幻化

11話

6,503字 約13分 2016年2月29日 公開

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 九時三十四分の準急。ぎりぎりまで待ったが、女は来なかった。五郎は風呂敷包みを提げ、決然と改札口を通った。座席はわりにすいていた。汽車は動き出した。

〈やはり来なかったな〉

 弁当二人分が入った包みを網棚に乗せながら、五郎は思った。失望や落胆はなかった。来ないだろうという予想は、今朝からあった。ぱっとしない中年男と山登りして、面白かろう筈はない。

〈しかも拐帯者(かいたいしゃ)と来ているからな〉

 昨日の指圧の後味は悪くなかった。自分が自分でない男に間違えられた。つまり本当の自分は消滅した。彼は自分が透明人間になったような気分で、夜の盛り場を歩き廻り、パチンコをやったり、ビヤホールに入ったりした。街の風景は、昼間と違って、違和感はなかった。そして宿に戻る。部屋は上等の方にかわっていた。ぐっすり眠った。

 今朝眼が覚めた時、また声にならない声を聞いた。幻聴とまでは行かないが、それに近かった。

「化けおおせたことが、そんなに嬉しいのか?」

 彼は顔を洗い、むっとした顔で朝食をとった。食べながら、女中に弁当を二人分つくることを命じた。阿蘇に登るのももの()い。計画を中止して、ここでじっと待とうか。そうしたいのだが、女指圧師が駅で待っているかも知れない。おそらく来ないだろうと思うが、約束した以上、駅まで行かねばならぬ。

 駅まで行った。とうとうすっぽかされたと判った時、よほど宿屋にこのまま戻ろうかと考えた。が、ついに決然と乗ってしまった。坐して迎えを待つのは、やはりいやだったのである。

 彼は窓ぎわに腰をおろし、外の景色を眺めていた。しばらく平野を走り、しだいに高地へ登って行く。右側に時々白川が見える。大体白川に沿って汽車は走っているらしい。発電所が見え、大きな滝が見え、火山研究所の建物が見える。天気は昨日につづいて好かった。風もない。阿蘇中岳の火口から、白い煙が垂直に上っている。

 昨夜の一時的の躁状態(と言えるかどうか)の反動で、五郎の気分は重く(よど)んでいた。彼は脱出した病院のことを考えていた。電信柱もチンドン屋も大正エビも、相も変らずベッドに寝そべっているだろう。いなくなった五郎のことなど、もう忘れたかも知れない。彼は今一番興味をもって思い出せるのは、診察室や廊下で顔を合わせるエコーラリイの患者である。その男はまだ三十にならぬ青年だ。病人は多少とも卑屈になり、おどおどした態度を示すものだが、その青年はその気配は微塵(みじん)も見せなかった。昂然(こうぜん)として廊下をまっすぐ歩くのだ。

〈あれはうらやましいな。無責任で〉

 医師や看護婦から、病状の質問を受ける。たとえば、

「昨夜はよく眠れたかね」

 すると青年はすぐ言い返す。

「昨夜はよく眠れたかね」

 何を訊ねても、同じ言葉を返すだけだ。壁を相手にして、ピンポンをやる具合に、同じ球がすぐに戻って来るのである。動作も同じだ。そっくり相手の動作を真似る。

 答弁するということは、責任をもってしゃべることだ。その青年は答弁をしない。責任を相手に投げ返すだけだ。すべての責任から逃れている。エコーラリイというのは、病気の本体ではない。症状なのである。その症状がちょっとうらやましい気がするのだ。

 一時間余りで、阿蘇駅に着いた。

 駅前はごたごたしている。土産物屋や宿屋や、歓迎と書いた布のアーチまで立っている。阿蘇駅が坊中と言っていた時は、もっと素朴で、登山口らしい(おもむ)きがあった。

〈なぜおれは阿蘇に登るのか?〉

〈登らなくてはならないのか?〉

 五郎はその理由を忘れている。確かにあった筈だが、どうしても思い出せない。睡眠療法を受けると、記憶力がだめになるのだ。それは療法を受ける前に、医師に告げられていた。

 バスは八割ぐらいの混み方であった。彼は後部の座席に腰をおろす。バスガールが説明を始める。うねった道がだんだん高くなり、景色が開けて来る。放牧の牛の姿が、ところどころに見える。

