現代語訳 平家物語 06 第六巻

2話 現代語訳 平家物語 06 第六巻(2)

7,602字 約15分 2022年6月8日 公開

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 木曽義仲謀叛の知らせを聞いて、平家の一族は動揺した。東国の情勢不穏の折から、今また、北国も危しとあっては気が気ではない。しかし清盛だけは、自信満々であった。

「何、木曽の山猿ごときが謀叛を起すとは笑止千万、越後には、城(じょうの)太郎助長(すけなが)、四郎助茂(すけもち)といった一騎当千のつわものが控えておるわ、謀叛謀叛と騒ぐこともあるまい」

 しかし、一族の中には眉をひそめて、どうなることかと不安に思うものも少くはなかった。

 兵乱鎮圧のため、写経の行なわれたのは二月の七日である。それから一日置いて二月の九日、河内国石河郡(いしかわのこおり)に住む武蔵権守入道義基(むさしのごんのかみにゅうどうよしもと)、同じく義兼(よしかね)の親子が、頼朝の軍勢に加わるために、東国へ下ろうとした矢先、平家方に嗅ぎつけられ、三千余騎という大軍に囲まれて、義基は討死、義兼は捕えられた。

 続いて十二日、九州より飛脚があって、九州の情勢を報告してきた。それは平家にとって思わしくない知らせであった。

 かねがね平家に服従の様子をみせていた、緒方(おがたの)三郎をはじめとして、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦(まつら)党といった面々が、東国源氏に加わったというのである。

 越えて十六日には、四国の動静を知らせる飛脚が着いた。それによると、四国一円はほとんど源氏の味方だということで、ひとり平家に忠誠をみせた備後国(びんごのくに)の額(ぬかの)入道西寂(さいじゃく)が、源氏に心を寄せた河野四郎通清(こうののしろうみちきよ)を討ち取ったばかりに、倅の通信(みちのぶ)から手痛い報復をうけて殺されたという。又、かねがね平家にゆかり深い熊野別当湛増(くまののべっとうたんぞう)なぞも、平家への恩を投げうって源氏に味方してしまった。京にいる平家一族の耳に入るのは、今日(きょう)はどこの源氏が蜂起した、昨日(きのう)は誰それが源氏に味方したというような知らせばかりである。西を向いても、東を見ても、世はまさに、動乱の前夜にふさわしい様相を示しているのである。

 二月二十三日、公卿会議が開かれると、前右大将宗盛が先ず進み出ていった。

「このたび、東国に討手を差し向けましたが、成果ははかばかしくござりませぬ。ついては、この宗盛、このたび征夷大将軍を承わって、東国の兵乱を鎮めたいと思いまするが」

 といった。もとより異論のあろうはずはない。

「大層結構なことで」

「ご苦労なことでござります」

 公卿たちは、自分の身に直接関わりのないことなので口々に勝手な追従(ついしょう)をいっていた。

 やがて、宗盛を大将軍として、東国北国の凶徒追討という院宣が下った。

入道死去

 宗盛が東国へ出発するという日である。清盛の健康状態が突然悪化し、それがために出発は一時中止となった。

 翌くる日、容態は更に急変し、重病の様子を帯びてきた。「そらみたことか、悪業の祟(たた)りじゃ」と、京都の街は、その噂でもちきりであった。

 清盛は、病気の始った日から、一滴の水も咽喉(のど)へ通らなかった。身体じゅうは、火を噴いたように熱かった。側近のものは病床に四、五間近づいただけで、耐え難い熱さにうたれた。清盛は意識不明で、唯、「あつい、あつい」とうわ言をいうばかりである。叡山から冷い清水を汲んできて、水風呂をつくり、それに入れると、水はたちまち湯に変った。少しは楽になるかと筧(かけひ)の水をかけると、焼けた石や鉄のように水がはね返ってじゅうじゅうと音をたてる。たまたま清盛の身体にあたった水は、炎になって燃えあがり、黒煙が邸中に充満するという有様で、さながら焦熱地獄であった。

 この、どさくさの中で清盛の北の方二位殿がこんな夢を見た。猛火に包まれて燃えている車が邸内に入ってきたのである。前後のお供は、馬の顔をしたのや、牛の顔をした者ばかりで、車の前には、無(む)という字の書いた鉄の札(ふだ)が打ちつけてあった。

