人間豹

33話 恐ろしき借家人

4,690字 約9分 2019年10月21日 公開

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 愛妻文代さんの姿を見失った明智小五郎の狼狽(ろうばい)は無理もないことであった。名探偵だとて人間である。時には失策もすれば、狼狽もする。ただ彼の偉さは、精神的打撃を長引かせないことであった。たとえ失策をすればとて、結局においてはその失策を取り返してあまりあるほどの、智力と活動力を持っていることであった。かくのごとき人物にあっては、失策も失策ではない、狼狽も狼狽ではない。

 彼は現場付近を走りまわって、何かの手掛りを(つか)もうと(つと)めたが、見込みがないと悟ると、最寄りの商店の電話を借りて、事の次第をK警察署の捜査本部に急報した。ちょうど警視庁の恒川警部も来合わせていたので、充分手配を依頼することができた。

 それから少し落ちついた気持になって、彼は例の六区の交番にも立ち寄ったが、運のわるいことには、「人間豹」と応対した美男のおまわりさんは、ちょうど少し前に別の人と交替していて、テンカン女の事を聞き知るすべもなかった。もし明智があの奇妙な出来事を耳にしたならば、たちまち何事かを悟り、正確な捜査方針を立てることもできたのであろうが、ほんの一分か二分の()い違いのために、思いもよらぬ結果を()き起こすこととなった。

 文代さん捜索のことは、すでに恒川警部が手配してくれているのだけれど、明智ともあろうものが、愛妻の事件をお上まかせにしておくはずはなかった。彼は映画街を中心に、(ある)いは表通り裏通りと、足にまかせて歩きまわった。それがもう日頃の冷静を失っている証拠(しょうこ)でもあった。彼は元来「足の探偵」ではなかったのだから。

 それからしばらくして、彼はとある裏通りの八百屋(やおや)の店の前に、なにげなくたたずんでいた。青物を並べた店先に、近所のおかみさんらしいのが三、四人買い物をしている。ふと気がつくと、その中の一人が妙なことをしゃべっていた。

「それが変なのよ、あんた。まるで顔も姿も見せないんですもの。あたしの所から三度の御飯を運んで行くでしょう。それをね、だまって台所の障子をあけて、板の間へ置いて帰るのよ。そうしてくれっていう固い約束なのさ。しばらくしてお膳を取りに行くでしょう。すると綺麗(きれい)に中身がなくなって、空のお(ひつ)とお膳とが、ちゃんと元の場所に出してあるのよ」

「まあ、いやだわねえ。そして、お前さん、その人を見たことがあるのかい」

「それがないんだよ。最初引越してきた人は、まあ立派な紳士だったんだけれどもね。どうもその人じゃないらしいの」

「へええ、なんだか気味がわるいみたいな話だわね。でも、あんた、どうして人が違うってことわかって?」

「手を見たのよ。顔は見ないけど手だけを見たのよ」

「手がどうしたっていうの?」

「けさね、あいたお膳を取りに行って、障子をあけるとね、少しあたしの行き方が早かったのさ、ちょうど御飯がすんだところと見えて、茶の間とのあいだの障子が細目にあいて、そこから(から)のお膳を板の間へ出している二本の手が見えたんだよ。その手がね、あたしのあけた障子の音にびっくりして、サッと引っ込んだかと思うと、いきなりピシャッと茶の間の障子をしめて、ガタピシ二階へ逃げて行く足音がしたんだよ」

「まあ、よっぽど人眼を忍んでいるのねえ。でも、その手だけを見て人違いとわかったの?」

「ええ、あたしゃ、あんな気味のわるい手は見たことがないわ。薄黒くって毛むくじゃらで、いやに筋張っていて、指が長くって、指の先にはまっ黒になった(つめ)が三分も伸びているのさ。最初あの家を借りた紳士は、決してそんな人柄じゃなかったのよ」

「いやねえ。じゃあその人、家にとじこもってて、そとへ出ないんだわね」

「ところが、時々はそとへ出るらしいのよ。それもこっそり出掛けるとみえて、ついぞ見かけたことはないんだけれど、でも、出掛けている証拠(しょうこ)には、いつの間にか二人になっているんだものね。どっかから女でも引っ張り込んだらしいのよ。そして、おかしいじゃないか。おひるのお膳の上に手紙がのっかっているのさ。晩から二人分持ってきてくださいって」

