7話 怪屋の妖火
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神谷はほとんどもう気力が尽きていた。だが、彼は節穴から眼をはなすことができなかった。「嫁おどし」の老婆の顔に般若の面がくっついてしまったように、彼の顔は板壁に密着して離れなかった。
怪人恩田は、間もなく元気を回復して、舌なめずりをしながら起き上がった。うす黒い顔がひん曲がって、ゾッとするような笑いが浮かんでいる。彼はおそらく、天下晴れて、この可憐な餌食に復讐をすることができるのを、喜んでいるのだ。
弘子はと見ると、ああ、幸か不幸か、彼女はまだ失神もしないで、真底から恐怖に耐えぬまなざしで、恩田の方を見つめている。
怪物は、両眼の燐光を燃え立たせ、歯をむき出して、ジリジリと彼女の方へ進んできた。
ああ、それから三十分ほどのあいだ、神谷は何を見、何を聞いたのであろうか。地獄の中の地獄であった。あらゆる恐ろしいもの、あらゆる醜いもの、あらゆる色彩、あらゆる動き、あらゆる音響が、彼の脳髄を痴呆にし、彼の眼を盲にし、彼の耳を耳なえにした。
そして最後に、血に狂った怪人恩田が、激情の余波のやり場もなく、跳り狂うようにして眼界を消え去ってしまうと、あとには人間の形態を失ったギラギラした色彩が乱れ散っていた。一人の女性の魂が、かつて類例もない苦悩の中に昇天したのだ。かくして神谷は、その恋人の魂と、同時に肉体をさえも、まったくこの世から失ってしまったのである。
彼はクナクナと密室の床に倒れ伏したまま、長い長いあいだ、死人のように動かなかった。からだじゅうに脂汗を流し、もみくたになった紙屑のように動かなかった。だが、やっとして、彼の肩が波うちはじめた。虫の音ほどのすすり泣きが聞こえはじめた。そして、徐々に徐々にその声が高まり、しまいには、彼は身もだえをして、小児のように泣きわめくのであった。
いつの間にか夕闇があたりをこめ、たださえ暗い密室は文目もわかぬ闇となっていた。その暗黒に包まれたまま、彼の泣き声はいつまでもつづいていた。
ふと気がつくと、誰かしら彼を声高く呼んでいるものがあった。その上に、暗闇とのみ思っていた密室に、どこからか、一条の赤い光が射している。彼は反射的にハッと身構えをしながら、声のする方を振り向いた。
「おいおい、君は何を泣いているんじゃ。何がそんなに悲しいのじゃ」
声と共に、その声の主の眼と鼻とが、四角にくぎられて宙に浮いているのが見えた。
恩田の父親だ。入口の板戸に、小さな四角の覗き穴がこしらえてあって、彼は今その蓋をひらいて、ロウソクをかざしながら、密室の中を覗きこんでいるのだ。神谷は、じっと老人の顔を見返しながら、ひとことも物を言わなかった。何を言っていいのかわからなかった。口をきけば、みじめな震え声になりそうだった。そして、何かしら抑えつけるように、生命の不安が感じられて仕方がなかった。
「おや、君のその顔はどうしたのだ」
老人はロウソクの光に神谷の面変りした顔を認めたのだ。
「ハハア、するとなんだな。君は、あれを知っているんだな。だが、どうして? ああ、そうだ。壁の板に隙間があったんだな。そこから、君はあれを見たんだろう。それに違いない。おい、君、見たのか見ないのか」
だが神谷は答えなかった。答えずとも彼の表情がすべてを語っている。
「フン、見たんだな。見たとすると、気の毒だが、君は永久にここから出すわけにはいかぬ。いいか。なぜ出せぬか、そのくらいのことは説明せんでもわかるじゃろう。観念したまえ。ハハハハハ」
そして、パタンと無慈悲に閉まる覗き穴の蓋、老人の立ち去るけはい、室内は元の暗闇にかえった。
老人は、息子の殺人罪を目撃された上は、生かしておけないというのだ。今にも、あの人間豹の息子を彼の密室にさしむけて、弘子同様の目にあわせるか、或いは老人の銃口が、覗き穴から首を出して、彼を狙いうちにするか。そうでなくても、このままほうっておかれたら、やがて飢え死にをしてしまうに違いない。
逃げ出そうにも、この厚い板壁、頑丈な板戸、道具とてない一人の力で、どう破ることができよう。