「その車はどこから」

 二位殿が、そういって尋ねると、

「閻魔(えんま)の使いで清盛入道のお迎に参じました」

 という。

「その札は」

 と聞くと、

「数々の悪業により、無間(むげん)地獄に落すつもりで、無間と書くはずでしたが、間の字を書き忘れたままで」

 という返事であった。

 夢から覚めた二位殿は、逢う人ごとにこの話をしたが、誰もが薄気味の悪さに、身の気のよだつ思いであった。

 ありとあらゆる財宝を投げうって、あらゆる神社仏閣へ病気平癒のお祈りをしたが効果はなかった。

 二位殿は熱さをこらえて、枕元に、にじり寄り、

「お気の確かなうちに、何かいいおくことがおありでしたら何なりとも仰せ下さい」

 といった。さすがに日頃、傲慢不遜の清盛も、病気には勝てない。苦し気な息の下から、彼は弱々しい声で、

「保元平治の乱以来、たびたびの合戦に殊勲を立て、太政大臣に昇り、帝の御外戚にまでなることができ、思い残すことはないが、唯一つ、伊豆の流人(るにん)頼朝の首を挙げなかったことだけが心残りだ。墓も要らぬ、供養もいらぬ、唯一つ、頼朝の首をはねて、わが霊前に供えてくれ」

 と、烈しい調子でいった。

 清盛の死んだのは、閏(うるう)二月四日だった。その最後はあまりにも無慚(むざん)なものでありすぎた。

 板に水を流したところを、あっちへごろごろ、こっちへごろごろしながら、熱い熱いと、わめき叫びつつ、ついに板の上をのたうちまわって最後の息をひきとった。時に六十四歳、栄華を極めた人にしては、あまりにも哀れな死にざまである。

 同じく七日、火葬にして、骨を円実法眼(えんじつほうげん)が首にかけ、摂津国経(きょう)の島(しま)におさめた。

経の島

 清盛の葬儀の夜、いろいろ思いがけないことが起った。先ず第一に、豪華壮麗を誇っていた西八条の邸が火事で焼けてしまった。これは、まったく突然の出来事で、出火の原因もはっきりせず、放火だという声もちらほら聞かれた。

 また同じ晩、二、三十人ほどの人の声で、「嬉しや水、鳴るは滝の水」と歌いさざめく声がした。よりによってこんな晩に、踊り騒ぐなどとは、気の確かな者のすることではない、あるいは天狗(てんぐ)のたぐいではないかと、血気にはやった若侍が百余人声をたよりにしらべてみると、かつての院の御所であった法住寺殿の中から聞えてくる。ここはこの二、三年、院のお渡りもなく、備前前司(ぜんじ)基宗というものが留守居をしていた。この法住寺殿の中では、時ならぬ酒盛が始っていたのである。

 基宗の知合いが、二人三人と集っていつか酒を飲み始めた。時が時だから、静かに飲もうと戒め合っていたのに、いつか酔が廻るにつれて、ついうっかり大声で拍子をとり、舞まで踊り始める者も出る始末になった。怪しい歌声と思ったのは実はこの酔っ払いどものさわぎ合う声だったのである。「時節柄、不届な奴」というわけで、三十人ばかり皆な引っくくられて六波羅へ連れてゆかれたが、酔っ払いではいたし方ないというので、無罪放免された。

 清盛の骨をおさめた経の島は、応保(おうほう)元年二月につくられたものであるが、一度、大風のために崩れ去ったので、同三年三月再工事にかかった。その際、人柱を立てようという意見のあったのを、かえって罪なことだと、石の面に一切経を書いて、その代りとした。そのため経の島と名づけられたが、この島のお陰で、その後、通行の船舶の安全がどれほど、保障されたかわからぬ。清盛とても決して悪業ばかり重ねていたわけではないのである。

慈心房(じしんぼう)

 摂津国清澄寺(せいちょうじ)という山寺に、もと叡山の学僧で、慈心房尊慧(そんえ)という人がいた。あるとき、夢うつつに法華経を読んでいると、五十歳見当の男が、手紙を持ってやってきた。尊慧がそれを開けてみると何と閻魔(えんま)の庁からの招待状である。閻魔の庁で大法会が行なわれるから、参加するようにというのである。尊慧は承諾の返事を書いたところで目が覚めた。とにかく余り気味の良い話ではない。彼はその日になるまで、念仏三昧に日を送っていた。当日午前零時近くなると尊慧はひどく眠気を催してきたので、お勤めを終えて、僧房に帰り寝所に入って寝た。二時頃閻魔の庁からの使いの者にゆり起された。いつの間にか、七宝(しっぽう)で飾った車に従者まで用意されている。尊慧が乗ると、途端に、車は西北の空に向ってかけのぼった。

