人間豹

6話 二匹の野獣

2,795字 約6分 2019年10月21日 公開

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 恩田は(しわ)くちゃになった黒い洋服を着ていたが、それが彼の精悍(せいかん)()せた四肢(しし)にピッタリくっついて、そのまま一匹の巨大な黒豹(くろひょう)であった。

 まっ赤な厚い(くちびる)が、ヌメヌメと光り、白い歯のあいだから、例のけだもののドス黒い舌が、無気味に覗いていた。

 それは窓の少ない薄暗い部屋であったから、彼の両眼の蛍火(ほたるび)のような怪光をハッキリ見てとることができた。青く黄色く燃える眼底の妖火(ようか)は、彼が激すれば激するほど、その光輝(こうき)を増して行くように思われた。

 その眼、その口、その四肢をもって、黒い人間豹は、今や彼の美しい餌食(えじき)に飛びかかって行った。

 二人のからだは、ただ見る黒白の(まり)となって、広い土間をころがりまわった。黒い手と白い手とが、(はげ)しくもつれ合った。弘子はけなげにも、叫び声さえ立てず、死にもの狂いの抵抗をつづけているのだ。

 神谷は、そのもつれ合った二人の姿が、隙間(すきま)の眼界から消えるごとに、心臓の鼓動も止まる思いがした。彼はわが身の危険も忘れて、幾度も、危く叫びだしそうになった。だが、この密室の中で叫んでみたところでなんの効果があろう。効果がないのみか、そんなまねをすれば、かえって事態を悪化させるばかりだ。彼は歯を()いしばって、脂汗を流して、節穴にしがみついているほかはなかった。

 怪人はまだ充分の力を出してはいなかった。ただ猫が鼠をもてあそぶように、相手をもてあそんでいるにすぎなかったが、しかし、か弱い弘子の方では息も絶え絶えの力闘であった。

 (つか)み合うたびごと、つき倒されるたびごと、ころがり(まわ)るたびごとに、服も下着も引きちぎられ、今はもう身を(おお)うものも残り少なくなっていた。

 彼女は少しも声を立てなかった。泣き叫んでもむだなことを意識してか、それとも、恐怖と疲労のために、()からびた(のど)が、もう声を出す力も持たなかったのか。

 この(さわ)ぎに、(おり)の中の(ひょう)が、刺戟(しげき)を受けないはずはなかった。野獣は恐ろしい(うな)り声と共に立ち上がって、檻の中を右に左に()けまわりはじめた。そして、彼の昂奮(こうふん)は、二人の人間の格闘が激しくなればなるほど、異様に高まって行った。檻の鉄棒に飛びつき昇りつく狂態のすさまじさ。まっ赤にひらいた口をほとばしり出る咆哮(ほうこう)の恐ろしさ。

 弘子の白い肉体は、幾度となく、恩田のためにつき飛ばされ、(ある)いは自ら逃げ倒れて、床の上にころがったが、最後に倒れかかったのは、偶然にも、豹の檻の(とびら)の前であった。

 彼女は、その扉の鉄棒に取りすがって、身を起こそうともがいていたが、ふと彼女の白い手が扉の掛金にかかった。そして、極度の激情の際にもかかわらず、彼女はその掛金が何を意味するかを理解したのだ。

 弘子はヒョイと振り返って、またもや飛びかかろうと身構えている恩田を(にら)みつけた。まっ赤に血走った眼、大きくふくれ上がった小鼻、(ふな)のようにひらいた唇、青ざめきって(あい)色に死相をたたえた顔、その顔で彼女はニヤニヤと笑ったのだ。

 神谷は、とっさにその笑いの意味を悟って、思わず眼をつむった。ああ、とうとう最後の時が来たのだ。何もかもおしまいになる時がきたのだ。

 ガチャンと異様な音が聞こえてきた。

 神谷はその物音に、ゾッと身震(みぶる)いしたが、見まいとしても見ぬわけにはいかぬ。再び眼をひらくと、すでに檻の扉はひらかれていた。弘子が掛金をはずしたのだ。

 豹はと見れば、もう檻の中には影もない。そして、一方の土間に、からみ合った黄色と黒との一とかたまり、豹は一と飛びに飼主恩田に飛びかかって行ったのだ。

「ワーッ」という、悲痛な叫び声が、怪人恩田の口からほとばしった。さすがの彼も、この不意うちには、極度の驚愕(きょうがく)にうたれた。だが、彼もまた人間の形をした野獣である。本物の豹に縮み上がりはしなかった。かなわぬまでも闘った。世にも恐るべき、野獣と野獣の戦いである。