ああ、とんでもないことをした。たとえ恋人を救うためであろうとも、わが力も計らず、人にも告げず、単身この魔境へ踏み込んだのは取り返しのつかぬ失策であった。先ず警察へ告げるべきであった。そして有力な助勢を得て、弘子の救助に向かうべきであった。
だが、それはもう取り返しのつかぬ繰り言だ。ただこの上は、叶わぬまでも、この密室を脱け出す方法を考えなければならぬ。そして、彼らの悪事を警察に訴え、弘子の敵を討たねばならぬ。これが恋人へのせめてもの心づくしだ。このまま神谷までが死んでしまったのでは、彼らの悪事は誰知るものもなく、あの恐るべき半獣半人の怪物は、永久に罰せられる時がない。それではあまりに不合理だ。彼は当然の処罰を受けねばならぬ。どんなにしてでも、一度ここを脱出して、恋人の無残な死をつぐなわなければならぬ。
しかし、いかなる手段で? ああ、いかなる手段で、この密室を脱出したらいいのだろう。
そんなことが果たして可能であろうか。
考えながら、神谷はふと上衣のポケットへ手をやった。すると、突如として、インスピレーションのように、一つの奇妙な考えが浮かんできた。
「おお、おれはマッチを持っていた。ここにマッチがある」
彼はそれをポケットから取り出して、軸木の数を調べた上、その一本をシュッとすった。たちまち闇を破る赤い光。その光で、密室の隅から隅を見まわしているあいだに、彼の考えはますます熟して行った。
「そうだ、そのほかに方法はない。一か八かやっつけてみるのだ」
彼は大急ぎで服を脱ぎはじめた。そしてまっぱだかになると、シャツ、猿股、ワイシャツ、ネクタイ、ソフトカラアなど薄手のものばかり選り出して一とまとめにし、再び素肌に背広を着、オーバーをまとった。それからポケットというポケットをさぐって、ハンカチ、古手紙、鼻紙、手帳の類に至るまで、燃え易いもの一切を集めて、シャツなどの布類と一緒にし、それを丸めて部屋の奥の板壁のきわに置いた。
彼はそれに火をつけようというのだ。では彼は悪魔の巣窟を焼き払うつもりなのだろうか。だが、そんなことをすれば、誰れよりも先に神谷自身が焼け死んでしまうではないか。なんという無謀なことを企てたものであろう。彼は引きつづく激情に、気でも狂ったのではあるまいか。
いや、そうではない。彼は一つの冒険を思い立ったのだ。千番に一番という危ない芸当をもくろんでいたのだ。
何本もマッチをむだにして、やっと紙類が燃え上がった。ワイシャツの袖に火が移った。と見ると、神谷はいきなり地だんだを踏みはじめた。両の拳を握って烈しく板壁を叩いた。そして、何がおかしいのか、大口をあいて、できるだけの声を立てて、気ちがいのように笑いだした。
「ワハハハハハ」という無気味な笑い声が家じゅうに響きわたった。
しばらくそれをつづけていると、案の定、板戸のそとに足音がして、覗き穴をひらいたものがある。神谷はそれを合図のように、たちまち沈黙して、すばやく、覗き穴から見えぬ入口にうずくまり、板戸のひらくのを今や遅しと待ち構えた。
彼の笑い声に不審を抱いて、様子をうかがいにきたのは、やっぱり恩田の父親であった。見ると、部屋の奥に炎々と燃え上がる火焔だ。打ち捨てておけば、今にも板壁に燃え移りそうに見える。慌てふためいた老人は、何を考える暇もなく、いきなり閂をはずして板戸をひらき、火焔を揉み消すために、室内に駈け込んだ。
今だ! 神谷は老人の腋の下をくぐるようにして、疾風のように廊下へと飛び出した。そして、満身の気力をふるい起こして、老人のうしろから、パタンと板戸を閉め閂をおろした。今や主客顛倒、老人の方が檻の中へとじこめられてしまったのだ。
そうしておいて、神谷は心覚えの廊下伝い、老人の書斎を通って、玄関を飛び出した。それから、例の締め切った門の鉄扉をよじのぼり、飛び降り、暗闇の森を一目散に駈け抜けて、道もない草原へ出た。
空は一面に曇って星も見えず、寒い風が草むらをザワザワと波立たせている。振り返れば、まっ黒に眼を圧して襲いかかる魔の森林、その中にチロチロと瞬くは怪屋のともし火か、それとももしや、彼の逃亡を知って追いかけてくる怪物の眼の燐光ではないのか。