 七宝でできた閻魔大王の宮殿は、広さも広し、高さも高い。金色に光り輝く美しさは、とても言葉でいい尽せぬほどであった。地獄の役人たちは、みな閻魔の前にかしこまって居並んでいた。その日の法会も終って帰りかけた尊慧は、

「ここまで来たからには、ついでに、未来のことも聞いておこう」

 そう思い立つと、大王の側に近づいた。

「他のものは、皆な帰ったのに、何故、貴僧だけここにまいったのじゃ」

「実は、私の死後のことを知りたく思いまして参上いたしたのですが」

「往生するもしないも、信仰一つじゃよ。そうじゃ、そなたの一生の行ないの書かれてある作善(さぜん)の文箱(ふばこ)をみせよう」

 地獄の役人が、大王のいいつけで文箱を持ってくると、ことごとく読みきかせた。尊慧の一生のうちの出来事も、頭の中で思ったことも何一つとして洩れなく記されていた。尊慧は涙を流しながら、

「何卒悟りを得る道をお教え下さい」

 と頼んだ。すると、大王も同情して、

妻子王位財(ざい)も眷属(けんぞく)も

死去(しさ)れば一(いつ)も来(きた)って相い親しむ無し

常に随(したが)える業鬼(ごうき)は我を繋縛(けいばく)し

苦しみを受け叫喚(きょうかん)すること辺際(へんさい)無し

 という偈(げ)を読んで、尊慧に与えた。尊慧はひどく喜んだ。

「日本の平清盛と申す人は、摂津和田の岬四面十余町に家をつくり、本日の法会のように、数多くの持経者(じきょうしゃ)を呼んで、説法、勤行(ごんぎょう)を務めております」

 というと、閻魔も大変喜んで、

「うん、あの入道は、唯(ただ)人ではない、実は慈慧(じえ)僧正の生れ変りで、天台の仏法を護るため、日本に再誕せられた人なのじゃ。私も日に三度は彼に礼を尽して、経を読むのじゃ、ここにその文句がある。持って帰って、清盛公に差し上げてくれ」

敬礼(きょうらい)慈慧(じえ)の大僧正(だいそうじょう)は

天台仏法(てんだいぶっぽう)擁護者(ようごしゃ)

示現(じげん)最初(さいしょ)将軍(しょうぐん)の身(み)

悪業(あくごう)衆生(しゅじょう)同(どう)利益(りやく)

 尊慧は、これを貰って帰ると早速、清盛のところにゆき、ありのままに話した。清盛は大喜びで、いろいろ尊慧をもてなした上、引出物までも贈った。後に彼を律師(りっし)とした。以来、清盛のことを慈慧僧正の生れ変りだという説が流布(るふ)されたのである。

祇園(ぎおん)の女御

 鳥羽天皇の時代の事である。東山のふもと祇園のほとりに、祇園の女御と呼ばれる美しい女性が住んでいた。白河院の想われ人(びと)で、時々院の御幸があった。

 ある日、白河院が少数のお供を連れ、例の通りお忍びでおいでになる途中、その晩は、暗い上に雨まで降ってきて、一寸先も定かならぬ闇夜であったが、祇園女御の邸の近くの御堂のほとりで怪しい者に出逢った。頭はしろがねの針を磨いたようにきらきらと光り、片手には槌(つち)のような形のものを持ち、もう一方の手は、これ又何やら光るものを持っていた。

「あれこそ、噂に聞いた鬼と申すもの、手に持っているのは、打出の小槌に違いない」

 一同恐るおそる顔を見合わせて騒いでいた。その頃から武名の誉れの高かった忠盛は、まだ北面の下級武士であったが、直ぐ御前に呼び出され、怪物退治を命ぜられることになった。忠盛は、近づいてよくよく怪物の正体をみると、そう大して強そうにも思われなかった。

「せいぜいきつねかたぬきといったところであろう。これを射殺したり、斬殺したりしては、あとで後悔するかも知れぬ、先ず生捕ってみよう」

 こわい者知らずの忠盛は、ずかずかと側に近づいた。怪しい正体は、しばらくするとパッと光っては、また、しばらくしてパッと光った。忠盛が力にまかせて組付くと、とたんに、

