11話 火
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九時三十四分の準急。ぎりぎりまで待ったが、女は来なかった。五郎は風呂敷包みを提げ、決然と改札口を通った。座席はわりにすいていた。汽車は動き出した。
〈やはり来なかったな〉
弁当二人分が入った包みを網棚に乗せながら、五郎は思った。失望や落胆はなかった。来ないだろうという予想は、今朝からあった。ぱっとしない中年男と山登りして、面白かろう筈はない。
〈しかも拐帯者と来ているからな〉
昨日の指圧の後味は悪くなかった。自分が自分でない男に間違えられた。つまり本当の自分は消滅した。彼は自分が透明人間になったような気分で、夜の盛り場を歩き廻り、パチンコをやったり、ビヤホールに入ったりした。街の風景は、昼間と違って、違和感はなかった。そして宿に戻る。部屋は上等の方にかわっていた。ぐっすり眠った。
今朝眼が覚めた時、また声にならない声を聞いた。幻聴とまでは行かないが、それに近かった。
「化けおおせたことが、そんなに嬉しいのか?」
彼は顔を洗い、むっとした顔で朝食をとった。食べながら、女中に弁当を二人分つくることを命じた。阿蘇に登るのももの憂い。計画を中止して、ここでじっと待とうか。そうしたいのだが、女指圧師が駅で待っているかも知れない。おそらく来ないだろうと思うが、約束した以上、駅まで行かねばならぬ。
駅まで行った。とうとうすっぽかされたと判った時、よほど宿屋にこのまま戻ろうかと考えた。が、ついに決然と乗ってしまった。坐して迎えを待つのは、やはりいやだったのである。
彼は窓ぎわに腰をおろし、外の景色を眺めていた。しばらく平野を走り、しだいに高地へ登って行く。右側に時々白川が見える。大体白川に沿って汽車は走っているらしい。発電所が見え、大きな滝が見え、火山研究所の建物が見える。天気は昨日につづいて好かった。風もない。阿蘇中岳の火口から、白い煙が垂直に上っている。
昨夜の一時的の躁状態(と言えるかどうか)の反動で、五郎の気分は重く淀んでいた。彼は脱出した病院のことを考えていた。電信柱もチンドン屋も大正エビも、相も変らずベッドに寝そべっているだろう。いなくなった五郎のことなど、もう忘れたかも知れない。彼は今一番興味をもって思い出せるのは、診察室や廊下で顔を合わせるエコーラリイの患者である。その男はまだ三十にならぬ青年だ。病人は多少とも卑屈になり、おどおどした態度を示すものだが、その青年はその気配は微塵も見せなかった。昂然として廊下をまっすぐ歩くのだ。
〈あれはうらやましいな。無責任で〉
医師や看護婦から、病状の質問を受ける。たとえば、
「昨夜はよく眠れたかね」
すると青年はすぐ言い返す。
「昨夜はよく眠れたかね」
何を訊ねても、同じ言葉を返すだけだ。壁を相手にして、ピンポンをやる具合に、同じ球がすぐに戻って来るのである。動作も同じだ。そっくり相手の動作を真似る。
答弁するということは、責任をもってしゃべることだ。その青年は答弁をしない。責任を相手に投げ返すだけだ。すべての責任から逃れている。エコーラリイというのは、病気の本体ではない。症状なのである。その症状がちょっとうらやましい気がするのだ。
一時間余りで、阿蘇駅に着いた。
駅前はごたごたしている。土産物屋や宿屋や、歓迎と書いた布のアーチまで立っている。阿蘇駅が坊中と言っていた時は、もっと素朴で、登山口らしい趣きがあった。
〈なぜおれは阿蘇に登るのか?〉
〈登らなくてはならないのか?〉
五郎はその理由を忘れている。確かにあった筈だが、どうしても思い出せない。睡眠療法を受けると、記憶力がだめになるのだ。それは療法を受ける前に、医師に告げられていた。
バスは八割ぐらいの混み方であった。彼は後部の座席に腰をおろす。バスガールが説明を始める。うねった道がだんだん高くなり、景色が開けて来る。放牧の牛の姿が、ところどころに見える。