ふとそんな連想をすると、神谷は足もすくむほどの恐怖を感じた。そして、草むらのざわめくのも、風ではなくて、蛇のように這い寄る獣人の姿かと疑われ、果ては、見渡す限り、闇の草むらのここにも、あすこにも、無数の蛇のようにギラギラ光る燐光の幻さえ浮かんでくるのであった。
彼は走った。無我夢中で走りつづけた。咽はカラカラに干からびて、舌が石のように干し固まり、心臓は咽のあたりまで飛び上がってくるかと感じられた。
道であろうと、なかろうと、方角さえもわからず、ただ走りに走って、しかし、ついに街道に出た。まばらに立ち並ぶ街燈、並木のあいだにチラチラ見える一軒家、その駄菓子屋らしい藁葺きの一軒家までたどりつくと、彼はいきなりガタピシと障子をあけて、そこの土間へのめりこんだ。
このことが土地の警察署に伝わり、数名の警官が、やや気力を回復した神谷を案内に立てて森の中の怪屋に向かうまでには、かなりの時間が経過した。そして、彼らが手に手に懐中電燈をかざして、街道から抜け道を伝い、雑木林を抜け出たとき、先頭に立つ神谷が、何を見つけたのか、ハッと立ちすくんでしまった。
「どうしたんだ、君、何かいるのか」
警官の一人がどなった。彼らも怪人の話を聞いて、この捕物を少なからず無気味に思っていたのだ。
「あれ、あれをごらんなさい。あの火はいったいなんでしょう」
神谷の言葉に彼方を眺めると、いかにも、森の中の怪屋のあたりとおぼしく、一団の火焔が、大きな狐火のようにメラメラと燃えている。
「おや、火事じゃないか」
「ウン、そうだ。おい君、君が逃げ出す時に、シャツやなんかに火をつけてきたと言ったね。それが燃えひろがったんじゃないか」
警官が口々に言う。
「いや、そんなはずはありませんよ。高が一とかたまりの布切れですもの。老人が踏み消してしまったに違いありません。それにもしあれがもとだとすると、もっと早く燃えひろがっていなければなりません」
神谷は不思議に耐えなかった。
ともかくも行ってみようと、歩き出して、だんだん森に近づくにつれ、刻一刻火焔は大きくなりまさり、彼らがそこに到着した時には、もう手もつけられない本物の火災になっていた。
パチパチと物のはぜる音、窓という窓から吹き出す赤黒い火焔の舌、ムクムクと舞い上がる黒けむり、早くも棟の一部のくずれ落ちる大音響、パッと立ち昇る火の粉、森全体が白昼のように明るく、立ち並ぶ木の幹が、みな半面を朱に染めて、クッキリと浮き上がってみえた。
「ウム、やつらは罪跡をくらますために、自分で火をつけたのだ。もう今頃はどっかへ行方をくらましてしまったに違いない。おい、誰か署へ帰って、非常線の手配を頼んでくれたまえ。それから消防だ。もうこうなってはわれわれの出る幕じゃない。ともかくも火を消すことが第一だ」
おもだった警官の命令に、一人の警官が懐中電燈をふり照らしながら、駈け出していった。
残った人々は、火焔を遠巻きにして、怪屋の周囲をグルグル歩きまわり、怪しい人影もやと眼をくばったが、悪人たちがその頃まで現場にうろうろしているはずはなく、あかあかと照らし出された森の中には、なんの怪しいけはいもなかった。
かくして、恩田父子は、殺人罪目撃者に逃げ出された窮余の一策、わが巣窟に火をかけて、あらゆる罪跡を湮滅し、いずれともなく姿を消してしまったのだ。
彼らが処罰を恐れて姿をくらましたことは言うまでもない。だが、いかに処罰を恐れたからといって、あの血に飢えた獣人が、これ限りその爪牙を隠して一生を終ることができるであろうか。いや、それよりも、彼らの大切な巣窟を焼かしめ、彼らの犯罪をその筋に告げ知らせた神谷に対する怨恨を、果たして忘れ去ることができるであろうか。一匹の野獣を失ったばかりに、平然と弘子の命を断った彼らだ。それに比べては幾層倍のこの恨み、ただ単純に神谷の生命を狙うだけで満足しようとは考えられぬではないか。
神谷は果たして安全でいることができるであろうか。たとえ彼自身の生命は安全であっても、何かしらそれ以上に彼を苦しめ悩ますようなことが起こりはしないであろうか。
また神谷のがわからいえば、恩田父子は、憎んでも憎み足りない仇敵であった。彼は、草の根を分けても彼らを探し出し、この恨みをはらしたいと願った。
深讐綿々たる対立、ああ、彼らの行く手には、果たしてどのような運命が待ち構えていたことであろう。