32話 熊
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明智がチンドン屋の跡を追って谷底の抜け道から裏通りへと曲がって行ったとき、「よいとまけ」姿の文代さんは、一と足おくれて、ちょうど抜け道の中ほどを歩いていた。
道の片隅に、低い鉄の欄干があって、そこから狭くるしいコンクリートの階段が、建物の地下へと、陰気なほら穴のようにくだっていた。映画館の地階を区画した地底カフェの入口である。
文代さんが今その欄干のそばを通りすぎたとき、ほら穴の階段から、サッと黒いものが飛び出してきたかと思うと、いきなり彼女の背後から組みついて行った。
文代さんが両手を上げるのが見えた。だが、声を立てる暇はなかった。黒いハッピを着た男と「よいとまけ」の女とが、一とかたまりになって、異様な生人形のように動かなかった。男の手はうしろから女の口へ、そこに白い布屑みたいなものが、猿ぐつわのように圧しつけられていた。
やがて、男はグッタリとなった文代さんを、軽々とあつかって背中におぶったかと思うと、傍若無人にもその異様な姿で、映画街の表通りの雑沓の中へと歩いて行った。
男はきたないハッピ姿の人夫のような風体であった。破れたお釜帽子の鍔が鼻の頭まで垂れ下がって、その下から五分も伸びた顔じゅうの無精ひげが黒々とのぞいていた。それが女房とも見える「よいとまけ」女をおぶって、人波をかき分けながら急ぎ足に歩いて行く。しかも背中の女は気を失ってグッタリとなっているのだ。女の両手が男の胸のあたりにブランブランと揺れているのだ。これが道行く人の注意を惹かぬわけはなかった。何百という顔が一斉に彼のうしろ姿にそそがれた。
だが、男はそんなことをまるで気にもとめない様子で、ドンドン歩いて行った。眼の前に六区の交番があって、色の白い美男のおまわりさんが立ち番をしている。男はずば抜けた機智をもって、そのおまわりさんの真正面に立ち止まって、声をかけた。
「女房のやつがテンカンを起こしゃあがって、しようがねえんです。どっかお医者さんをお世話願えませんでしょうか」
おまわりさんはそれを聞くと、迷惑そうな顔をした。
「医者って、かかりつけの医者はないのか。お前どこのもんだ」
「へえ、三河島のもんですが」
「三河島? フン、そうか。この辺に知合いもないんだな。テンカンなら心配したことはないだろう。しばらくほうっておけばなおるんだろう」
「でも、なんとか手当てがしてやりたいんで。わっしの身になっちゃ、ほうっておくわけにもいきませんからね」
男はちょっと憤慨して見せた。
「そうか、それじゃ、実費診療所へでも担ぎこむがいい。実費診療所知ってるだろう。本願寺の裏手にある」
おまわりさんはそれ以上取り合ってくれなかった。そして、それが男の思う壺であったのだ。彼は女をおぶったまま、走るようにして映画街を抜け、いずこともなく姿を消してしまった。
文代さんが麻酔の夢からさめたとき、彼女はどこともしれぬ赤茶けた畳の、薄ぎたない部屋にころがっていた。
「気がついたかね。明智の奥さん、とうとうおれは君を手に入れたぜ」
ハッピ姿のひげもじゃの男が、顔の上にのしかかるようにして、毒々しく呼びかけている。
「ハハハハハ、まだ頭がハッキリしないとみえるね。さア、もう眼をさますがいい」
男の一種異様の匂いを持った温かい息が、ムンムンと顔にかかってきた。
「まあ、ここはどこですの? そして、あなたはいったい……」
文代さんがギョッとして起き上がろうとあせりながら、詰問するように叫んだ。
「おれかね?」
すると男は、相手の苦悩を玩味しながら、ゆっくりゆっくり答えた。
「おれは君のよく御存知の者だよ。ほら、この声に聞き覚えはないかね。ついこのあいだ、君の家の書斎で話し合ったばかりじゃないか」
文代さんは、青ざめて、眼を大きく見ひらいて、だまったままの男の顔を見つめている。
「ハハハハハ、顔が違うというのかね。それじゃ今見せてあげよう。さあ、この顔だ。まさかこの顔を忘れやしまいね」
男は眼を隠していたお釜帽子を叩き捨てるようにぬぐと、顔じゅうに伸びた無精ひげをモリモリと剥ぎ取って行った。
「ああ、恩田……」
文代さんは男のそばを飛びのきながら、悲鳴を上げた。