草千里というところで、ちょっと停車した。
〈あれは映画セールスマンじゃないか〉
そう気がついたのは、そこを発車してしばらく経ってからである。その丹尾らしい男は、前から三番目の席に坐っていた。坊中からいっしょだったのか、草千里から乗って来たのか、よく判らない。うつむき加減の姿勢で、時々頭を立てて、景色をきょろきょろ見廻す。黒眼鏡をかけている。五郎は視線を網棚に移した。見覚えのある小型トランクが、そこに乗っていた。
〈なぜ丹尾が阿蘇へ――〉
彼はいぶかった。しばらくして思い出した。鹿児島から枕崎へのハイヤーの中で、丹尾がそんなことを言っていた。すると丹尾は鹿児島での商取引は済ませたのか。五郎はじっと丹尾の様子を眺めていた。丹尾は洋酒のポケット瓶を取出し、一口ぐっと飲んで、またポケットにしまう。貧乏ゆすりをしている。何だか落着きがない。――
バスの終点でぞろぞろ降りた。かなり広い待合所がある。そこからケーブルカーが出る。壁にかかった大きな時間表の前に立ち、丹尾は見上げていた。五郎は近づいて、うしろから肩をたたいた。丹尾はぎょっとして振返った。
「あ!」
丹尾は黒眼鏡を外し、とんきょうな声を立てた。丹尾の体から酒のにおいがぷんぷんただよっている。五郎は言った。
「また逢ったね」
「あんた、まだ生きてたんですか?」
君はまだ生きていたのか、と彼は反問しようと思ったがやめた。
「生きているよ。おれに死ぬ理由はない」
「では枕崎でぼくをすっぽかして、どこに行ったんです?」
「坊津に行ったよ」
「おかしいな」
丹尾は首をかしげた。丹尾の顔は疲労のためか、酔いのせいか、四日前にくらべると、すこし憔悴し荒んでいた。
「坊津の宿屋に電話したんですよ。するといなかった」
「電話のあとに到着したんだ。面倒だから、君んとこに連絡しなかった」
丹尾は返事をしないで、彼の顔をじっと見ていた。少し経って、かすれた声で言った。
「散髪しましたね。しかしあんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」
「君には関係ないことだよ」
以前にも同じ質問を受け、同じ答えをしたような気がする。
「君はケーブルカーに乗るんだろ」
「どうしようかと、今考えているところです」
丹尾はトランクを下に置いた。
「来る時の飛行機のことを考えていたんですよ。何だか乗りたくない気がする」
「ケーブルが切れて墜ちることかね?」
五郎は言った。
「君には覚悟が出来てたんじゃなかったのか。いつでも死ねるという――」
「そ、そりゃ出来てますよ」
丹尾は憤然と言った。自尊心を傷つけられたらしく、顔に赤みがさした。
「じゃケーブルに乗りましょう」
ケーブルカーに乗り込む時、丹尾はたしかに力んでいた。必要以上に肩や手に力を入れ、トランクを抱いたまま、眼をつむっている。ケーブルカーの下の土地には、もう緑は見えず、一面茶褐色の岩や石だけである。
終点についた。丹尾は全身から力を抜き、彼といっしょに降りた。火口はすぐである。火口壁の近くに立った時、さすがに五郎も足がすくんだ。
火口壁はほとんど垂直に、あるいは急斜面になっていた。色は茶褐、緑青、黄土などが、微妙に混り合い、深く火口に達している。眼がくるめくほどの高さだ。風がないので、白い煙やガスがまっすぐに立ち昇っている。たぎり立つ熱泥が見える。眺めていると、体ごと引込まれそうだ。丹尾はひとりごとのように言った。
「自殺者にはあつらえ向きの場所だ」
五郎は黙っていた。
〈なぜこの男は、おれと自殺とを結びつけようとするのだろう〉
羽田を発つ時から、丹尾はそう決めてかかっていた。度々訂正をしたのに、その考えを捨てていない。それが彼には解せなかった。
「馬はどうです?」
馬子が馬をひいて近づいて来た。
「火口を一周しますよ」
五郎は手を振って断った。四、五歩後退しながら、丹尾に言った。
「弁当を食べないか?」
「弁当?」
いぶかしげに丹尾は反問した。
「弁当、持ってんですか?」