 草千里というところで、ちょっと停車した。

〈あれは映画セールスマンじゃないか〉

 そう気がついたのは、そこを発車してしばらく経ってからである。その丹尾(にお)らしい男は、前から三番目の席に坐っていた。坊中からいっしょだったのか、草千里から乗って来たのか、よく判らない。うつむき加減の姿勢で、時々頭を立てて、景色をきょろきょろ見廻す。黒眼鏡をかけている。五郎は視線を網棚に移した。見覚えのある小型トランクが、そこに乗っていた。

〈なぜ丹尾が阿蘇へ――〉

 彼はいぶかった。しばらくして思い出した。鹿児島から枕崎へのハイヤーの中で、丹尾がそんなことを言っていた。すると丹尾は鹿児島での商取引は済ませたのか。五郎はじっと丹尾の様子を眺めていた。丹尾は洋酒のポケット瓶を取出し、一口ぐっと飲んで、またポケットにしまう。貧乏ゆすりをしている。何だか落着きがない。――

 バスの終点でぞろぞろ降りた。かなり広い待合所がある。そこからケーブルカーが出る。壁にかかった大きな時間表の前に立ち、丹尾は見上げていた。五郎は近づいて、うしろから肩をたたいた。丹尾はぎょっとして振返った。

「あ!」

 丹尾は黒眼鏡を(はず)し、とんきょうな声を立てた。丹尾の体から酒のにおいがぷんぷんただよっている。五郎は言った。

「また逢ったね」

「あんた、まだ生きてたんですか?」

 君はまだ生きていたのか、と彼は反問しようと思ったがやめた。

「生きているよ。おれに死ぬ理由はない」

「では枕崎でぼくをすっぽかして、どこに行ったんです?」

「坊津に行ったよ」

「おかしいな」

 丹尾は首をかしげた。丹尾の顔は疲労のためか、酔いのせいか、四日前にくらべると、すこし憔悴(しょうすい)し荒んでいた。

「坊津の宿屋に電話したんですよ。するといなかった」

「電話のあとに到着したんだ。面倒だから、君んとこに連絡しなかった」

 丹尾は返事をしないで、彼の顔をじっと見ていた。少し経って、かすれた声で言った。

「散髪しましたね。しかしあんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」

「君には関係ないことだよ」

 以前にも同じ質問を受け、同じ答えをしたような気がする。

「君はケーブルカーに乗るんだろ」

「どうしようかと、今考えているところです」

 丹尾はトランクを下に置いた。

「来る時の飛行機のことを考えていたんですよ。何だか乗りたくない気がする」

「ケーブルが切れて()ちることかね?」

 五郎は言った。

「君には覚悟が出来てたんじゃなかったのか。いつでも死ねるという――」

「そ、そりゃ出来てますよ」

 丹尾は憤然と言った。自尊心を傷つけられたらしく、顔に赤みがさした。

「じゃケーブルに乗りましょう」

 ケーブルカーに乗り込む時、丹尾はたしかに力んでいた。必要以上に肩や手に力を入れ、トランクを抱いたまま、眼をつむっている。ケーブルカーの下の土地には、もう緑は見えず、一面茶褐色の岩や石だけである。

 終点についた。丹尾は全身から力を抜き、彼といっしょに降りた。火口はすぐである。火口壁の近くに立った時、さすがに五郎も足がすくんだ。

 火口壁はほとんど垂直に、あるいは急斜面になっていた。色は茶褐、緑青、黄土などが、微妙に混り合い、深く火口に達している。眼がくるめくほどの高さだ。風がないので、白い煙やガスがまっすぐに立ち昇っている。たぎり立つ熱泥(ねつでい)が見える。眺めていると、体ごと引込まれそうだ。丹尾はひとりごとのように言った。