「わかったかね。その恩田だよ。もう一つの名は人間豹っていうのだそうだね。君たちはうまい名をつけてくれた。フフフフフ、おっと文代さん、逃げようたって逃がしゃしないよ。それから、君がいくら大きな声を立てたって、ここには近所というものがないんだから、なんの役にも立ちやしないよ……気の毒だが観念するほかはあるまいぜ」
醜悪なけだもののくせに、まるで芝居のせりふみたいなことを言いながら、人間豹は身を縮めた餌食の上にジリジリと迫ってきた。
野獣のように骨ばった黒い顔、ギラギラと青く光る巨大な眼、まっ赤な唇、ドキドキと研ぎすましたようなするどい歯、それが徐々に徐々に、文代さんのおびえた眼界一杯に、途方もない大写しになって接近した。
事実逃げようとて逃げる余裕はなかった。といって、この強力無双の怪物に打ち勝つなど思いも及ばぬことであった。多くの女性は多分泣きわめきながら獣人の餌食となるほかはなかったのであろう。だが、文代さんはそうはさせなかった。
長い無残な悪戦苦闘であった。文代さんの美しい顔は拳闘選手のように傷つき、着物はズタズタに裂け破れた。あばら骨が浮き上がるほどの息遣いに、喉は涸れ、舌は黒コゲのように干からびてしまった。人間豹さえも、顔じゅうに脂汗を浮かべていたほどの戦いであった。
むろん文代さんは死ぬほどの目にあわされた。だが、最後の一線を譲ることはなかった。それを死守する余力だけは残っていた。さすがの悪魔もあまりにも頑強な女性の力にあきれ果てて、愛慕から逆転して憎悪へと、第二の手段に移るほかはなかった。
「ヘヘヘヘヘ」
悪魔のまっ赤に充血した口から、昂奮のあまりの調子はずれな笑い声がほとばしった。
「貴様、それじゃ早く殺されたいんだな。おれの方ではそれも望むところだよ。ちゃんと計画してあるんだ。思い切り奇妙な死刑の方法が考えてあるんだ。フフフフフ、文代さん、恐ろしくはないかね……それとも思い直しておれの大事なお客様になるか。え、その気になれないのかね」
「…………」
「ヘヘヘヘヘ、怖い顔をして睨みつけたね。だが、今にそいつが泣きっ面に変るんだ。その時になって後悔しないがいいぜ」
人間豹は倒れ伏した文代さんに顔を向けたまま、ニタニタ薄気味わるく笑いながら、横歩きに押入れの前に近づくと、その襖をガラリとひらいた。
押入れの中に大きな木箱が見えた。器械を送る荷造り箱のような厚い板の頑丈な箱だ。恩田はその蓋をひらいて、中から何かを掴み出した。
文代さんは明智の力を信じきっていた。相手が魔物なれば、彼女の夫は超人である。決して殺されることはない。必ず助けてくれる。名探偵明智小五郎は意想外の手段によって、不可能を可能にするのだ。最後の最後まで力を落とすことはないと、固く信じきっていた。
だが、人間豹の怪しげな言葉を聞き、さも自信ありげなせせら笑いを耳にすると、さすがに脅えないではいられなかった。ちょうど外科患者が手術台やメスの棚をドキドキして盗み見るように、押入れの中の異様な箱に、そこから取り出された一物に、眼を注がないではいられなかった。
人間豹が魔術師のようなゼスチュアで箱の中から引きずり出したものは、ひどく嵩張った黒くてグニャグニャした、何かしらゾッとするようなものであった。
はじめのうちは、薄暗い押入れの中で、その正体を見届けることができなかったけれど、やがて、それがズルズルと明るみに持ち出されるに従って、そのものに顔のあることがわかってきた。尖ったまっ黒な顔だ、キラキラ光る眼、ガックリひらいたまっ赤な口、ニョキと覗いた大きな牙、そして、深々として黒い毛むくじゃらの胴体、するどい爪のはえた四本の足。
熊だ。人間豹が熊を掴み出したのだ。しかし、あんなにグニャグニャしている様子では、生きてはいない。では熊の死骸なのか。いやいや、死骸にしてはお腹がひどくペチャンコだ。すると剥製の毛皮なのかしら。だが、どこやら毛皮とも違うところがある。毛皮ならああまで生きものの感じが残っているはずはない。
「ヘヘヘヘヘ、怖がることはない。まだ喰いつきやしないよ」