「持ってるよ。二人前」
彼は風呂敷をといた。中から折詰がふたつ出て来た。丹尾はあきらかに驚愕した。
「ぼくの分もつくって来たんですか?」
彼は返事に迷った。女指圧師のことをしゃべるのは、面倒であり、重苦しくもあった。
「そうだよ」
少し経って彼はうなずいた。
「ひとつは君の分だ」
「ど、どうしてぼくが――」
丹尾はどもった。どもって、絶句した。
火口が見える小高い場所で、丹尾はトランクに腰かけ、彼は平たい岩に腰をおろした。弁当を開き、丹尾はポケット瓶を出してあおった。そして瓶を彼に突出した。
「どうです。いっぱい」
「いや。おれも持っている」
彼はポケットから自分のを取出した。蓋に注いで二杯飲んだ。丹尾はその動作をじっと見ていた。自分の瓶の残りを飲み干した。そして視線を下に向けた。
「これ、駅弁じゃないね」
丹尾の言葉は、とたんにぞんざいになった。
「駅弁にしては、豪華過ぎる」
「君はずいぶん酔っぱらってるね」
「酔っちゃいけないかね」
「そりゃいいけどさ。この弁当は宿屋につくらせたんだ」
「どこの?」
「熊本」
五郎が食べ始めるのを見て、丹尾は安心したように箸をとる。ちらちらと景色を見ながら食べる。
「どうもいけないね」
丹尾は箸を置きながら言った。
「どうもあの穴を食べそうな気になる」
彼もさっきから同じような気がしていた。穴というのは、火口のことだ。あんまり雄大なので、ふと距離感がなくなり、弁当のおかずと同じ大きさに見えるのである。丹尾は景色に背を向け、口を開いた。
「ねえ。賭けをやりませんか?」
「賭け?」
「ええ。金の賭けですよ」
顔が赤黒く染まり、手がすこし慄えている。
「ぼくは火口を一周して来ます」
「どうぞ」
「それでだ」
弁当の残りをトランクにしまいながら、丹尾は言った。
「一周の途中に、ぼくが火口に飛び込むかどうか――」
「それを賭けるというのか」
「そうです」
五郎はめんくらって、ちょっと考えた。突然体の底から、笑いがこみ上げて来た。
「君は自分の生命を賭けようとするのか?」
「笑ってるね」
丹尾はふしぎそうに彼の顔を見た。
「あんたと知合ってから、声を立てて笑うのは、これが初めてだよ」
五郎は笑いやめた。しかし笑いは次々湧いて、彼の下腹を痙攣させた。
「しかし――」
彼は下腹を押えながら言った。
「賭けが成立するかなあ。君が死ぬ方におれが賭けるとする。すると君は飛び込まないで、戻って来るだろう」
「じゃ生きる方に賭けちゃどうです?」
「それでいいのか。君が飛び込むとする。君は賭け金を取れないことになるな」
「ええ。だからぼくが両賭け金を預って、出かける。ぼくが飛び込めば、賭け金も飛び込んで、パアとなる」
「なるほど」
なぜ丹尾がそんな賭けを提案したのか、彼にはよく判らなかった。わけを聞きたい気持も、別段なかった。ただなにものかが彼から離れ、丹尾に飛び移ったらしい。しかしそのことが笑いの原因ではない。笑いは笑いとして、独立に発生した。丹尾は言葉を継いだ。
「もしぼくが戻って来れば、賭け金の全部をあんたに差上げる」
彼は頬杖をつき、すこし考えて言った。
「賭けの金額は、いくらだね?」
「五万円でどうです?」
「五万? そんなに持ってない」
「いくら持ってんですか?」
「二万円」
三田村から送って来た金である。今朝現金にしたばかりだ。
「二万円?」
丹尾はがっかりした表情を見せた。その瞬間、丹尾の中にある死への意志を、彼はありありと嗅ぎ取った。
〈こいつは賭け金を、飛び込むスプリングボードにするつもりだな〉
おめおめと一周して戻れば、丹尾の五万円は彼のものになる。セールスマンという職業で、五万円のただ取られは痛い筈であった。
「いいでしょう、二万円」
丹尾はあきらめるように言った。
「じゃ二万円、出しなさい」
「出すけれどね、おれはそれほど君を信用していないんだ」
「どういうことですか?」
「君に預けると、君は飛び込まないで――」
彼は根子岳の方を指した。