「何をなさる?」

 と声がかかった。魔性(ましょう)の者と思いの外、それは、まぎれもなく人間だった。

 あかりをともしてよくよく見ると、六十近い老僧で、話を聞けば、この御堂に仕えるものであった。仏前にあかりを付けようと、柄のついた瓶に油を入れ、片手の土器に火を入れ、雨が降ってきたので、ぬれないように、頭には麦藁(むぎわら)の端を結んで笠のようにしたものをかぶっていたのが、土器に入れた火に、この麦藁が、銀の針に見えたのである。

「それにしても、殺したりなどしなくてよかった。思慮深い忠盛だったから、人の命を傷つけずに済んだのだ。何と感心な奴だろう」

 白河院はひどく感心され、ほうびに、ご寵愛の深かった祇園の女御を忠盛に賜わったのである。

 祇園の女御は、忠盛のところへ来たとき、既に身重であった。

「生れた子が女であったら朕の子に、男なら、そちの子にせい」

 院はそう仰有(おっしゃ)っていたが、生れたのは男であった。忠盛は、このことを奏上する機会を待っていたが、熊野行幸のとき、途中いとが(糸鹿)坂というところで休息することになった。忠盛は、袖に途中でとった山芋の子を入れると、すぐ御前に伺候した。

芋(妹)が子ははう程にこそなりにけれ

 と忠盛が奏上すると、院も直ぐさま気づかれたらしい。

ただもり(忠盛)とりてやしないにせよ

 と即座にお返事を下さった。また、この男の子が、夜泣きのくせがあって困るという話を聞かれ、一首の歌をお詠みになった。

よなきすとただもり(忠盛)たてよ末の代に

  きよく(清)さか(盛)うることもこそあれ

 このお歌から清盛と名づけられたのである。十二歳で兵衛佐(ひょうえのすけ)、十八歳で四位兵衛佐となったが、何も知らぬ人が、

「華族ならばともかく、成上り者の子のくせに」

 というのを聞かれた鳥羽院が、

「清盛は、華族同様の者じゃ」

 と仰有ったことがあった。

 清盛が、白河院の御子という説の伝わっている所以(ゆえん)である。

洲股(すのまた)合戦

 清盛が死んでまもなく、生前、清盛と親交の深かった五条大納言邦綱(ごじょうだいなごんくにつな)がなくなった。同じ日に病床に就き、同じ日のうちに死ぬとは、又めずらしい契りの深さである。清盛は自分の子、四男頭中将重衡(とうのちゅうじょうしげひら)を大納言の婿にしている。

 二月二十二日、法皇は、院の御所、法住寺殿に御幸になった。この御所は、去る応保三年に造営され、比叡、熊野の両社も近くにお祭りしてあり、庭の木、池の水にいたるまで、法皇のお気に召すよう心して作られたものであったが、清盛のため、心ならずも離れていられたあいだに、邸内はすっかり荒れ果ててしまっていた。

 せめて修理してからでも、お出で下さいという宗盛の頼みも断わり、「そのままでよいから」と仰有っての御幸であった。

 故建春門院の住まわれていた御殿のあたりも、すっかりさびれ、心なしか松や柳まで年をとったようである。池の芙蓉(ふよう)にも、岸の柳にも、一つ一つ想い出のないものはなく、涙なしには見ることもできないのであった。法皇は、白楽天の長恨歌の一節が今しみじみと思い出されてくるのであった。

 三月に入ると、南都の僧の罪が許され、知行も元通りという命令が出た。又大仏殿の再建が始まることになり、係りの奉行に、左少弁行隆(さしょうべんゆきたか)が任じられた。行隆が先年男山八幡宮へ詣でた時、こんな夢をみた。

 御宝殿の中から出てきた天童が、

「大菩薩の使いでまいった。大仏殿再建の奉行に任じられた時はこの笏(しゃく)をもて」

 といって笏を置いていった夢である。目覚めてみると、確かに笏が置いてあった。

「不思議なことじゃ、今どき何の必要あって大仏殿の奉行になるわけもない」

 と思ったが、とにかく、笏を持って帰り、大事にしまっておいたのであるが、夢はまったく現実になったのである。

 三月の十日、美濃国から早馬のお使いがとんで来た。

「東国の源氏は尾張国まで攻めのぼり、道路の通行を止めました」

 この知らせに、平家方も落着いていられず、左兵衛督知盛(さひょうえのかみとももり)、左中将清経(さちゅうじょうきよつね)、小松少将有盛(こまつのしょうしょうありもり)を大将軍として三万余騎の軍勢が、尾張国目指して出発した。