人間豹は毛皮をムクムクもてあそびながら、文代さんに近づいてきた。彼は「まだ喰いつきやしないよ」と言った。では、いつかはこの熊が生き返って彼女を喰い殺すというのだろうか。まさかそんなばかばかしいことが起こるはずはない。そういう意味ではなかったのだけれど、あとになって考えると、このなにげない言葉の中に、実に身の毛もよだつ恐ろしい暗示が含まれていたのである。
「これは熊の衣裳だよ。人間がこの中へはいって、四つん這いになって、熊のまねをするんだ。おれがはいるんじゃない。むろん君がこれを着るんだよ。そして、君はたった今から、熊になるんだ。恐ろしい猛獣になりきってしまうんだ。死んでしまうまで、もう二度と人間世界には戻れないのだ」
人間豹の語調はだんだんやさしく変って行った。そして、それと反比例して言葉の内容は恐ろしくなりまさった。
「さあ、いい子だから、おとなしく着更えをするんだよ。先ずそのバッチイのをぬいでと……」
恩田の無気味な指先が、文代さんのからだから裂け破れた半纏などを、一枚一枚とはがしていった。最初のうちは抵抗をこころみたけれど、相手の目的が一変してしまったのだから、さいぜんのように死力を尽す必要も感じなかったし、それに第一からだじゅうの力という力が絞り尽されて、これ以上の抵抗はまったく不可能であった。彼女はほとんど夢心地のうちに着物をはぎとられ、その上から温かい熊の毛皮をスッポリとかぶせられてしまった。
毛皮の腹部を切りひらいて、シャツのように隠しボタンがつけてあるので、それを着てボタンをかけてしまうと、どこにも継ぎ目のない完全な生きた熊が出来上がる。人間の足と熊の後足とはむろん形が一致しないのだけれど、その部分に巧妙な細工がほどこしてあって、そとから見たところでは、少し後足が太い感じがするくらいで、そっくり本物の熊である。
「さあ、お熊さん、あんよだよ。あんよをするんだよ」
恩田は猫なで声で言いながら、いつの間に用意していたのか、猛獣使いの短い鞭を取り出すと、恐ろしい勢いで、可哀そうな熊のお尻を叩きはじめた。しなやかな鞭が空気を切って、パン、パンと部屋じゅうに鳴りわたった。
熊の中の文代さんは、むろん這い出す気持などなかったけれど、じっとしていると、恩田が両手で腰を持ち上げて、グングン押すものだから、その惰性で二た足三足は這うことになる。それを何度も何度も繰り返しているうちに、この奇妙な人間熊は、とうとう部屋を一周してしまったのであった。
実におかしいとも恐ろしいとも名状のできない光景であった。空き家のように道具のないガランとした部屋の中、赤茶けた畳の上で、猛獣使いがはじまったのだ。大きな熊が芸当を仕込まれているのだ。
使われているのはほんとうの人間、皮一枚の下は美しい文代さんの丸はだかだ。そして、猛獣使いの方はというと、ハッピを着て二本の足で立ってこそいるものの、彼自身一匹の猛獣なのだ。豹の眼と豹の牙と豹の舌と、それから豹の心を持った獣人なのだ。途方もない漫画である。世にも恐ろしい残虐な漫画である。
だが、「人間豹」は一体全体なにをしようというのであろう。ただ熊の皮を着せてもてあそぶのが最後の目的ではないらしい。文代さんの行く手には、もっともっと恐ろしいことが待ち構えているのに違いない。恩田は「死刑」という言葉を使った。それは果たしてどのような残虐を意味するのであろうか。
「では、きょうはこのくらいにしておきましょうね。さあ、さあ、お熊さんは檻の中でおとなしくしているんですよ」
恩田は熊を押入れに追い込んで、例のがんじょうな木箱の中へ抱き入れ、上から蓋をしてしまった。
「お熊さん、お腹がへったでしょうね。いま持ってきて上げますよ。お前の好物の兎の生きたやつをね。しばらく待っているんですよ」
そして、ピシャンと押入れの襖がしまった。
文代さんはもう身動きすることも、見ることも、聞くこともできなかった。ただ地獄の暗闇と、墓場の静寂があるばかりであった。墓場といえば、身じろぎもできない木箱の中は、なんとやら棺桶を連想させた。しかも地底に埋められた棺桶を。
だが、まさか文代さんをこのままにしておいて餓死させるというのではあるまい。「人間豹」の死刑はそんな生やさしいものではないであろう。ああ、いったいあいつは何を考えているのだ。熊の皮がそれにどんな関係を持っているのだ。早く知りたい。いかほど恐ろしいことにせよ、知らないよりはましだ。想像の届かぬ恐怖には耐えられぬ。