「あの山の方に逃げて行くかも知れない。するとおれは金を詐取されることになる」
「そんなに信用がないのかなあ」
「では君は、おれを信用しているのか?」
丹尾は五郎の顔を見て、黙り込んだ。五郎はしばらく風景を見ていた。彼等二人のすぐ傍を、見物人が通り、また写真を撮ったりしている。見物人たちは、ここで二人の男が何を相談しているのか、全然知らないのだ。笑いがまたこみ上げて来るのを、彼は感じた。
「よろしい。いい方法がある」
丹尾はトランクを開いて、鋏を取出した。そして内ポケットから、一万円紙幣を二枚つまみ出した。五郎の出した二枚の紙幣と重ねる。縦にまっ二つに切った。切り離した半分を、彼に戻した。彼は黙ってその動作を見て、受取った。
「これでいいでしょう。これであんたの二万円も、ぼくの二万円も、使いものにならなくなった」
残りの半分を丹尾は内ポケットにしまい、上衣をぱんぱんと叩いた。
「いっしょにつなぎ合わせれば、四万円として使える。そうでしょ。飛び込めばパアとなる。逃げ出しても、ぼくはこれを使えない」
「半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな」
「冗談でしょう。半分が一枚に通用するなら、世のサラリーマンは自分の月給をじょきじょき切って二倍にして使うよ」
「それもそうだね。君が逃げ出すと、両方損だ」
丹尾はゆっくり立ち上った。トランクを持ち上げる。
「トランクも持って行くのかい?」
「ええ。何も持たないと、自殺者と間違えられる」
「だって自殺するんだろう」
「自殺するとは言いませんよ」
丹尾はきっとした眼で、五郎を見た。
「火口を一巡りして、自分がどんな気持になるか、知りたいだけですよ。二万円でそれが判れば、安いもんだ」
「そうか。そうか」
五郎は合点合点をした。
「ではここで待っているよ」
丹尾は彼に背を向け、歩き出した。火口の左に進路を取る。五郎は弁当の残りを食べながら、その後姿を見ていた。
〈あいつ、弁当の残りを詰めて行ったが、トランクもろとも飛び込むつもりかな〉
後姿がだんだん小さくなって行く。動悸がし始めたので、彼はあわてて弁当を捨て、小瓶の酒を飲む。掌に汗が滲んで来た。
五郎の視野の中で、もう丹尾の姿は豆粒ほどになっている。突然それが立ちどまる。火口をのぞいているらしい。また歩き出す。
五郎は小高い場所からかけ降りた。あいつが死ねるものかという気分と、死ぬかも知れないという危懼が交錯して、五郎をいらいらさせている。火口の縁に、有料の望遠鏡がある。五郎はそれに取りついて、十円玉を入れる。もう丹尾は半分近くを廻っている。
無気味なほど鮮やかな火口壁が、いきなり眼に飛び込んで来た。五郎は用心深く仰角を上げる。二度三度左右に動かし、やっと丹尾の姿をとらえる。丹尾は歩いている。立ち止って、火口をのぞく。その真下に噴火口がある。五郎は望遠鏡を下方に移す。壁は垂直に火口から立っている。火口には熱泥がぶくぶくと泡立っている。
〈あそこに飛び込めば、イチコロだな〉
眺めているのが苦痛になって来たので、彼は荒々しく望遠鏡を上げる。高岳や根子岳、外輪山、その果てに遠くの山脈が重なり合っている。その上にすさまじい青さで、空がひろがっている。時間が来て、まっくらになる。五郎はまた十円玉を入れた。ふたたび視野に、丹尾の姿が戻って来た。
丹尾はトランクを下に置き、それに腰かけていた。ハンカチで汗を拭いている。拭き終ると、立ち上る。トランクを提げて歩き出す。くたびれたのか、足の動きが緩慢だ。ちょっとよろよろとした。石につまずいたのだろう。丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中で叫んでいる。
「しっかり歩け。元気出して歩け!」
もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなって行くようだ。そしてふらふらと歩き出す。――