6話 六 男女各々天職を異にす
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我輩は天の男女を生ずるに、もとその間に愛憎の私念なかるべきを信じているから、人格の上には両性を同等に見るけれども、さればとて、その天職をまで同一に見るものではない。何となればその体質の上に、その性情の上に、両性にはその地上に始むる第一歩からして明確なる相違を存するものではないか。即ち男女の天職は本能的に定められて、自然の分業を為しおるんである。婦人には最も大なる任務がある。妊娠がそれである。男女共力して小供を作るというけれども、婦人の妊娠に当って、男子にはなんら肉体上の苦痛を伴わぬ。婦人はやがて烈しき産痛の後に分娩すれば、生児に乳を哺ませる。小便をさせる。始終汚れた襁褓を取り換えてやらなければならぬ。むずかる、夜泣きをする、すれば夜の目も合わさずに介抱し劬ってやらねばならぬ。その手数その心労は尋常のことでない。而してこの様な苦痛は一切男子の与り知らぬところである。しかしながら女子が一方にかくの如き至大の任務を尽すについて、男子にもこれに対する一の任務がある。それは言うまでもなくこの妻児を養うことである。婦人は生児に乳を与えるから食量が平日に二倍する。且つ食物が十分滋養分に富まなければそれが乳に作用し、直ちに生児の体質に影響するから、平生よりも美食を取らなければならぬ。従って等しく妻児を養うといっても、それに要する費用は従来に倍する。それだけ男子は従来よりも多く外に活動して生活費を得て来なければならぬ。この任務もまた甚だ容易ならぬものであって、終に自然に男女両性の分業が萌芽し来る。かくの如きは、近世に始まったことでなく、人類の発達時代からして然るものである。通俗に言えば男女手分けして働くのである。ここに男女間の権利義務が定まる。夫婦ありて家庭あり、家庭ありて郷党あり。かくて広く社会、国家を形成するのであるから、男子は外に出でて世間の事に活動し、女子は内を守りて家庭の事に勤労するという分業は、この世に於て已むべからざるところ、而して婦人の性情は、自ずからこの分業に適し、小供に対する神経は鋭敏に、その用意は周到である。生児のなお嬰孩にして口も利けぬ時にも能く眼に察し、意に迎えて、その欲するところを知り世話を焼く。少しく語を解し自らも口が利けるようになれば、御伽話でもして聴かせる。小供の世話はなかなか六ヶしいもので、ちょっとでも意に満たぬと直きに声を揚げて泣く。これを賺し宥めるなど容易なことで無く、到底天賦の性情の粗雑なる男子の出来る仕事でない。児童の性質を最も能く知るものは女子で、而して小供もまた外出がちで家にいることの少ない父親よりも、幼少の時から常住傍らにいて撫育してもらう母親の方に多く熱烈な親しみを持つから、家庭教育の義務は、自ずから母の責任に属せねばならぬ。従って児童に対する感化力の大なることも、また母に及ぶものはない。それ故小供の賢不肖は、一に母に因るというも可なるべく、母たる婦人の品性が低劣であれば、従ってその小供も悪く、将来のその民族は次第に堕落し行くことは必然の道理である。さればこそ支那人は賢婦人の下に賢子有りと称し、而して孟子の母の如きが常に絶好例話として引かれる。いわゆる孟母の三遷と称し、孟子の教育の必要のためばかりに三たびその居を移したという話になっている。誠にその通りで、およそ模倣性の強烈なること小児に及ぶものはない。而して三つ子の魂百までとも称し、三つ子の時に打ち込んだる魂は、いわゆる習慣は第二の天性であって、牢乎として抜くべからざるものであるから、教育の必要は最もこの際に在る。而して、小供に対する婦人の感化力の遥かに男子よりも大なる以上は、家庭教育に於て婦人はまた実に一大責任を有するものである。換言すれば婦人は、実に我が将来の国民を陶鋳し出すところの一大技師なのである。然らば婦人の任務の重且つ大なるは言わずとも知らるべく、男子としてこれを軽蔑することはならぬ。要するにこれを以て彼に易うべからず、彼を以てこれに易うべからざる截然たる区別が、男女両性の天職の間に存在するので、而してこれは、なんらその人格と関係するところ無いものである。