「あんた、それをほうっておくつもり?」

 聞き手のおかみさんが、声をひそめて、まじめな顔になって尋ねた。

「どうしようかと思っているのさ。うかつなことをしては、あとが怖いしね」

「でも、それがもしや、あれだったら」ぐっと顔を近づけてささやき声になって「人間(ひょう)だったら大変じゃないの?」

 ここまで聞けばもう充分であった。明智はいきなり話し手のおかみさんに近づいていって、彼の本名を名乗った。すると、おかみさんは、近頃評判の名探偵の名をよく知っていたので、スラスラと話が運んだ。

 そのおかみさんは付近の仕出し屋の主婦であった。お膳を運ぶ先というのは、つい四、五日前からふさがった小さな借家で、あんまりひどいあばら家なのと、裏は(へい)ひとえで「花やしき」の動物小屋だし、両隣はどっかの物置き場になっていて、なんとなく気味のわるい場所だものだから、長いあいだ借り手がつかなかったというのである。

 借り手は独身ものの立派な紳士であったが、おかみさんのところから三度の食事を運ぶこと、うちに人がいようといまいと、必ず一定の場所へお膳を置いて帰ること、決して台所から中へはいってはならぬことなどを固く約束して、一か月分の前金を支払った。しかし、現在住んでいるのは、今もいうとおり、決してその紳士ではないというのであった。

「僕が一度その家をしらべてあげよう。もし怪しいやつだったらすぐ警察に引き渡すし、そうでなかったら君のうちに迷惑のかからぬように、僕がうまくしてあげるから。どうだね。そこへ案内してくれないだろうか」

 明智が説き聞かせると、おかみさんはすぐさま承知して先に立った。そして家主にも諒解(りょうかい)を得てもらった上、問題の借家の台所口につくと、おかみさんを帰して、明智はただ一人、相手に悟られぬよう注意に注意して、ソッと屋内に忍びこんで行った。

 家の中はガランとして道具も人気(ひとけ)もなかった。音を立てぬように階下を調べ終ると、次には二階であった。おかみさんの話にもあったとおり、怪しい男は二階に住んでいるらしいのだ。

 明智は変装などする場合には、(こと)さら探偵七ツ道具を忘れなかった。小型ピストルもそのうちの一つである。彼はポケットの中でそのピストルを握りしめながら、ヤワな段梯子(だんばしご)を少しも音を立てないように、カタツムリみたいな速度でのぼって行った。

 だが、そうして長い時間を費やして、やっと階段の上に首を突き出してみると、案外なことには、二階も同じようにガランとして、いっこう人のいるけはいがしない。二た間きりの二階なのだが、開け放した(ふすま)のこちら側も向こう側も、まったく空っぽのように見えるのだ。

 ひょっとしたら怪人物は外出したのかもしれない。だが二人連れのはずはない。少なくとも一人だけは、女の方だけは、ここに居残っているはずだ。いや、とじこめられているはずだ。

 明智はだんだん気を許しながら、畳の上を()うようにして、奥の八畳へはいって行った。道具も何もない黴臭(かびくさ)い部屋、赤茶けた畳、障子の向こうに狭い縁側があって、ガラス戸が閉まっている。

 明智はその縁側まで行って、障子の(かげ)をしらべてみるつもりだった。そうすればあんなことは起こらなかったのだ。ところが、部屋の中ほどまで行ったとき、彼をギョッとさせた異様の物音が響いてきた。

 何か大きな物体がどこかでうごめいている感じだ。決して(ねずみ)なんかではない。ふと気がつくと、右手の押入れの(ふすま)が、物音のたびごとに、かすかに揺れ動いていることがわかった。

 押入れの中に何かがいる。むろん人間に違いない。だが、(とう)の怪人物でないことは確かだ。もし彼なれば、明智の侵入を察しないはずはなく、敵に悟られるような物音を立てる気づかいはないからだ。