 黄色い豹、黒い恩田、白い弘子、今、神谷の眼の前には、この三つの生きものが、世にも恐ろしい(ともえ)を描いて、(つか)み合い、ぶっつかり合い、飛び上がり、打ち倒れ、ころげまわり、狂い躍るのであった。彼はこの眼まぐるしい色彩の交錯(こうさく)に、頭もしびれ、眼もくらんで、もう恐怖を感じる力さえ失っていた。

 ()み合う赤い口、おお、彼らは噛み合ったのだ。人間の恩田までが、耳まで裂けた口をひらいて、白い歯をむき出して、噛み合ったのだ。そして、(りん)(ほのお)が燃えるかと疑われる、爛々(らんらん)たる四つの眼が薄闇(うすやみ)に飛び違い、すさまじい咆哮が部屋の四壁をゆるがした。

 だが、恩田はとうてい本物の猛獣の敵ではなかった。徐々に徐々に、彼は部屋の隅へとおしつめられて行った。猛獣の鋭い(つめ)は、恩田の洋服を()き破って、彼の肩口へしっかりと()い入っていた。恩田は両腕に精一杯の力をこめて、豹の(あご)を支えていたが、その力も衰えはじめた。猛獣の血に()えた牙は、ジリリジリリと、相手の喉笛へ迫って行く。

 もう一分間そのままにしておいたなら、怪人恩田はこの世のものではなかったに違いない。神谷と弘子との仇敵(きゅうてき)は亡びてしまったに違いない。そして、後日あれほど世を騒がし、人の生き血を流した大害悪をも、未然に防ぐことができたであろう。

 だが、幸か不幸か、いやいや、実もって不幸なことには、恩田の命は死の一歩手前で喰いとめられた。最後の一瞬間に救い主が現われた。

 息を止めて見入っていた神谷の鼓膜に、突如異様な衝動が伝わった。眼の前の光景が、グラグラと揺れたように感じられた……銃声だ。誰かが恩田の危急を救うために発砲(はっぽう)したのだ。

 立ち昇る白煙の下を、猛獣は剥製(はくせい)(ひょう)のようにピンと四肢(しし)を伸ばして、一転、二転、三転し、(つい)に長々と伸びたまま動かなくなった。

 わずかに命を取り止めた怪人恩田は、さすがにグッタリとなって、急に起き上がる力もない。

 すると、神谷の隙見(すきみ)の眼界へ、銃を片手にノッソリと現われたのは、さいぜん彼をこの密室へとじこめた白髪白髯(はくはつはくぜん)の老いぼれ、恩田の父親であった。息子の危急を救ったのはその父であった。

(おり)をあけたのは誰だっ、まさかお前ではあるまい。そこな娘さんか」

 彼は鋭い眼を光らせて、檻の前に倒れ伏している弘子の半裸体を(にら)みながら尋ねた。

「そうだよ。あいつだ。あいつめ、豹に僕を()わせようとして、檻をあけやがった」

 恩田が苦しい息遣いで、さも憎々しくどなった。

「ウム、そうか。してみると、この娘はお前の(かたき)だな。いや、それよりも、大事な豹の敵だ。わしはこいつを撃ち殺すとき、どれほど悲しく思ったか、どれほど残り()しく思ったか」

 言いながら、老人は豹の死骸(しがい)の前にしゃがんで、悲しみに耐えぬもののように、その背中を()でながら、長いあいだ黙祷(もくとう)していたが、やがて、キッとして立ち上がると、(はげ)しい語調で、

「よし、もうお前を止めやしない。思う存分にするがよい。わしの可愛(かわい)い豹の敵討(かたきう)ちだ。どうともお前の思うようにするがよい」

 と言い捨てて、そのまま眼界から消えて行った。

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