまざまの建物が、あらゆる形態、あらゆる角度をもって雑然紛然と立ち並ぶ大通り、横丁、抜け道……東京じゅうのどこを探したって浅草公園ほどよくできた迷路があるだろうか。しかも、そこには年がら年中、おびただしい群衆が目まぐるしくウヨウヨと動きまわっている。その人工ジャングルの中にまぎれ込んだ犯人をさがし出すなんて、火鉢に落ちた銀貨をさがすよりもむずかしいことに違いない。
その翌早朝、警視庁と所轄警察署との混成私服隊が編成された。そして、さまざまに姿を変えた刑事たちは、公園の四方から、住宅、商店、飲食店の嫌いなく、ほとんどシラミつぶしに捜索の輪をせばめて行った。ルンペンどもは狩り立てられるし、浅草寺本堂の天井から床下、五重の塔は申すに及ばず、仁王門の大提燈の中まで調べるという綿密さであったが、二日間はなんの収穫もなく過ぎ去った。
二日目には、恒川警部の発案になる、奇妙なポスターが浅草界隈の辻々に、ベタベタと貼り出された。ポスターのまん中には画家に描かせた人間豹恩田の似顔が、実物の二倍の大きさで印刷してある。その下に「これは近頃世間を騒がせている殺人犯人恩田の似顔です。こういう人物を発見されたかたは猶予なくもよりの交番へ知らせてください」とわかりやすい文章で振り仮名つきでしるしてあるのだ。その似顔絵は、かつて大都劇場で人間豹の形相を目撃した一洋画家が、明智夫妻の口添えで描いたものであったが、非常に特徴のある獣人の似顔は、記憶によって充分に表現することができたのである。
警察としては実に思い切ったこのポスター戦術は、辻々に人の黒山を築いた。恐怖におびえた眼が醜悪な似顔絵に集中された。人間豹に関する恐ろしい噂話は、輪に輪をかけて、大衆のあいだに流布されていた。
「ワア、すげえ。こいつの眼は、暗いところでもまっ青に光るんだってよ」
「牙があるぜ」
「ほんとだ。牙がありゃがる。犬でもなんでもモリモリ食っちまうってじゃねえか」
「違うよ、犬じゃねえ。人間の女を食うんだよ」
「いやなものを見ますね。こんなものがはいってきたんじゃ、公園もさびれますねえ」
「僕は、こいつを見たことがありますよ。ほら大都劇場の例の騒ぎのときですよ。この絵とそっくりです。いや、こんなおとなしい顔じゃなかった。こいつがね、レビューの舞台のまん中に立って、見物席を睨みつけて、この牙をむき出して、ウォーッと吠えたときには、実にどうも、なんといっていいか、生きたそらはなかったですよ」
「へええ、あなたは、あれをごらんなすった? 私も話は聞いてますが、江川蘭子が舞台の上で血みどろにされたっていうじゃありませんか」
「そんな古いことよりも、おいら、たったゆうべこいつにお眼にかかったんだぞ」
「どこで? どこで?」
「お堂の裏の大銀杏ですよ。おいら、あの下に寝ていると、誰だか頭を踏んづけやがった。びっくりして飛び起きると、あの大銀杏を、まっ黒なものが、スルスルッと、猫みてえに登ってくじゃあねえか。ヤイッてどなりつけてやると、そいつが木の上から、おいらを睨みつけやがった」
「こんな顔だったか」
「そうよ。まっ青な眼がお星さまみてえに光りゃあがるのさ。おいら、あとも見ねえで駈け出しちゃったよ」
「おまわりさんに言えばいいじゃないか」
「言ったよ。言ったんだけど、おまわりが大銀杏を探しに行ったときには、もうなんにもいやあしなかったよ」
ルンペンも、新聞売りの小僧も、中学生も、青年団員も、商店の御隠居も、通りがかりの会社員も一つになって、恐ろしいポスターの主人公について論じ合った。
床屋でも、銭湯でも、映画館の見物席でも、人さえ寄れば、「人間豹」の噂であった。さまざまの怪談が創作され、それが尾ひれをつけてひろがって行った。
どこかのおかみさんが、共同便所のドアをひらくと、その中にまっ青な眼の人間豹がしゃがんでいたという怪談もあった。