 すると、この押入れの中にとじこめられている人物こそ、あの女に違いない。人間豹が誘拐(ゆうかい)した「よいとまけ」姿の文代さんに違いない。

 明智はもうためらっていられなかった。彼はさいぜんもいう通り、愛妻を気づかうあまり、日頃の冷静を失っていたのだ。いきなり押入れの前に立ち寄ると、サッとその襖をひらいた。

 すると、(あん)(じょう)、そこには手足を(しば)られ、猿ぐつわをはめられた一人の人間がころがっていた。だが、明智にとっても、おそらくは読者諸君にとっても、実に意外なことには、それは文代さんではなかった。女ではなくて男であった。しかも明智がよく知っている人物。そもそも彼をこの怪事件の渦中に引き入れる最初のきっかけとなった人物、読者はむろん記憶されているであろう。それはかつての犠牲者レビュー・ガール江川蘭子の恋人、神谷青年のみじめな姿であったのだ。

 さすがの明智も、まったく予期しなかった人物との、突拍子(とっぴょうし)もない再会に、愕然(がくぜん)としないではいられなかった。

「アッ、君は」

 神谷君じゃないかと言おうとしたのだ。だが、皆まで言う暇はなかった。

 その時、縁側の障子の(かげ)に身を(ひそ)めていた男が、小豆(あずき)色のジャケツにカーキ・ズボンの拳闘(けんとう)選手みたいな大男が、すばやく明智の背後に忍び寄って、手にした棍棒(こんぼう)を勢いこめて振りおろした。

 明智は不覚にも不意を突かれて、身をかわす暇もなく、脳天に(はげ)しい一撃を受けた。グラグラと天地が揺れるような感じ、たちまち眼界が(やみ)に包まれて、地の底へ地の底へと落ちて行く。彼は気を失って、その場に倒れてしまったのだ。

「ウフフフフフ、ざまあ見ろ、名探偵さん、意気地がねえじゃねえか」

 大男は足先で、明智のからだを突っつきながら毒口を(たた)いた。

「お二人さんお知合いと見えるね。ちょうどいいや、仲よくここで寝んねをしているんだね」

 彼は用意の細引を取り出すと、死人のような探偵のからだを、グルグル巻きに(しば)り上げ、手拭(てぬぐい)を丸めて厳重な猿ぐつわをほどこした。

「こうしてね、あすの晩方まで我慢するんだ。あすの晩には万事O・Kってわけだからね」

 男は二人のとりこを見おろしながら、さも得意らしくつぶやくのであった。

 何が万事O・Kなのだ。あしたの晩にはこの二人が処分されるというのであろうか。それとも、もっと別な、一そう恐ろしい事柄を意味するのであろうか。

 この大男は一体なにものであろう。むろん「人間豹」の手下には違いないのだが、大敵明智小五郎をこんな男に任せておくところをみると、人間豹自身には、何かのっぴきならぬ仕事があるのかもしれない。いや、しれないではない。読者諸君はよくご存知だ。彼は熊娘の番人を勤めている。どこかしら別の場所で熊の(おり)を見張っている。そして、今にも恐ろしい死刑に着手しようと、あの赤い唇をなめずりながら哄笑(こうしょう)しているに違いないのだ。

 ああ、文代さんの運命はいかになりゆくことであろう。可哀(かわい)そうな彼女は、明智がこのような目にあっているとも知らず、檻の中で、くらい熊の毛皮の中で、一日千秋の思いをして、名探偵の奇蹟(きせき)的な出現を待ち望んでいるのだ。

 それにもかかわらず、(とう)の名探偵は、いつさめるともなく、昏々(こんこん)と眠っている。眠った上にご丁寧(ていねい)にも身動きもできず(しば)られている。ああ彼は果たしてこの愛妻の期待を満たしてやることができるのであろうか。いかな明智の精神力をもってしても、機智をもってしても、この難局を切り抜けるのは、ほとんど絶望的なのではあるまいか。

 明智小五郎よ。今こそ君の力をためす絶好の機会なのだ。そうして、うちのめされて、縛られて、君の魂がこの世のほかの暗闇(くらやみ)をさまよっている今こそ、君の超人的精神力、魔術的機智を、根こそぎ動員しなければならないのだ。

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