 迎える源氏は、十郎蔵人行家(じゅうろうくらんどゆきいえ)、頼朝の弟で、卿公義円(きょうのきみぎえん)を将軍にして、六千余騎、尾張川を挟んで対陣した。

 夜半に入って、源氏方は、尾張川を渡って夜討ちを仕かけてきた。戦は翌日の明け方まで続いたが、平家の方は少しも慌てず、

「敵は、川を渡ってまいったのだから、馬も人もぬれているはずだ、それを目当てにうちとれ」

 と下知したので、平家は多勢を頼んで、源氏をとりかこみ、

「あますな、もらすな」

 と攻めたてたので、源氏方は次第に敗色の色が濃くなってきた。

 行家は危い所を命からがら逃げだしたが、義円はついに討死した。

 平家は源氏の残党を追い、勢に乗じて川を渡り、そこかしこで最後の防戦をつとめる源氏の者どもを討ち取った。

「兵法にも、川を後にするなと書いてあるのに、源氏のやり方はまずかった」

 と世間ではいっていた。

 やがて、十郎行家は、今度は、三河国で矢作川(やはぎがわ)の橋を取り、防戦の準備を整えて待っていた。平家の軍勢が押し寄せたが、またたくうちに攻め落され、その後、三河、遠江一円は、すっかり平家の手中におさまるかに見えたが、惜しいことに、知盛が突然の病を得、急ぎ都へ帰ったので、結局、先陣一つを破っただけで、今回の勝利は余り効果をあげることができなかった。

 前年、重盛が死に、今また、清盛に逝(ゆ)かれ、平家の勢は日に日におとろえる一方で、昔から恩顧のある者のほかは、今やすべて源氏に随いつく世の中であった。

嗄声(しわがれごえ)

 越後国の住人、城太郎助長は、越後守に任ぜられた。お礼返しの意味もあって、木曽征伐の軍を起した。

 ところが夜中になって、急に暴風雨が吹きまくり、時ならぬ雷まで鳴った。暫くして雨があがると天の彼方(かなた)から、不気味なしわがれ声が聞えてきた。

「南閻浮提(なんえんぶだい)金銅(こんどう)十六丈の廬遮那仏(るしゃなぶつ)を焼き滅した平家に味方する者が、ここにおる、召し捕れ」

 と三声叫んだのである。その声には聞く者の総身をおじけさせるものがあった。

「こんな恐ろしいお告げがございましたのですから、このたびだけは思い留まられた方が身のためです」

 ととめるものが多かったが、助長は、

「弓矢とるものが、一々おじ気をふるっていてはつとまらぬ」

 といって取りあげなかった。

 翌くる朝、城を出た軍勢が十四、五町も行かないうち、黒雲が助長の馬上を取り囲んだかとみるまに、助長はふらふらと落馬した。慌てて、輿にのせ城に連れ帰ったが、三時間ばかりで息が絶えた。この知らせに京の平家一族は色を失なった。

 七月十四日、年号が改まって、養和となった。同日、筑後守貞能は、鎮西の謀叛の征伐のために西国へ下った。同じくその日、治承三年に無実の罪で流された人々が許されて都に帰ってきた。即ち、関白基房、太政大臣師長、按察(あぜちの)大納言資賢といった面々である。

 師長は久方振りに院の御所に上り、秋風楽(しゅうふうらく)の曲などを奏したのであった。師長は以前土佐から許されて帰った時には、賀王恩(がおうおん)、還城楽(げんじょうらく)を院の前でおきかせしたことがあった。その時々に応じて、いかにもふさわしい曲を選ぶ心がけは、師長ならではと人々は噂しあった。同じ日、按察大納言も、久しぶりに院の御所へ伺候した。

「お前の顔をもう一度見られるとは、夢のようじゃ、田舎住いで歌も忘れたろうが、久しぶりに今様(いまよう)でも一さし舞ってみせてくれぬか」

 大納言は即座に立ちあがると、「信濃にあんなる木曽路(きそじ)川」という今様の文句を、「信濃にあった木曽路川」と、自分が見てきたところだけに当意即妙に歌いあげた。いかにも才気のあるやり方であった。

横田河原合戦

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