「自殺者にはあつらえ向きの場所だ」

 五郎は黙っていた。

〈なぜこの男は、おれと自殺とを結びつけようとするのだろう〉

 羽田を発つ時から、丹尾はそう決めてかかっていた。度々訂正をしたのに、その考えを捨てていない。それが彼には()せなかった。

「馬はどうです?」

 馬子が馬をひいて近づいて来た。

「火口を一周しますよ」

 五郎は手を振って断った。四、五歩後退しながら、丹尾に言った。

「弁当を食べないか?」

「弁当?」

 いぶかしげに丹尾は反問した。

「弁当、持ってんですか?」

「持ってるよ。二人前」

 彼は風呂敷をといた。中から折詰がふたつ出て来た。丹尾はあきらかに驚愕した。

「ぼくの分もつくって来たんですか?」

 彼は返事に迷った。女指圧師のことをしゃべるのは、面倒であり、重苦しくもあった。

「そうだよ」

 少し経って彼はうなずいた。

「ひとつは君の分だ」

「ど、どうしてぼくが――」

 丹尾はどもった。どもって、絶句した。

 火口が見える小高い場所で、丹尾はトランクに腰かけ、彼は平たい岩に腰をおろした。弁当を開き、丹尾はポケット瓶を出してあおった。そして瓶を彼に突出した。

「どうです。いっぱい」

「いや。おれも持っている」

 彼はポケットから自分のを取出した。(ふた)に注いで二杯飲んだ。丹尾はその動作をじっと見ていた。自分の瓶の残りを飲み干した。そして視線を下に向けた。

「これ、駅弁じゃないね」

 丹尾の言葉は、とたんにぞんざいになった。

「駅弁にしては、豪華過ぎる」

「君はずいぶん酔っぱらってるね」

「酔っちゃいけないかね」

「そりゃいいけどさ。この弁当は宿屋につくらせたんだ」

「どこの?」

「熊本」

 五郎が食べ始めるのを見て、丹尾は安心したように箸をとる。ちらちらと景色を見ながら食べる。

「どうもいけないね」

 丹尾は箸を置きながら言った。

「どうもあの穴を食べそうな気になる」

 彼もさっきから同じような気がしていた。穴というのは、火口のことだ。あんまり雄大なので、ふと距離感がなくなり、弁当のおかずと同じ大きさに見えるのである。丹尾は景色に背を向け、口を開いた。

「ねえ。賭けをやりませんか?」

「賭け?」

「ええ。金の賭けですよ」

 顔が赤黒く染まり、手がすこし慄えている。

「ぼくは火口を一周して来ます」

「どうぞ」

「それでだ」

 弁当の残りをトランクにしまいながら、丹尾は言った。

「一周の途中に、ぼくが火口に飛び込むかどうか――」

「それを賭けるというのか」

「そうです」

 五郎はめんくらって、ちょっと考えた。突然体の底から、笑いがこみ上げて来た。

「君は自分の生命を賭けようとするのか?」

「笑ってるね」

 丹尾はふしぎそうに彼の顔を見た。

「あんたと知合ってから、声を立てて笑うのは、これが初めてだよ」

 五郎は笑いやめた。しかし笑いは次々湧いて、彼の下腹を痙攣(けいれん)させた。

「しかし――」

 彼は下腹を押えながら言った。

「賭けが成立するかなあ。君が死ぬ方におれが賭けるとする。すると君は飛び込まないで、戻って来るだろう」

「じゃ生きる方に賭けちゃどうです?」

「それでいいのか。君が飛び込むとする。君は賭け金を取れないことになるな」

「ええ。だからぼくが両賭け金を預って、出かける。ぼくが飛び込めば、賭け金も飛び込んで、パアとなる」

「なるほど」

 なぜ丹尾がそんな賭けを提案したのか、彼にはよく判らなかった。わけを聞きたい気持も、別段なかった。ただなにものかが彼から離れ、丹尾に飛び移ったらしい。しかしそのことが笑いの原因ではない。笑いは笑いとして、独立に発生した。丹尾は言葉を()いだ。