真夜中に、仁王門の高欄の上から、まるで石川五右衛門みたいに、人間豹が頬杖をついて、仲見世の通りを見おろしていたという怪談もあった。
毎夜観音さまへお詣りする若い芸者が、友だちと二人づれで、仁王門を通りすぎたとき、その一人がなにげなく門の天井を見上げたのだが、すると、例の奉納の大提燈の上に、なんだか人間の首らしいものが、まるで獄門みたいに、ヒョイと覗いているのが、仲見世の遠明かりに、ぼんやり見えていたという。
一人が天井を見上げて立ち止まったので、もう一人もいっしょになって、その方を見ると、確かに人の首、しかも両眼が燐のように青く燃えていた。
二人とも、喉がつまって、足がしびれて、そのまま気絶しそうになるのを、やっとの思いで抜き足さし足、門の下を離れたかと思うと、いきなりキャーッと悲鳴を上げて、仲見世の方へ駈け出したというのである。
警察が仁王門の大提燈の中まで捜索したのは、そういういきさつからであった。そのあいだに逃げてしまったのか、最初から若い女の幻覚にすぎなかったのか、調べたときには、むろん提燈の中は空っぽであった。
怪談は怪談を生んで、歓楽境はたちまち恐怖の巷と化して行った。昼間はともかく、夜にはいっては、一歩映画街を離れると、あの広い公園が、墓場かなんぞのようにまったく人影を見ないというさびれ方で、今や浅草公園は、遊覧客の代りに、私服刑事と、青年団員と、物好きな野次馬とで占領されたといってもよいほどであった。
ポスターの貼り出された翌朝、それらの辻々は、又別の意味で、黒山の人だかりであった。というのは、実に異様なことには、その一夜のうちに、ポスターの似顔絵がまったく一変してしまったからである。
「変だね、誰がこんないたずらしたんだろう。あっちのポスターにも同じのが貼りつけてあるよ」
「人間豹の代りに、今度はばかに色男じゃないか。どっかで見たような顔だね」
そういう意味の言葉が、人だかりの中であちこちに取りかわされていた。
人間豹の似顔の上から別の紙を貼りつけて、それに肉筆でなかなか好男子の顔が書いてある。どのポスターも皆同じ顔の絵と変っているのだ。何者かが夜のあいだに、丹念に歩きまわって、ポスターというポスターに、そういう同じ似顔絵を貼りつけておいたのに違いない。
「ああ、わかった。この似顔はアレだぜ、人間豹の敵の顔だぜ」
群衆の中に、やがて、それと気づいたものがあった。
「敵って、誰だい?」
「わかってるじゃないか。明智小五郎さ。人間豹は明智のためにひどい目にあったっていうじゃないか」
「ウン、そういえば、明智さんだ。明智さんにそっくりだ」
いかにも、それは明智小五郎の似顔に違いなかった。ひげのない痩せた顔、モジャモジャした頭髪、特徴のある濃い眉毛、なかなかよくできた名探偵のカリカチュアであった。人々は新聞の写真で、この顔にはおなじみになっていたのだ。
「おい、こいつは滑稽だぜ。下の文句を読んでごらん。つまり明智小五郎がお尋ねものの殺人鬼ってことになるんだぜ。ひどいじゃないか。一体だれがこんなまねをしゃあがったんだろ」
「まさか警察じゃないやね」
「明智さんに恨みのあるやつの仕業かもしれない」
「恨みのあるやつっていえば、つまり、人間豹じゃないか」
誰かがそれをいうと、黒山の群衆がシーンと静まり返ってしまった。あまりに恐ろしい、しかも的確な推定であったからだ。
寝静まった真夜中、あのまっ青に光る眼の怪物が、呪いの独りごとをつぶやきながら、黒い風のように歩きまわって、仇敵、明智小五郎の似顔絵を貼りつけて行ったという、そのなんともえたいのしれぬ光景が、人々を心底からゾッとさせたのである。
やっぱりあいつは、浅草公園のどこかの隅に身を潜めていたのだ。もしかしたら別の方面に逃げ出してしまったのではないかという空頼みも仇となった。地元の人々は警察の無能を叫び出した。刑事や青年団員の戸別訪問が又くり返された。だが、その日も別段の収穫もなく暮れて行った。