「もしぼくが戻って来れば、賭け金の全部をあんたに差上げる」

 彼は頬杖をつき、すこし考えて言った。

「賭けの金額は、いくらだね?」

「五万円でどうです?」

「五万? そんなに持ってない」

「いくら持ってんですか?」

「二万円」

 三田村から送って来た金である。今朝現金にしたばかりだ。

「二万円?」

 丹尾はがっかりした表情を見せた。その瞬間、丹尾の中にある死への意志を、彼はありありと嗅ぎ取った。

〈こいつは賭け金を、飛び込むスプリングボードにするつもりだな〉

 おめおめと一周して戻れば、丹尾の五万円は彼のものになる。セールスマンという職業で、五万円のただ取られは痛い筈であった。

「いいでしょう、二万円」

 丹尾はあきらめるように言った。

「じゃ二万円、出しなさい」

「出すけれどね、おれはそれほど君を信用していないんだ」

「どういうことですか?」

「君に預けると、君は飛び込まないで――」

 彼は根子岳の方を指した。

「あの山の方に逃げて行くかも知れない。するとおれは金を詐取(さしゅ)されることになる」

「そんなに信用がないのかなあ」

「では君は、おれを信用しているのか?」

 丹尾は五郎の顔を見て、黙り込んだ。五郎はしばらく風景を見ていた。彼等二人のすぐ傍を、見物人が通り、また写真を撮ったりしている。見物人たちは、ここで二人の男が何を相談しているのか、全然知らないのだ。笑いがまたこみ上げて来るのを、彼は感じた。

「よろしい。いい方法がある」

 丹尾はトランクを開いて、(はさみ)を取出した。そして内ポケットから、一万円紙幣を二枚つまみ出した。五郎の出した二枚の紙幣と重ねる。縦にまっ二つに切った。切り離した半分を、彼に戻した。彼は黙ってその動作を見て、受取った。

「これでいいでしょう。これであんたの二万円も、ぼくの二万円も、使いものにならなくなった」

 残りの半分を丹尾は内ポケットにしまい、上衣をぱんぱんと叩いた。

「いっしょにつなぎ合わせれば、四万円として使える。そうでしょ。飛び込めばパアとなる。逃げ出しても、ぼくはこれを使えない」

「半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな」

「冗談でしょう。半分が一枚に通用するなら、世のサラリーマンは自分の月給をじょきじょき切って二倍にして使うよ」

「それもそうだね。君が逃げ出すと、両方損だ」

 丹尾はゆっくり立ち上った。トランクを持ち上げる。

「トランクも持って行くのかい?」

「ええ。何も持たないと、自殺者と間違えられる」

「だって自殺するんだろう」

「自殺するとは言いませんよ」

 丹尾はきっとした眼で、五郎を見た。

「火口を一巡(ひとめぐ)りして、自分がどんな気持になるか、知りたいだけですよ。二万円でそれが判れば、安いもんだ」

「そうか。そうか」

 五郎は合点合点をした。

「ではここで待っているよ」

 丹尾は彼に背を向け、歩き出した。火口の左に進路を取る。五郎は弁当の残りを食べながら、その後姿を見ていた。

〈あいつ、弁当の残りを詰めて行ったが、トランクもろとも飛び込むつもりかな〉

 後姿がだんだん小さくなって行く。動悸がし始めたので、彼はあわてて弁当を捨て、小瓶の酒を飲む。掌に汗が(にじ)んで来た。

 五郎の視野(しや)の中で、もう丹尾の姿は豆粒ほどになっている。突然それが立ちどまる。火口をのぞいているらしい。また歩き出す。

 五郎は小高い場所からかけ降りた。あいつが死ねるものかという気分と、死ぬかも知れないという危懼(きく)が交錯して、五郎をいらいらさせている。火口の(ふち)に、有料の望遠鏡がある。五郎はそれに取りついて、十円玉を入れる。もう丹尾は半分近くを廻っている。

 無気味なほど鮮やかな火口壁が、いきなり眼に飛び込んで来た。五郎は用心深く仰角(ぎょうかく)を上げる。二度三度左右に動かし、やっと丹尾の姿をとらえる。丹尾は歩いている。立ち止って、火口をのぞく。その真下に噴火口がある。五郎は望遠鏡を下方に移す。壁は垂直に火口から立っている。火口には熱泥がぶくぶくと泡立っている。

〈あそこに飛び込めば、イチコロだな〉

 眺めているのが苦痛になって来たので、彼は荒々しく望遠鏡を上げる。高岳や根子岳、外輪山、その果てに遠くの山脈が重なり合っている。その上にすさまじい青さで、空がひろがっている。時間が来て、まっくらになる。五郎はまた十円玉を入れた。ふたたび視野に、丹尾の姿が戻って来た。

 丹尾はトランクを下に置き、それに腰かけていた。ハンカチで汗を拭いている。拭き終ると、立ち上る。トランクを提げて歩き出す。くたびれたのか、足の動きが緩慢(かんまん)だ。ちょっとよろよろとした。石につまずいたのだろう。丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中で叫んでいる。

「しっかり歩け。元気出して歩け!」

 もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなって行くようだ。そしてふらふらと歩き出す。――

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